第9話 自転車泥棒

映画『自転車泥棒』 / ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品


第二次大戦敗戦後イタリアの不況を今に伝えるネオリアリズモの傑作


人は自分が記憶している時代より前のことに関してはなかなか関心が持てないものかもしれない。

物心ついたころの家族の記憶、世相、近所の人たち、親戚のおじさんやおばさん、いとこたち。


しかし、自分の記憶のない時代から人々の暮らしがそこにあり地球上のすべての時代、すべての場所で人は共通の思いを抱きながら日々を生きた。


私の記憶は昭和30年代に入ったころから始まっている。当時、一般の日本人はごく一部の人たちを除いて、とても貧しくつつましい生活をしていた。


昭和20年8月(1945年)に戦争に負けたのだから無理もない。


映画『自転車泥棒』は1948年公開のイタリア映画だから、日本と同じ無条件降伏敗戦後ほんの1〜2年のローマを撮ったことになる。


黒澤明監督の「酔いどれ天使」もちょうど同じ年公開なので、同時代同時期にイタリアと日本で戦後の世相を克明に描いた傑作が生まれた、ということになる。


かたや、ヴィットリオ・デ・シーカはオールロケ

黒澤明はセットを作り込んだ。



最初にこの映画を見たのがいつのことだったか記憶がない。

おそらく、小学校3年のころ、午後3時ごろから毎日のようにやっていたテレビの「奥様洋画劇場」で出会ったものと思われる。


配役の父と息子は当時全くの素人だという。



社会の片隅で人は何を頼りにして日々生きていけば良いのだろう。


それにしてもつらいラストシーン。


生活に追い詰められて自転車を盗む人間。

常習的に盗みを働きそれを生業としている人間。


理屈では解決できない人間社会の矛盾。

ささやかなる家族の生活さえも踏みにじられるのか。


良心の呵責などない犯罪者や私利私欲にまみれた貪欲なる支配者。

それでも、呪う暇などないのだ。


今日のパンを家族に与えなけれがならない。

今日のパンを口に入れなければならない。



この映画はこのように見なければならない、このようなテーマで創られた、と解説することは私にはできない。

ただ、例え他の人とは違う見方をしたとしてもそれを分かち合うことによって、新しい発見をしたい。


1948年という、世界第二次大戦後の大きな転換点にこのような映画が生み出されたことに感謝したいと思います。

監督のビットリオ・デ・シーカのみならず、この映画に関わったすべての人々に。

みなさん、ぜひ、ご覧ください。





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映画コラム グロリア斎藤 @lara2018

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