ミューズ猫

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第1話

 いつもより水の音が大きく聴こえる日だった。宿を出て露地に入り込み、かなり河から離れたと思われる場所になっても、その、耳鳴りに似た水の音はしつこいくらいかおりの耳にこびりついたまま離れなかった。

 耳鳴りに半分心奪われたままかおりは、今朝見たあの死体のせいかもしれない、と思ってみる。

 今朝、坂倉と二人で乗った観光用の小舟の上から見たその死体はまだあまり水を吸ってはいないようでそんなに膨れてはいなかったが、それでももうかなり、人間でないと思えるほど容積を増していて、妙な存在感を持った物体だった。

 そういった死体は、河を眺めてさえいれば一日に何度か上流から流れてくるものだから、河に浮かんだ死体を見る事に対して、自分はもうすでに免疫が出来てはいるはずで、そう驚くことはないはずだ、とかおりは思う。

 そう考えてみると、手の届きそうなほどの至近距離から見た、今朝の、あの死体だけが自分にとって何か特別な死体のような気がした。

 左足の小指に、いわくいいがたい冷たい感触を感じて、かおりは足を止め、自分の左足を見た。

 かおりの左足は露地に数多く落ちている牛糞のひとつに接触してしまっていた。かおりは少しだけその、嫌らしい感触の排泄物を嫌悪し、憎んだが、接触した部分が小指だけだったことを思ってじきに安堵した。

 洗い流す水も近くに見つかりそうにないし、乾けば吹き出物が落ちるように剥離しぽろりと落ちるだろうと思い、再び歩き始める。まだ、水の音は大きくかおりの耳に響き続けていた。


 寛之の宿に行き、受付の男に挨拶して、勝手に寛之の部屋へ行く。扉には鍵がかかっていた。かおりは時計を見る。午前八時四十四分。おそらく食事にでも出たのだろうと思い、受付の前の椅子に座って待つことにした。本でも読んで待っていようと文庫本を開いた途端、

「あの日本人に会いに来たのか?」

 と向かい側に座っていた受付の男がかおりに訊いた。かおりは首を縦に振る。

「彼なら昨晩から戻って来てない」

 男はそう言い放つとすぐ、かおりから視線を外す。

 かおりは男に急かされているような気がしてそこに居続けることが辛く思えた。また来る、と言ってかおりは立ち上がり、逃げるように宿を出た。

 外を歩きながら思い出したように足元に目を配ると左足の小指に五百円玉ほどの大きさで付着していた牛糞は、既に乾燥してただの土になってしまっていた。微かに感じられていた排泄物特有の臭いも、もうなくなっていた。

 昨日と同じくらいの暑さだ、とかおりは自分の周りを取り巻いている空気を肌全体で感じながら思う。いかなる汚物も、日に曝され、乾いてしまえばただの土だった。

 かおりはここに来てその事を改めて知ると同時に、昨日会って、抱き合い、口唇を合わせた寛之が宿にいない、と言う事実について改めて考えを巡らせ始めた。

「あれ、どしたん。寛之君は?」

 宿に戻るなり、坂倉がかおりに聞いた。合部屋には坂倉がここに来てから気に入っているという小さな葉巻煙草の煙が薄く匂っていた。

「いなかった」

 床に腰を下ろしながら、かおりはそう答える。

「そしたら荷物持っていかんで良かったなぁ、飯でも食いにいっとんのとちゃう?」

「でも、宿の人は昨日から帰ってない、って言ってた」

「なんやそれ」

「知らない」

「でも、奴らの言うことやからなぁ」

 そう言って坂倉は新しい葉巻を取り出し、マッチで火を点けた。他の旅行者は既に出かけてしまった後らしく、合部屋はかおりと坂倉の二人だけだった。

 坂倉とじゃれ合っていた猫が、かおりが帰ってきたのに気付き、かおりの胸に飛びつき爪を立てる。

「注意した方がええで、こいつ、今日、なんか荒れてんねん」

 坂倉はそう言いながら、厄介払いが出来たというように服の胸元の前を両手ではたいた。白い毛が、熱い空気の中で舞い上がる。

 かおりは自分の胸に這い上がってきた猫をゆっくり抱き直しながら、窓の下に流れる河の水音に耳を傾けた。河がすぐそばにあるというのに、不思議と水音の大きさ自体は露地を歩いていたときと同じに感じられた。音の大きさも、時折聞こえる洗濯物を河岸の階段にぶつけて洗う音も、少し離れた露地で聞いていた耳鳴りのようなあの音と全く同質のもののようで、何も変わってはいなかった。

「今日、一緒に寺院見に行くって約束、したのになぁ」

 かおりが、力一杯搾られたあと、水に漬けられた海綿のように、全身から力を抜きながらそう言い終わるか終わらないうちに、猫がかおりの口に激しく鼻先を押し付けた。湿った感触を下唇に感じて、かおりは瞬時に顔をしかめる。

「おお、なんかすごいな今日は」

 坂倉のその言葉が終わるか終わらないうちにかおりは、

「うぇえ」

 と嗚咽とも嘔吐とも不満の表明ともつかないような音声を発して右手の甲で口唇を拭い、そのついでのように、まだ、自分が牛糞に接触した左足を洗っていなかったことを思い出した。

 寛之はひとりで食事に行ったのだろうと思い、かおりはこれ以上待つことをやめ、坂倉と二人で食事に行くことにした。空腹だった。

 しつこくかおりにまとわりついていた猫は、宿を出る際、管理人の手で引き止められ、宿の中に残されることになった。


 かおりは坂倉と並んで、牛糞の位置に気を配りながら露地を歩いた。歩き始めると、さっきまであんなに気になっていた水音は、思い出さなければさほど、気にならなくなっていた。

 店に入るとかおりは、坂倉と同じ定食を頼んだ。席に着く前に洗面台に行き、手を丁寧に洗う。

 こっちに来てからかおりは手を洗う、と言う行為を楽しく感じるようになっていた。石鹸を泡立て、肌に塗りたくって水で洗い流す。そのたびごとにかおりは必ずと言っていいほど手の甲までも丁寧に洗った。きれいに洗ったあとの手は、まるで自分のものじゃない、新しく生産されたつくりもののようにさえ感じて、それが新鮮だった。


 宿に戻ってかおりは浴室に行き、初めて足を洗った。と言うより水を浴びるついでに結果的に足を洗う事になった、と言う方が正しかった。宿に戻ってきた途端に鬱陶しいほど再びまとわりつき始めた猫を苦労して水浴室の外に出し、かおりは服を脱いだ。

 水を浴びたらもう一度かおりは、寛之の宿に行ってみるつもりだった。誰か知っている人間にでもばったり会って遊んでるんだったら、もうそろそろ戻って来る頃だろうし、坂倉の言うようにこの街の人間の言う事だから、本当はとっくに戻っていて、ただ、食事や買い物のために外出していただけだという事も考えられる。部屋に鍵が掛かっているという事実以外は、あまりあてにならない。

 買い物と言えばかおりは、今日から寛之の宿に二人で泊まることになっていたというのに自分が新しく何も用意していない事に気付いた。

 とりあえず、石鹸が必要だ、とかおりは自分の右手の中でもうかなり小さくなってしまった石鹸をくるくるくるくると回転させながら思ったが、石鹸の他には、これといって必要なものは何も思いつかなかった。

 まだ昼前で、チェックアウトの時間までは少し余裕があったので、荷物はそのままにしてかおりは外に出ることにした。石鹸を買わなければならなかった。

 猫はかおりに相変わらずまとわりついてきて水を浴びた意味が無くなるほどにかおりの肌に体を擦り付け白い毛を付着させはじめた。かおりはそんな猫を少し鬱陶しく感じ始めていた。


 露地の雑貨屋で、値段交渉にいらいらしながらかおりは石鹸を四個買った。店員は最初、おととい買ったときの一・五倍の値段を言い値として提示してきた。おとといですら、そう安いとは思えない値段で買ったのに、いきなりこんなに値段が跳ね上がるのは、どうしても納得がいかなかった。

 かおりは、どうしてこんなに高いんだ、と店員に訊く。店員は、雨がたくさん降って河が増水したから今日は輸送が困難なんだ、と微笑みながらいけしゃあしゃあと言う、本当にこの街の人間の嘘だけは、河の水のようによどみなく次から次へと流れ出てくる、とかおりは思う。

 これ以上話し続けて疲れてしまうのが嫌だったので、かおりは店員に、いらない、と言い、背中を向け店の外に出ようとすると、その途端に背後から声がして石鹸の値段はおとといと同じになった。

 ついでのように足をのばして行ってみた寛之の部屋には相変わらず南京錠が掛かっていた。南京錠には誰かが触れた気配すらなかった。仕方なく降りてゆくと、

「彼はまだ帰ってきてないよ」

 と受付の男が言う。かおりは仕方なく自分の宿に戻ることにした。彼が戻ってきたら、あんたが二回、訪ねてきたって伝えとくよ、と言う受付の男の言葉だけがかおりの背中に当たった。


 宿に戻って合部屋への階段を昇り、坂倉に相談しようとした瞬間、再び猫がかおりの背中にまとわりついた。かおりはその猫をひどく鬱陶しく感じたが、かまうことなくそのまま背中に猫を背負ったまま階段を上がっていった。

「ねえ見てよ、この猫、ひどいのよ。これじゃ服が破れちゃうよ」

 かおりは自分の後頭部に爪を建てている猫の首筋に手を掛けて言った。

「なんや、ひとりかいな、彼は?」

「まだ帰って来てない、って」

 頭の上を越え舞い降りた猫の白い毛が、ふわりとかおりの睫毛の上に乗る。かおりは瞼を右手で擦ってその毛を払うと煩わしく首の後ろにまとわりついている猫を引き剥がして床の上に放り投げるように置く。

 何もかもが煩わしい、とかおりは思った。自分のまわりを舞う猫の毛も、その発生源であるしつこくまとわりつく猫も、そして、寛之と交わした昨日の約束でさえも、

「ねぇ、その煙草、一本ちょうだい」

 もうかなり短くなった葉巻煙草を指の間で持て余している坂倉に向かって言った。

「なんや、喫う人やったんかい」

「まぁ、たまにね」

 マッチをその、昼顔の小さな蕾ほどの葉巻に近づけ、注意深く火を点けて、かおりはそのままゆっくりと煙を喫い込んだ。喉に煙が入ろうとした瞬間にかおりは、車が下り坂で変速機を下げて徐行するように注意深く吸い込む煙の量を調節した。高い煙の濃度を感じたからだった。

 今まで、何かのきっかけでたまに喫ったどんな煙草よりもその煙は濃く、強かった。山奥の渓流脇に転がっている、ゆっくりと触れなければ皮膚が擦り剥けそうなほどに鋭利な岩の表面、といった感じだった。

 毒そのものだ、とかおりは思った。再び自分にまとわりつこうとした猫を冷たく右手で払うと、かおりは時間をかけて肺の入口まで行って引き返して来た煙を吐き出した。少しだけ噎せ、軽い眩暈がした。頭が心臓のように脈打っていた。

 坂倉が、戻って来ない寛之に対してたてた推測はこうだった。まず、知人か何かにあってそのままその人と一緒にいる。更にその友人と大麻草や、大麻樹脂以上の阿片とか幻覚剤、覚醒剤とか、何かしらの薬物的なものもしくは薬物そのものにはまって効いたまま、そのままである可能性。

「まぁそれならいいけど……」

 と坂倉は前置きして、

「まぁそれならエルとかが悪い方に効きすぎてどっか高いとこから飛び降りたりせん限り、効いてんのが切れればまともに約束ぐらい思い出すやろうから心配せんでも顔見せるやろうけど……。問題はあれやな、何かに巻きこまれた場合やな。まぁ、ここの宿の入口にも貼ってあるけど、ここじゃ、たまに旅行者が行方不明になるらしいからなあ。たいてい身ぐるみ剥がされたら暗いうちに河にざぶん、て投げられて、みんな水の流れるままに海まで流れていく途中にきれいに形もなんもなくなってそいで終わりや。今朝も見たやろ」


「うん」

 坂倉の言葉に声を出して頷きながらかおりは、今朝見たあの死体を再び思い出した。考えてみればあの、あちこちがどす黒い赤色や桃色に腫れ上がった死体が寛之であっても何ひとつおかしくはないのだ。

 この街では、ちょっと気を抜いて歩くと牛糞に足を突っ込んでしまうのと同じくらいの確率で、何が起こるかわからない。

「あ、それ、ちょくちょく喫うとらんと、火ィ、消えてまうで」

 そう言って坂倉が投げたマッチを受け取り、再び消えかかった火玉にその温度と光量が命のそのもののような炎を近づけるとかおりはさっきより強めに煙を喫い込んだ。免疫が出来たのか、今度は噎せなかった。

 かおりは蒸気船のように小刻みな間隔で煙を喫い、吐き出し続けた。猫が再び斜め後ろからかおりに近づこうとしていた。かおりはその猫の動きが、次第に人間らしく生意気になっているようにも思えて、すごくむかついた。

 潮が引くように身体の中から優しくたゆたうようなやすらかさが消えてゆき、津波のような速さで増大した怒りに押し出されるように、かおりは横座りにしていた左足で猫を蹴ろうとして足を伸ばしたが、足は猫に当たることなく空を切った。逃げた猫の動作はさらにかおりの嫌いな種類の人間じみていた。

 ずっといじめっ子だった昔にいじめられっ子が見せたあの媚びるような卑屈な笑顔をかおりは思い出し、むかついてさらに追い打ちをかけようと思って葉巻を灰皿で押し潰して立ち上がろうとしたが、猫はかおりの殺気を感じ取ったのか、すばやく飛び退いて距離をとった。

 結局その日の午後はひっきりなしに喫った葉巻のお陰で頭がくらくらしたせいで、かおりはずっと横になってぼーっとしていた。横になってうとうとしていたお陰で、かおりは少しだけ寛之のことを考えずにすんだ。

 ふと、気がつくとかおりは自分が眠ってしまっていたことに気付いた。針が付いたままの雲丹を一口で丸かじりする夢を見ていて、目を開けると、視界に自分の口元に鼻先を突き入れようとしている猫の姿があった。猫の鼻先は完全にかおりの上顎と下顎の間に入ってしまっていた。

 かおりはあわてて立ち上がり、駆け出すと、水浴室のある階下に降り、口を濯いだ。身体中からこみ上げてきた怒りそのもののように、水を口から一気に吐き出して、かおりは階段を上って合部屋に戻った。猫に折檻しようと思ったのだ。もう二度と自分に近づけないようなほどの痛みを、あの猫に与えなければならない、と思った。

 合部屋に戻ると猫はもういなかった。殺気を察知して、姿をくらますところなど、まさにいじめられっ子そのものだとかおりは思った。いじめられ慣れたいじめられっ子は、いじめられてもいい時とそうでない時を敏感に察知し、いじめっ子から逃げるだけでなく、時折自分から近づいたりする。距離の取り方がうまく、どうやっていじめられれば自分がいじめという愛を身の回りに集めておけるか良く知っているのだ。

「あの猫は?」

 一気に階段を駆け昇ったためか、まだ息の荒いかおりは、お誕生日会で蝋燭でも吹き消すように短く一息で言葉を吐き、そこにいた坂倉に訊いた。もうほとんど河面に沈んでしまっていた夕陽の、焦げたような朱色の逆光に顔を染められたままこちらに向き直った坂倉は、

「屋上に昇って行きよったわ」と言う。

「あの猫、私の口に頭を突っ込もうとしたのよ」

 かおりはかなり激して言ったが、坂倉以外の合部屋の宿泊客は見向きもしなかった。

「何かあの猫、今朝から妙に馴れ馴れしいなぁ、ボクの口にも何度か入ろうとしよった」

「入ろうとしよった、じゃないでしょ、あの猫の頭に何かの病原菌かなんかついてたらどうすんのよ」

 かおりは、頭では坂倉に対して怒っても仕方がないことはわかってはいたが怒らずにはいられなかった。いじめっ子はいじめたいときや怒りたいときにいじめたり怒ったりするだけで、その対象が誰だろうとそんなことはどうでもいいのだ。

 荒い息を整えながらかおりは、もしかしたら自分が怒りたいのは自分の目の前にいる坂倉でも、今朝から妙に馴れ馴れしい猫でもなく、昨日一緒に大麻草入りのヨーグルトを飲み、平坦でゆるやかな時間を共有したのにもかかわらず自分の前から姿を消してしまった寛之なのかもしれない、と思う。

「まあまあ、落ち着きなさい。さっきキミが寝てる間にボクが薬用石鹸ミューズであの猫全身洗ってやったから大丈夫やで、多分」

「何でそんなもの持ってんの?」

「日本から持ってきた。ほら、一応海外旅行に行くときの基本やろ、ミューズは、やっぱり」

 当然だというように坂倉がそう言い切ると、合部屋の隅の方に散り散りに寝転がっていた三人の男がくすくすと笑う。関心ないふりして、二人の話を聞いていたらしかった。


 坂倉が、使うか? といって差し出したリステリンで口を再び濯ぎ直し、かおりは何故、坂倉がリステリンや薬用石鹸なんか用意周到に持ち歩いているのだろう? と思うと同時に、自分が寝ている間に寛之からは何かしら連絡があったのだろうか? と考えた。

 もし本当に寛之が薬物に近いものや薬物そのものをやっていたとしてその効果から醒めているとするなら、もうそろそろかおりとの約束を思い出してここに訪ねて来てもいいはずはずだった。

 昨晩から屋上に干していて、さっき取り込んだばかりの手巾で口元を拭いながらかおりは階段を上がり、坂倉に、

「彼、訪ねてこなかった?」と訊いた。坂倉は首を横に振り、

「まぁ、今日は遅いし、だいぶ暗くなってきたから、明日また、彼の部屋に行ってみればええんちゃう?」

 と言う。かおりは一応坂倉の言葉に納得すると、他にする事もなかったので合部屋の隅に寝転がったまま、外枠が青く塗られたこの国の旅行案内本を拡げて、本来ならば今日、寛之と一緒に行くはずだった寺院がある場所への交通手段とその後寛之と二人でどこへゆくかを考えながら、読み進めていった。

 この国は、まわろうと思えば、たとえ一年あってもまわりきれないだろうと、かおりは思う。国土が広く、見るところが多すぎるのだ。

 何にせよ、女である自分がここで旅を続けるには、信頼出来て気が合い、同じ旅行者という立場で、時間的に融通の利く男と一緒でなければやっていけない、とは思う。

 かおりは自分が寛之のことを好きなのかどうか考えてみる。確かに昨日口唇を合わせ、抱き合いはしたが、寛之に対してどう言った感情を自分が持っているのか、明確に定義できなかったし、そんな特別な感情がそもそも自分の中に存在するかどうか自体、あやしいとさえ思えた。

 ただ、昨日は大麻草入りヨーグルトの効果も手伝ってか、無線機の周波数が同調するように瞬間的に好きになったことだけは確かだった。

 ぱらぱらと、気を配ることなくなんとなしに読み続けた旅行案内本が北の、有名な避暑地のところに来るとかおりは濃霧のように自分の周囲を取り巻いている眠気を感じた。かなり強い眠気だった。それは彼岸にいる自分を三途の川の向こう岸から誰かが呼んでいるような、そんな種類の眠気だった。

 かおりは自分の意思とも言い難いような、ほとんど脱力に近い形で本を床に置き、そのまま目を閉じた。


 目覚めると、即席中華そばの匂いがした。昨晩食べた中華そばの残りがそのまま今日の朝食に出てきたらしかった。昼間よく眠っていたせいか、浅い眠りの中で表出したかおりの夢は、まだかなり鮮明に頭の中に残されていた。そうして考えてみれば、昨日はかなり肉体的に疲れなかった一日だったな、と思った。かなり鮮明に頭の中に残っている夢を振り払うようにかおりは小刻みに頭を振り、そして改めてはっきりと目を開く。

 猫と目が合った。

 四〇センチくらいの距離を挟んでかおりの様子をうかがっている猫の身体は、そう思ってみて見れば坂倉の言うようにかなり綺麗になったようだった。猫はかおりの口に向かって今まさに突撃をしようとしていたようだったが、かおりが覚醒した気配に気付くと、すばやくかおりから距離をとった。

 かおりは、猫に無関心を装って立ち上がると、朝食の準備を手伝うために歩き出した。食べものを合部屋の真ん中に並べている坂倉が、

「なんや、いつ猫にまた頭突きかまされて起きるか、楽しみにしとったんやけどなぁ」

 と言う。階下から食器を運んできていた他の男達が笑った。

「ちゃんと今朝も薬用石鹸ミューズでシャンプーして綺麗なタオルで良く拭いといたから、頭突きされても、不潔やないで」

「なんでそんなシャンプーなんかすんのよ、わざわざ」

 かおりが言うと坂倉は運ばれてきた食器を車座になった合部屋の人間達に配り分け、ひとつひとつのびきった中華そばを茶碗によそいながら、

「こいつ、何度も何度もボクの口の中に入ろうとしよるから、しゃあない思てな」

 かおりはその、坂倉が言った、口に入ろうとしよる、という表現が、すごくしっくりと来た。言われて見ればその猫はいつも鼻先から頭ごとかおりの口の中に入ろうしているように思える。

 屋上への階段の中腹あたりで、こっちの様子を窺っている猫のほうに視線を向けると、かおりの視線に気づいた猫は、首をすくめ、瞬時に段差の影に隠れた。猫に対して強い憤りを感じてはいたが、今追いかけてもすぐに逃げられてしまうのは目に見えていたので、かおりはそのまま歯を磨きに行き、食事を摂った。


 いくら何でももう戻って来ているだろう、と思って宿に行ってみると、寛之の部屋は全く昨日と同じ状態だった。

 扉の周りの空気、その扉に付けられたままの南京錠や、扉に書かれた油性塗料書きの部屋番号まで全てが、冷凍睡眠用の保冷函に入れられた生物みたいに、昨日からの時間の変化を少しも感じさせなかった。

 階段を昇ってきた受付の男が、あんたあの男の友達なんだろ奴が払ってない昨日と今日の分の二日分の宿代立て替えて奴の荷物持ってってくれよほかに客も来るんだからさ友達なんだろあんた奴の、という意味のことを早口で言い、南京錠を右手に持っていた金槌で叩き壊すと、冷たく深い眠りの中から扉を蘇生させた。

 何かが動き出す瞬間なんてほんの少しのきっかけがもとになる。私が会ったその日に寛之と口唇を合わせて抱き合って、翌日から行動を共にしようと約束したのも、ほんの些細なきっかけから起こったことなのかもしれない、と、かおりは壊されて、床に音を立てて落ちた南京錠を見ながらそう思った。

 二日ほど停まっていた時間が動き出した扉の向こうに置かれていた寛之の荷物を見た途端にかおりは何かおかしな気配を感じ取った。なぜかその荷物が旅行案内本で見た寺院の壁に刻まれている官能的な浮き彫りのようにただそこに普遍的に存在しているだけのような感じがしたのだ。それは、何十何百何千何万年もの長い間ずっと昔からそこに在ったままこれからも動くことなくそこに在り続けるのだ、といった確信に充ちた存在感を含んでいた。

 受付の男は何事もなかったようにその荷物に近づこうとして二歩ほど歩き、当然のように床板の隙間につまづき派手に倒れて、あちゃあ、と叫んだ。

 かおりは転んだ男にかまうことなくゆっくりと足を運び、荷物の方に歩を進めた。空気はひんやりとしていた。ここに来る前に寄った国の、中華街で突然の雨に襲われる寸前に感じた、内燃機関の排気が入り混じった冷たく涼しい空気によく似た感じだった。

 立ち上がった受付の男の右の上腕には、まだらな形の擦り傷が見え、微かに血が滲んでいた。痛そうに顔を顰めたまま、かおりには理解できない言葉で何事かぶつぶつ呟き続けている受付の男を尻目に、かおりは更に歩を進めた。このあやしい雰囲気にびびるようではいけない、とかおりは思う。

 それでなくても昨日の朝から、あの猫に自分がいいようにからかいあしらわれているような気がして気持ちがすっきりしていなかった。

 ゆっくりとバックパックの方へ向けて右手を伸ばすと、かおりの右手は震えていた。思うように動かない自分の身体に対して腹立たしさを感じながらかおりは、機能的に動くことを拒否しようとしている自分の右手を、その、きちんとまとめられたバックパックの方へ伸ばしていった。

 担いでみると思ったより荷物は重くはなかった。かおりは荷物の重さよりも、寛之のバックパックが自分の背中にあまりにもしっくりと馴染んでいることが不思議に思えた。

 普段背負っている自分のものよりも、そのバックパックはかおりの背中にぴったり無理なく貼り付いていた。自分の宿に戻るまでの河沿いの石段も、坂も、露地の石畳も、まるで何も背負ってないと思えるほど疲れなく歩くことが出来る。背中の荷物はかおりにとってそれほど軽く、存在感が薄いものに感じられた。


 宿に戻るとまるで狙い澄ましていたかのように入口の脇からあの猫が跳び上がり、背負ったバックパックの、かおりの頭より高い最上部に乗ったらしかったが、かおりからはその猫の姿が見えなかったし、たとえ見えたとしても捕まえて折檻する気にもなれなかった。不思議なことに猫の重量はいつもより明らかに軽く感じられたし、かおりはバックパックが背中にぴったりと貼り付いている感触をとても心地よく感じていたので猫の事はさして気にならなかった。

「なんやその荷物?」

 合部屋に入るなり、坂倉がかおりに訊く。

「友達なら持ってってくれ、部屋空けなきゃなんないから、って……」

 かおりは、彼の部屋には彼が戻って来た様子はなかったし、宿の男も戻って来ていない、と言った事、宿の掲示板に張り紙と伝言を書いた手紙だけ書かされて、二日分の宿代を立て替え、寛之の宿を出てきたことなどを坂倉にひとつひとつ説明していった。

 説明しながらかおりはその、自分が発している、状況を明らかにするための言葉は、坂倉に対してではなく、自分自身に言い聞かせるための言葉のように思えた。

「物好きなもんやな、そんなもん、知らんゆうて断っても良かったのに」

 坂倉の言葉を全く持ってその通りだと思って頷きながら、かおりはふと、自分のバックパックと並べて置かれている寛之の、軽金属管で枠取られた大きめのバックパックに視線を移す。玄関を入ったときから上に乗っかったままの猫は、居心地良さそうにその上で眠っていた。

 かおりは、とりあえず寛之が来るまであと何日か待ってみてもいいと思った。何気なく、寛之の部屋の寝台の上に置き去りにされていた文庫本を読み始めた。

 それは母親が死んだ翌日に女の子と泳いで遊ぶフランス人についての物語だった。

 読みながらかおりは、寛之に会って一緒に大麻草入りヨーグルトを飲み、彼の宿のあの、まるで荷物を守ってでもいるのような不思議な空気に充たされていたあの部屋で河を見ながら抱き合い、口唇を合わせたあの一日で全て、これからの旅の大半が決まってしまったような気がしていた。

 そして今、何かすかされたような感覚を、かおりは自分の中に感じ始めていた。何かがなくなると、別の何かでなくなった空間や時間を埋める必要がある。その感覚はどんなに注意深く保管してある硝子の鉢にも、時が経てば必ず埃や汚れが付着するのと似ていた。鉢は液体や野菜で満たされてこそ、透明に光るものなのだ。

 本は面白かった。そのお陰で時折口の中に入ろうと近づく猫も気にならなくなるほど集中して読み進めることが出来た。読みながらかおりは何度か水を浴びた。この街の日差しは、今読んでいる物語に出てくる北アフリカの夏くらいに強く、汗をかきやすいかおりの肌は何度もべたつき熱を持ちはじめた。かおりは日差しが強く明るい日向でなら、自分が人を殺したり、人に自分が殺されたりしても何ひとつ不思議じゃないように思えた。

 水浴室に入ってかおりは冷たい水を首の下にかけながら、天井の吹き抜けから入ってこようと狙っている猫をつかまえて、水に濡れた石の床に組み敷き、その首を軽く絞めた。猫の瞳が充血しかかるのを見極めて力を緩めると、猫は素早く吹き抜けの隙間まで逃げてこっちをじっと見つめていたが、しばらくするとまた近寄ってきた。かおりは、水浴室に置き去られていた、豆腐一丁くらいの大きさの洗濯石鹸を泡立て、猫を泡だらけにして、嗜虐的に必要以上の力を込めて洗ってやった後、手拭いで水気を拭ってやり、今度はさっきより強めに首を絞めた。

 ぎゅうぅ、という猫の、引きつけたような、火山の噴火口からでも聞こえてきそうな低く濃い喉が鳴る音を聴いて流石にかおりは力を緩めたが、自分の心臓が何かに同調したように高く早く鳴っているのに気付き、このままじゃ私はこの猫を殺してしまう、と思って少し怖ろしくなった。

 結局日が沈む間際になっても寛之は宿に顔を見せなかった。かおりは本を読みながら再び眠ったが、しばらくすると息苦しさを感じて再び目を覚ました。

 悪い夢を見ていたのではなかった。猫の頭がかおりの口の中にすっぽりと入ってしまっていたのだった。猫の鼻先がかおりの喉の奥をつついたらしく、咳き込んだ瞬間、前歯に、いままで感じたことのないような不快な、柔らかい歯応えを感じた。かおりは、自分の口を中心とする顔の周りで何が起こったのかすぐにはわからなった。ただ息苦しかったので、かおりは咳き込むときに顎に力を入れただけだった。

 ひとしきり咳き込んで、ふと目の前を見ると、左耳から血を流した猫が、きょとん、とした、白い毛が赤く血で染まっていたり、かおりの唾液で頭中が濡れてしまっている自分の状況をまるで他人事でもあるかのような平坦な瞳をしてこっちを見ていた。

 かおりは坂倉からリステリンを借りて駆け出し洗面所に行き、激しくうがいをし、合部屋に戻って歯ブラシを取ると再び洗面所に戻り歯を磨いた。激しく咳き込んだせいもあり、そうしている間、涙が止まらなかった。もう猫を追いかけて折檻する気も水浴室でやったように首を絞める気もかおりにはなかった。とにかくただ猫が怖ろしかった。

 合部屋に戻ると坂倉が、

「首に歯型ついとるでぇ、可哀想になぁ」

 と言いながら猫を撫でていた。階段を昇って来たかおりに坂倉は、

「あんたも可哀想になぁ、別に食べたかったわけでもないのに、勝手に口の中に入ってきたとはいえ、ええ気持ちせんやろ」

 とからかうでもなく、無表情で言った。

 かおりは、

「べつに」

 と言ったあと無言で猫を抱いた坂倉の脇に座った。明らかに強がっているのが自分でもわかった。坂倉の前に置いてある葉巻煙草を一本、勝手に取って火を点ける。強がっている自分が嫌だったが、強がってでもいなければこのいわくいいがたい物事の流れや雰囲気に、自分の全部か取り込まれてしまうような気がした。自分の口の中を何か濁ったもので充たしてしまいたかった。

 今度はゆっくりと肺の奧まで行き渡るように煙を喫い、吐き出しながら立ち上がって合部屋の隅までゆき、本の続きを読み始めた。猫は、時折かおりの方を、気にする風でもなく見ていたが、痛そうな表情をするでもなくわりに平然としているようだった。かおりは極力猫と目を合わせず、目の前の本に集中するように勤めた。


 結局坂倉は翌日に西の方に向けて旅立つことになったらしく、かおりが眠っている間に駅へ行き、列車の切符を予約してきた。坂倉はこの街最後の日に北の方の寺院を見に行く、という事だったので、かおりはついて行く事にした。

 本来ならば、寛之と昨日そこへ行っているはずだったが、ここでいつまで待っていても寛之が戻って来る保証はなかった。

 かおりは、何かしら、行方不明の人間に対する知っている限りの対応をするべきだとは思ったが、バックパックの中を調べてみても、寛之の身元を示すものはひとつも無かった。

もし仮に寛之の住所や電話番号がわかり、日本の連絡先と連絡が取れたにしても、それで寛之が見つかる訳ではない。今日明日にでも顔を見せるような事があれば、却って日本の連絡先に心配をかけることになる。パスポートや現金、旅行小切手などの貴重品が全て無いところを見ると、坂倉が言うように宿に荷物だけおいたままどこかにいる可能性が高いと言うことだ。

 がしかし、それは同時に犯罪に巻き込まれる可能性が高いことも意味している。あの、うつぶせになったまま河に浮かんでいた死体のように、下流の方に流れていってしまったという事だって、十分あり得るのだ。

 焼き茄子がおかずの朝食を宿で取り、バックパックを担いだ坂倉と、手ぶらのかおりは宿を出た。坂倉は寺院から戻ってそのまま駅に行き、西に向かう列車に乗るつもりらしかった。

 露地を抜け、大通りの交差点を渡って二人は乗合自動車乗り場迄行き、来ていた車に乗り込んだ。運転手は坂倉の荷物を見て、北の国境を越えて行くバスに乗り継ぐつもりだと思ったらしく、北の街に行くのか? と訊いてきたが、坂倉が、西の方だ、と答えるととんちんかんな表情をした。

 お世辞にもあまり誠意あるとは言えない、はっきり言ってしまえば嘘だらけの。この国の人間達のあしらいに馴れてゆくと、旅行者の多くは逆に、その子供のような嘘を楽しんだり、わざと引き出したりする余裕さえ出てくる。

 坂倉は、彼らが、問題ない、と言う時に添える笑顔と見事なほど全く同じ平坦な笑顔で運転手に微笑みかけた。かおりはその、人を煙に巻くような坂倉の受け答えを隣で見ながら、自分の周囲や内部、この街のあちこちに存在している全ての、定食の味や猫の行動や河に浮かぶ死体や何日か前に寛之と抱き合ってまだこの身に残っているような気がするその感触など全てのものが、嘘なのか本当なのか区別が付かなくなったような気がした。

 高い、離陸時の飛行機の中で三半規管を圧迫された赤ん坊が発するものに似たうなり声がして坂倉が振り返り、

「おい、見てみい」

 と言って車の荷台に作られた後部座席を親指で指し示した。その瞬間に車が走り出し、上体のバランスを崩しながらかおりが視線を移した先に、

 あの猫が座っていた。

 猫はかおりの視線に気付くと上体をあげて胸を張り、まねき猫のように前足で身体を支えて、そして、笑顔を作って見せてゆっくりと右の前足を挙げ、左右に振った。


 寺院に着くまでさして時間はかからなかった。かおりはずっと座席に座ったまま、前を向いて一言も喋らなかった。さっき見た猫の、前足を振る動作があまりにも人間的で衝撃だったからだった。坂倉もおそらくは同じ事を考えているのだろう。二人は寺院の前に着くまでずっと正面の硝子の前で近づいては流れてゆく景色をを見たまま黙っていた。後ろを振り返って猫と目を合わせるのが怖かった。

 車が止まると猫は坂倉やかおり、他の乗客の誰よりも早く、車から跳び降りて、かおりの座っている前部座席の扉の外から、みゃあ、と鳴いた。声に触発されたようにかおりは反射的に猫の方を見たが、猫はちゃんと四本足で立っていた。二本足で立っていなかったので、かおりは安心した。

 理由もなく坂倉と顔を見合せ、同時に声も発てず力無く笑ったが、それは決して、疲れた為に出た笑顔ではなく、お互いに今日はこの猫に導かれなければならない、と言うあきらめに対する了解の合図のようなものに近かった。

 寺院の中に入ると、猫はみゃあみゃあと言う声と自然に動作する猫離れした前足を巧みに操って二人を寺院内や、仏像や建物のある場所を順路通りに余すことなく示唆し、導いた。加えて、二人のまわりを慌ただしく動き回り、時には威嚇してくれたお陰で、かおりたちは観光地につきものの物売りにもつきまとわれずに済んだ。

 猫が二人のまわりで慌ただしく動いている様子は、間違いなく意図的にまとわりつく物売りを追い払ってくれている、としか思えなかった。


 寺院を出て博物館に入ると、猫は見送るように入口の前で止まって二人に向かって表情を変えた。博物館の中に、自分が入れない事を知っているらしかった。

「なんやあの猫、猫やないみたいやな」

 石像の前で、車を降りてから一言も喋らなかった坂倉がそう言った。

「そうね」

 かおりはとりあえずそう答えたがそのことについて何も考えたくはなかった。この何日間か、観光用の小舟から河に浮かぶ死体を間近で見たあの朝からすべて、自分の周りを取り巻く空気がいわくいいがたい雰囲気を持ち始めたような気がしていた。馴れ馴れしく行動し、隙あらば口の中に入ろうとする猫、戻ってこない寛之、預かることになった寛之の、妙に背中にしっくりとくるバックパック。

 何かがおかしくなり始めている、いや、もう何かがおかしくなってしまっている、何かが新しく変わり始めているのだ、とかおりは思う。

 この国の紙幣にも刷られている獅子と、三位一体の石像を見ながらかおりは、

「なんかとなんかが繋がろうとしている、って感じがしない?」

 と誰に言うでもなく口に出してみた。坂倉は旅行道具一式を詰め込んだ重そうなバックパックを肩にかけ直すと、

「そうやな、こんな感じの仏像、京都かどっかにありそうなやからな」

 と言った。かおりの言葉が目の前の獅子と、三位一体になった石像に対してのものだと思ったらしかった。


 博物館を出るとあたりの空気がひんやりとしたものに一変していて、もの凄い音と勢いで雨が降り始めていた。雨季の雨は思い出したように降り始める。

「どうしようか……」

 かおりが坂倉に向かってそう言った途端、みゃあ、と言う声と共に猫が背後から姿を見せた。不思議と猫の身体は一切の水気を含んでないように見えた。ちょっと外に出て博物館の軒下に立っただけで、かおりや坂倉の足は地面に当たり跳ねた雨粒の飛沫で濡れ始めたというのに、猫はまるで自分のまわりだけ、晴天の結界を張っているように、乾き切って身体で微笑んでいた。

「なんやこいつ、濡れてへんで」

 と坂倉が言う。坂倉もかおりと同じ事を考えていたらしかった。

 猫は一声高く、みゃあ、と鳴いて二人の注意を惹きつけると、前足を水平に差し出して寺院の脇の百メートルくらい先を指し示し、その方向へ向かって走り始めた。そして、四メートルくらい二人から離れて一度、立ち止まって振り返り笑顔を見せ、呆気にとられて立ち尽くしている二人に向かってもう一度、みゃあ、と鳴いた後、さっきと同じ方向を前足で指し示し、再び走り出した。

「いこ」

 かおりが最初ににそう言って、猫の後を追った。坂倉もつられて走り出す。ぬかるんだ地面の水が跳ねる。脹ら脛にかかるその水をかおりは冷たいと思っが、走ることが気持ち良かった。突然の雨に冷やされた空気が身体全体にくまなく当たって、それが心地よかった。

 異常じみた行動の猫が待っていたのは、樹径四メートルほどはあろうかという巨大な菩提樹の樹の下だった。寺院の脇にありながら、その樹は、まるで今日、どこかから運ばれてきたばかりのように、存在感が普通じゃなかった。映画かなんかのセットのようだ、とかおりは思った。根元の土がほんの数時間前に、新しく運ばれてきたように、不自然に、盛り上がっていた。

「なんでこいつ、こんなええ場所知ってんねん」

 と坂倉は嬉しそうに言った。そこには、丁度二人が座るのに都合がいいよう地面に露出した樹の根があったし、ほんの向こうで、すざまじい勢いで地面に体当たりしている雨粒が、まるで結界を施されているように、ここには一滴も落ちて来ていなかった。

 坂倉は樹の根に座って葉巻に火を点けた。かおりも一本、坂倉に貰って喫おうかと思ったが、やめておいた。ニコチンに対する餓えの感覚よりも、肌寒さを強く感じていたからだった。

 たかだか百メートルくらい濡れながら走っただけとはいえ、二人ともずぶ濡れだった。坂倉は手拭いを出して濡れたバックパックを拭き、その手拭いを何度も搾った。

 かおりは二人をここに導いた猫の姿を探した。猫はしばらくの間見つけることが出来なかったがやがて、気配もなく二人の目の前に現れた。猫は歩きながら枯枝を蹴っていた。

 顔と坂倉の前にはいつの間にか枯れ葉と枯枝がうず高く積まれている。

 二人はその、甲斐甲斐しく猫が動きまわる様子をしばらく黙って見ていた。あちこち動き回る猫が前足で蹴るようにして集め続けている枯枝の量は確実に増えていった。

「つまり……、焚火して服を乾かせ、ちゅう事やろな」

 坂倉が、作業を続ける猫を見ながらそう呟くように言った。その言葉に頷きながら、今日は、もうこの猫に従うしかないのだ、とかおりは思う。

 坂倉がちょっと火のついたマッチを近づけただけで、炎は瞬く間に勢いをつけて、やがて枯枝全体にまわった。服を乾かすには、充分なほどの熱量だった。

 猫は相変わらずせわしなく動き回って枯枝を集め、雨は相変わらず強く落ち続け、水滴が地面にぶつかる液体の音量は大きかった。猫の動作は止まることはなく、燃えている焚火の脇には新たに枯枝の山が出来ていた。

 二本足で直立歩行していないのが不思議に思えるほど、猫の行動は獣じみていなく人間らしかった。昔いじめていたいじめられっ子にありがちな甲斐甲斐しさだ、と思いかおりは見ていて嬉しくなった。

 雨は強く降り続けていた。服はほとんど乾いていたが、ずっとかおりが感じていた、表現しようにも出来ない、いわくいいがたいひんやりとした空気の冷たさは確実にまだそこにあった。そしてその感触はかおりにとってひどく居心地の悪いものだった。何か得体の知れない意思を持った不可視の力に見張られているような感じさえした。

 坂倉が今日西の方へ向けて発つ事も、寛之が姿を見せなくなった事も、目の前の猫ががいがいしくまめに動き回っていることも、何に対しても何一つ自分のこの、いま感じている嫌な感じをぶつける対象にするつもりなどなかったが、ただ、なにかが自分のまわりを包むように見張っているような気がするのが、すごく嫌で、苛々した。

「この猫、耳、治ってるで」

 そう坂倉に言われてみてみると、昨日確かにかおりの前歯によって傷付けられ、血が流れていた耳と首の周りには、かさぶたの欠片さえ見られず、ただ、皮膚が少し桃色に盛り上がった後が見られただけだった。

「あんなに血、出とったのに。まさか違う猫やないよなぁ」

 坂倉の言葉に触発され、かおりは最一度猫をよく見てみたが、そんな事はなかった。目の前で相変わらず枯枝を集めている猫は間違いなく昨日、寝ていた自分の口に頭を深く突き入れたあの猫だった。

「いやぁ不思議な事もあるもんやわ」

 坂倉が激しい雨音に去ち消えそうなほど小さな声で呟き、葉巻煙草にマッチで火を点けようとした。葉巻煙草の点火口が堅く巻かれていたのか、それとも大きな茎でも詰まっていたのか、火はなかなか点かなかった。

 坂倉は、バックパックから赤い折り畳み式の瑞西製アーミーナイフを取り出し、刃を出して葉巻煙草の点火口に傷を付けようとした。火が点きやすいようにしているらしかった。

 その時だった。

 猫は跳びかかるように両の前足で坂倉の手から小刀をひったくり、柄の部分を積み上げて、置いてある枯枝の間に、刃を上にして差し入れ固定し、そこに自分の首筋を押し付けた。かおりはその素早い猫の動きが何を意味しているのかすぐにはわからなかったが、飛び散る、と言うほどでもなくどくどくと猫の首筋から溢れ出る赤い液体に、坂倉がここ何日間か薬用石鹸ミューズで洗い続けてすっかり綺麗になっていた猫の白い身体が染められてゆくのを見て、今自分の目の前で何が起こっているかをようやく察した。

 猫はこっちを見てマントでも着たように首から下を真っ赤に染めていて、姿勢を正すと言った感じで胸を張ってまねき猫座りの体勢を取り、二人に向かって乗合自動車の後部座席で見せたときと同じように、右手を振った。猫の顔は、明らかに笑っていた。

 坂倉が腰を上げ捕まえようとしたが、猫は逃れるようにゆっくりと炎の中にうつぶせに倒れ飛び込んだ。坂倉は炎を見つめたまま、ただ立ち尽くすような形になった。猫が飛び込んだことによって炎は少しだけ勢いを弱めた為に、素早く手を伸ばせば猫の身体を焚火の外に出すことが可能なようにも見えたが、坂倉がそれ以上動くことはなかった。

 地面から湧き出てきたかのように組まれ積まれた枯枝と焚火の下から流れ始めた赤い液体は、勢いは弱まったもののなんとか燃え続けている炎の脇に小さな水たまりを作り、ゆっくりと何メートルか一筋の川になって流れてゆくと、やがて結界が及ばない雨の世界に行き着き、降り続ける雨と混ざって地面に染み込んでいった。

 かおりは立ちつくした坂倉の脇でずっと、もうだいぶ勢いが弱まった炎の中の猫と見つめ合っていた。あたりは焦げ臭い煙に燻されていた。

 炎の中から猫を救出する事をあきらめた坂倉は、再び腰を下ろすと、猫はぱっくりと割れた首を揺らして二人を交互に何度か見つめ、炎の中から、みゃあ、となにかに召喚されるように安らかに鳴き瞳を閉じた。

 かおりは寛之と会った最初で最後の日に火葬場で見た焼け出される死体を思い出した。あの時寛之と自分は、焼かれてゆく死体を見ながら、おいしそうだね、と言い頷き合ったのだった。


 腹の方がある程度焼けると、自然に枯枝が崩れ、もう完全に動かなくなった猫はあお向けの体勢になった。まだ少し焦げずに残っていた背中の、茶褐色に染まった毛がぱちぱちと音を発てて焦げ、再び毛が焦げるときの、独特の臭いがあたりに強く匂いはじめる。猫の首筋には、アーミーナイフで切った傷がぱくりと綺麗に口を開けていた。

 かおりは立ち上がって、今そこで動かなくなり、炎と熱に身を晒している猫が集めた枯枝を弱くなった焚火に加え、そのついでに枝の間に差し込んであったままのアーミーナイフを右手で掴んだ。ほんの十数分ほど前に、生きている猫の頸動脈をすぱりと切ったとは思えないほど、その刃には血どころか、曇りひとつさえ見られなかった。

 何とか手が伸ばせるほどの温度になった焚火に向かってかおりは小刀を突き出し、良く焼けた肢の部分を親指大ほどこそぎ取り、毛が焦げ黒くなった皮の部分を刃でこするようにして除去すると、口に入れて、噛み、咀嚼した。味は良くわからなかったが、おいしい、と思って食べなければならないのだろうな、と思った。

 坂倉もかおりから小刀を取り上げると腹の辺りをこそぎ取って食べた。二人は、大根をかつら剥きにするように少しずつ猫の身体を削り、食していった。

 背中と頭はかおり、腹は坂倉。前と後ろの足はひとり一本ずつ。坂倉は自分の荷物から日本から持って来たらしい丸大豆醤油を撮りだした。二人はそれを肉に少しずつかけながら、猫を食べ続けた。食べる度に、かおりは自分の内部にある風のような力の強度が増して行くように感じた。

 頭蓋骨を火傷しないように手に持ち、温泉卵のように温まっている脳を、崩さないようにゆっくりとすすり食べ終えるとかおりは、手を付けないまま焚火から離れた場所に投げ捨てておいた内臓と同じ場所に、二人の前に散乱していた骨を掴んで放り投げた。

 満腹感を満喫しようとかおりが目を閉じた瞬間に雨が止み、一瞬にして周囲が明るくなる。

 雨音が消えるとともに烏の群がどこからともなく舞い降りて二人が食べ残した内臓に群がり始めた。坂倉が喫いかけて途中で猫に邪魔された葉巻煙草に火を点ける。満腹後の胃に煙を浸透させたためか、坂倉の表情が穏やかに緩んだ。

 舞い戻ってきた強い日差しに、濡れていた地面がシーツを剥がされるようにゆっくりと乾き、変色してゆく。

 かおりは、猫を食べる前までに切れそうなほど冷たく感じていたいわくいいがたい空気や得体の知れない意思を持ったあの、不可視の力を自分のまわりに探したが、もう見つからなかった。耳鳴りも止まっていた。

 どこにいってしまったのだろう、と思ってかおりはさらに神経を集中させてみたが煩わしいほどにつきまとっていたあの感じは、もうどこにも見つからなかった。

 見つからない、と言うより、かおりは自分がその空気がどういうものだったのかさえ思い出せなくなっているような気さえした。

 鳥たちはまだ猫の残骸をつつき続けていた。


             〈了〉

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ミューズ猫 @wsr

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