【45】朝のこと
彼が友人を迎え入れる扉を開いた午前十時過ぎ。
予想通り。裏口。届いたメッセージはその二つだけだった。そりゃあめでてぇな、と生やしたままの無精髭を撫でて歩き出す。ああ、眠いったらありゃしねぇ。
裏口に繋がる二車線の道路。勾配は緩いが、代わりにうねっている山道は慣れていないと酔ってしまう。そういえばあの弟もはじめの頃は苦労させられていたっけか。今は俺が苦労している。ははっ。笑えねぇな。道の先から姿を現した男を確認し、腕を天に掲げて伸びをした。さて、ひと仕事だ。
いつもの青い作業服ではなく、柄物のシャツにジーパンという私服姿で待ち構え、その男に声をかけた。名前を尋ねると、怪訝な顔をして押し黙った。仕方ねぇな。特別だぞ。俺の方から自己紹介をしてやったら、しばらく固まった後、ひっと喉を引き攣らせて踵を返した。わかりやすいやつ。
逃がさぬよう、その背中に腕を伸ばしてスーツの生地を引っ掴んだ。ぐんっと体重がこっちに偏り、男は転びそうになる。それを腕で支えて捕まえた。
「まぁまぁ、落ち着けって」
「あ、あ、あんた、まさか、理事長のっ!?」
「弟が迷惑かけちまったようだな。わりぃわりぃ」
正体を理解した男が腕の中で縮こまる。ちゃんと着込んでいるスーツ姿がもはや滑稽だ。
「おとうと……!?」
「お前さんの処分は変えられんが、話くらいは聞いてやるぜ? こっぴどく振られたんだろ?」
「あのっいや……その……俺はただ、謝りに……!」
「残念だが、お前さんの謝罪はいらないんだと。代わりに俺が聞いてやっから、さ、行こうぜ」
「ちょちょちょ、俺は!」
抵抗する男を引き摺り、来た道を戻る。乗ってきた車は山道入口の手前にある駐車場にでも置いているのだろう。俺だって運転免許は持っている。この男の住所は弟から聞いていた。
肩を組んで下る山道。何度も学校を振り返る背中をばしっと叩いてやったら、男は悲鳴をあげた。恨みがましい目尻に浮かぶ涙。
「なんなら朝まで付き合ってやるよ。それでおしまいってこった、高井センセ」
緩い坂道、並んで下る。
こんな形で兄弟の共同作業になるとはな。弟は自分の手で動機を吐かせる気だったらしいが、その場では自身の不甲斐なさが上回ってしまったようだ。教師の採用に携わっていたからこそ、その気持ちは強くなったんだろう。
結果、第三者を登場させるという手を打ったというわけだ。戦法としては悪くない。弟はこいつをキッパリと切り捨てた。通常、悪役は悪行を語りたくなるものだ。必ず動くと判断した弟は、自分が従えるカメラを起動。学校にあるいくつかの入口を監視させ、予想したのは裏口だった。そして兄である俺に、悪行の聞き役を命じたってわけ。
俺はこの高井先生から根掘り葉掘り動機を聞き出すため、日が暮れるまでたっぷり酒を飲み、ひたすら悪行を聞くこととなった。
おかげで俺の休日は消えてなくなった。
午前十時ぴったり、のつもりだったんだけど、僕がお慕いする前会長様の寝坊を待っている間に時間は過ぎ、専用エレベーターに乗り込んだのは十時半頃になっていた。連絡を入れてみたら、横塚くんに大きな変化があったらしく、電話の向こうの双子は嬉々とした声で説明してくれた。
もしかしたら僕はもういらないのかも、と前会長に目配せすると、今日は保健医も来る予定だからと眠気まなこで諭される。確かに、一見大丈夫そうに見えてまだ傷は癒えていない、という場合もある。昨日の状態を説明できる自分は必要かな、と思い直し、到着した特別な階層を前会長と二人で歩き出した。
横塚くんの部屋に到着すると、横塚くん自らが出迎えてくれた。
「おはよう、ございます」
「えっ、あ、うん、おはよう」
「あらぁ。本当に話せるのね! 良かったわ。おはよう」
目を丸くして驚いてしまったが、横塚くんはしっかりと目を合わせて挨拶をしてくれた。その表情には昨日までになかった強い意志を感じる。手を繋いでいても見つけられなかったものだ。
これは本当に、僕の出番ないんじゃない。嬉しいような寂しいような気持ちが心を掠めていると、横塚くんは僕の手を攫って、ぎゅっと握り締めてきた。
「いい、天気です。おにぎり、美味しかったです」
そう言って健気に笑う横塚くん。
それを見た瞬間、ぶわっと涙が溢れてきてしまった。
「あれ、あれっ? ごめんなさい、だめだった?」
「ちがう、ちがうんだ、ごめんね……っ」
「ふふっ。この子はね、あなたが元気になって嬉しいのよ」
「そう、なんですか? ご迷惑かけて、すみませんでした」
「そんなことないよ。うん。良かった」
僕が選んだ言葉で、少しでも傷ついた心が癒えていた。そのことが単純に嬉しい。手から伝わってくる感情が、温かくて、優しくて、嬉しい。
「僕はね、玉子焼きを食べてきたよ。美味しかった」
「いいな。おれも食べたいです」
「今度一緒に食べに行こっか」
「はいっ!」
涙でぐちゃぐちゃな僕の顔なんてお構いなしに、横塚くんは僕と手を繋いだまま笑ってくれる。伝わってくるのは強い意志。わからないけど、ただ温かいだけじゃない、横塚くんなりの決意があるんだと感じる。
何度も何度も口を開こうとして、それでもできなくて、苦しんでいた昨日の姿を思い出せば、ただ声が出るようになっただけじゃない大きな前進があったことがわかる。たった一晩のうちに横塚くんをここまで強くしたのは何なんだろう。
その疑問の答えは、横塚くんの部屋の中で本人から聞くことが出来た。招き入れられたその部屋の中には会長以外の生徒会役員、そして加賀見くんがいて、僕と前会長の到着を待っていたらしい。
これで揃いましたね、と副会長が横塚くんに寄り添いながら話を促す。
横塚くんの話は長くなかった。
テストの盗難について、脅迫を受けていた。思い悩んだ末、声が出なくなった。今朝、会長との会話を経て、話す決意が出来たら声も出るようになった。そういう経緯だった。
ただ、この話の中で最も重要な部分は隠されていた。その判断を下したのは、今この場にいない会長だ。横塚くんはゆっくりとした語り口ながら明確な意図を説明した。
「誰に脅迫されたか、今は、言えません。会長、がんばってるから。だから、ね、待っててほしい」
「横塚のことこんなに傷つけたのにー?」
「やり返さなきゃ気が済まないよー」
双子は頬を膨らませて横塚くんに詰め寄る。
その隣から、副会長が心配そうな顔で話を継いだ。
「がんばるっていうのは、会長がその脅迫してきた相手と何か交渉をしている、ということですか?」
「うん、そうだと思う」
僕の中には、あの子の顔が浮かんだ。電話では、教師が犯人だと言っていたから、会長が交渉する相手は教師ということになる。生徒が相手なら生徒会長という特権も通用するけど、教師相手にどう動けるのだろう。そこまで考えてから、あ、と思い出す。あの子は確か、理事長がその教師を排除するとも言っていた。
もちろん、その情報は僕が持っているはずのない情報だ。ここで進言するわけにはいかない。でも、不安な空気に包まれるこの場はともかく、明日以降その犯人はこの学校から居なくなる。安心していいのかもしれない。
「今は、会長のこと、信じて……」
「横塚! お前、ほんとにそれでいいのかっ!?」
「えっ?」
唐突に鳴り響いた警鐘。それは、沈黙を守っていた加賀見くんから発せられたものだった。もじゃもじゃの髪に分厚い眼鏡。一目見ただけでは大人しそうな少年から湧き出る声量ではない。
そのビリビリとした振動に驚き、僕には内容が聞き取れなかった。
「いいのかよ!」
「でも、あの……」
「もっとできることあるんじゃねぇのか!?」
「加賀見、落ち着いて!」
「だって横塚、大丈夫だから!」
横塚くんに飛びつこうとした加賀見くんの体は、横にいた会計と双子によって押し留められる。
ふう、ふうと荒い息を吐き、横塚くんに視線を刺す加賀見くん。さっきの台詞、どういう意味なんだろう。
「大丈夫だよなっ! だったら、もっと」
「……大丈夫じゃ、ないよ」
横塚くんは手を握り締めていた。
「まだ、こわい。でもね、会長が、がんばってるんだ。だからね、おれもがんばるんだよ」
「だからっ」
「今は、待ってるんだ。ここで、全部吐き出したら……みんな、優しいから、慰めてくれる。でもそれじゃあだめって。甘えちゃだめなんだ。会長が教えてくれた」
「そんなの、しんどいだけじゃんか!」
「しんどくていい。会長が、一緒にがんばってくれるから。みんなも、おれが、がんばるの、手伝ってくれるよね?」
加賀見くんからどれだけ強い言葉を浴びせられても、横塚くんは真っ直ぐに自分の意思を貫いていた。
「加賀見の言う通り、今ここで、もっとやれること、あるかもしれない。でも、おれは……会長と一緒にがんばるよ」
声が戻って、めでたしめでたし、ということではない。その裏で横塚くんに何があったのか、横塚くんがこれから何をするのか。そこまで見届けることが、寄り添う、ということなのかもしれない。
僕は一歩前に出た。
「横塚くん」
「……はい」
「どうか、無理はしないでほしい。僕はいつでも手を繋ぐからね」
「はい。……はいっ」
僕と横塚くんが笑い合う。これでどうかな、と加賀見くんを見てみたら、この場の誰よりも嬉しそうに笑っていた。一瞬前まで吠えていたのが嘘のようだ。
とりあえずこの場はこれで収まった、と考えてもいいのかな。
それから保健医が顔を出し、横塚くんの診察と会長の帰りを待っている間は、明日からのテストについての話に及んだ。加賀見くんは大慌てで勉強をしてくる、と部屋を出て行き、副会長と双子はそれについていってしまった。
三年である僕と前会長はテスト結果がさほど重要ではないため部屋に残ることにして、生徒会役員では会計だけが留まることとなった。
会長が神妙な顔でこの部屋に、なんと風紀委員長を連れ立って現れたことに驚かされるのは、それから間もないお昼休みの時間のことだった。
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