【44】勉強会を頑張ろう

 午前十時を回った頃。鳴ったチャイムを出迎え、彼は笑った。扉を開けた先、薄い雲が漂う穏やかな気候を背負って立っていたのはいつもの友人たち。見知った顔が数名と、どうやらクラスメイトじゃない者もいる。

 それぞれ手には通学用の鞄と、購買のロゴが入ったビニール袋を持参していた。それだけを見れば初々しい学生然としたものだが、服装は一様にラフなものを着ており、朝の登校、というわけではなさそうだ。

 先頭にいる友人、柿本は手に二つ持っていたビニール袋のうちの一つを彼に差し出し、口角を上げた。その袋からはささやかな甘い匂いがした。

「これ、好きだろ。さーて、明日からのテストに向けて追い込もうぜ」

「ありがとう。よろしく頼むよ」

 ぞろぞろと入室する友人たち。最後尾に並んでいたのは彼にとって意外としか言いようのない二人の顔。声をかけたのは柿本だと言っていた。合計で五人いるのだが、スペースは足りるだろうか。

 全員が部屋に入ったことを確認して扉を閉め、彼もついていく。今日は逃げられそうにないなぁ、とついたため息はふわりと浮いた。


 リビングの机に彼と柿本とクラスメイトの二人が座り、残りの二人は扉を開けっ放しにした彼の個人部屋に身を置いていた。それぞれが鞄の中から教材を取り出し、明日からのテストに向けた勉強を始めている。教科と休憩を区切るためのアラームを準備し、今は現代文の授業で配布されたプリントから出題予測と復習を兼ねた勉強を進めていた。

 柿本が彼のプリントを覗き込み、彼は正面にいるクラスメイトの教科書を指す。文章を声に出して読み上げながら、一斉にノートへ書き込んでいく。漢字の問題は出るだろうかと違うプリントを取り出したもう一人のクラスメイトが、彼の個人部屋にいる二人へと声を飛ばした。

「斜森って漢字得意だった?」

「ああ、うん。岩楯も得意だよ」

「漢検持ってる」

「まじ!? 覚え方のコツ教えてくれよ」

 言いながら、プリントを手に立ち上がったクラスメイトが個人部屋の方へと歩いていく。個人部屋に居る二人、斜森と岩楯は柿本が声をかけて連れてきたと言っていた。

「柿本は漢検持ってる?」

「持ってないなぁ。英検は取るつもりだけど」

「英検は欲しいよな」

 現代文のあとは休憩を挟んで英語の予定だ。柿本とクラスメイトの会話を聞きながら、英語の授業を思い出す。彼のとって苦手な分野なので、教えてもらうつもりだった。

 そんなことを考えているうちにクラスメイトが岩楯を連れてリビングに戻ってきた。

「読み書きと、四字熟語くるよな」

「見てれば覚えられるじゃん」

「岩楯ってそういうタイプ?」

「他にどういうタイプがいんの」

 立ったまま机を見下ろし、岩楯はプリントを指さしていく。

「こことか、これとか、出ると思うよ」

「おおー岩楯様ありがとうございます」

「からかってる?」

「ごめんごめん」

 少し意外だった。岩楯の見た目はいつも通りの可愛らしさを保っているものの、砕けた話し方や乱雑な仕草が当たり前のように顕れている。クラスメイトの二人とも気安い様子で会話を交わし、以前から交友関係があったかのようだ。食堂で話をした時のあのしおらしさはどこに行ったのだろうか。

 全員がプリントを注視する中、彼の視線を感じ取ったのか、岩楯がふと顔を上げた。ぱちりと目が合い、岩楯の眉が反応する。

 しかし、声をかけたのはその後ろから現れた斜森だった。

「岩楯、こう見えて沸点低いんだ。気をつけてね」

「その発言が危ないって」

「揃いも揃って。もう教えないよ?」

「それだけはご勘弁を、岩楯さま~!」

 あはは、と舞う笑声。次の休憩まであと十分程だっただろうか。全員でリビングの机を囲み、アラームが鳴るまで現代文の対策に没頭した。


 それから英語、理科とアラームが鳴るごとに休憩を挟んで進めていき、昼休みに突入した。柿本と岩楯と斜森はリビング、クラスメイト二人は彼の個人部屋と別れ、持ってきた購買のロゴ入りビニール袋から昼食を取り出し手を合わせる。彼は簡易キッチンでお茶の用意をしていた。

 製氷皿から氷を取り出していると、手伝おうか、とそばに岩楯が立っていた。

「入れるよ」

「ありがとう。みんな冷たいお茶でいいよね」

「まだ暑いしね。勉強会、場所提供ありがと」

「柿本が勝手に使っただけ」

 並べたグラスに氷を入れると、岩楯がペットボトルのお茶を注いでくれた。ぴきぴきと音を立てる氷を聞きながら、人数分を揃えていく。

「二人も柿本に誘われたんだって?」

 柿本が彼の部屋に集まるのはよくあることだが、交流のない人を呼ぶのは珍しい。

「ああー、逆。柿本に聞きたいことがあって、それで時間あるか聞いたら、勉強会するって言われて」

 なるほど。彼は頷いた。岩楯が二本目のペットボトルを開ける。

「付き合ってくれて助かるよ。多い方が教え合いできていいし」

「そう、そうなんだよね。はぁ。一気に力抜けちゃった。テスト勉強しなきゃだよね」

 六つのグラスにお茶を注ぎ終えた岩楯は、軽くなったペットボトルを置いて、彼の方を見た。

「なんか、もう、何やってたんだろうって」

 深いため息に籠るのは愁然だろうか。見目に気を遣い、可愛らしさの追求に余念のなかった岩楯のかつての姿からはかけ離れた様子に、彼は少し困ってしまった。それでも、積み重ねた可愛らしさはそこにある。憂いの籠ったため息も、ペットボトルを持つ手の所作も、全てが全て乱雑になったわけではない。

「何があったかはわからないけど、たまにはいいと思うよ。岩楯、やっぱり可愛いし」

「え?」

 唐突な台詞に岩楯は彼を見た。背の高い彼は首を傾げて視線を合わし、ふっと笑う。

 あるのは、些細な悔恨。

「ずっと努力し続けるのはしんどいから要所要所でいいんだよ。そのうちまた頑張ればね。でも、やるべきことはやっておいた方がいい。そのために頑張っていたならなおさら、後回しにすると後悔する」

「……テスト勉強のこと言ってるよね?」

「ん? ははっ。どうだろう? 少なくとも俺は英語を頑張らないとなって思ってる」

「なに、それ」

 言い返す岩楯の言葉に反感の意はなかった。彼と同じように笑みを零し、そうだね、と一度ささやかに頷いていた。その仕草は紛れもなく、可愛らしいものだった。


 お茶を配り終え、彼は個人部屋の方を選んで昼食をとった。柿本が持ってきたフルーツサンドは最後だ。

 リビングでは、岩楯と斜森が柿本に話を持ちかけている。盗み聞きは悪いと思い、彼はクラスメイトと歓談に興じて昼休みを過ごすことにした。


 その日の勉強会は夕方までたっぷり行い、夕食をとるため食堂に向かう岩楯と斜森とクラスメイト二人を見送ったあと、残った柿本から話を聞いた。

 詳細は省くけど、と切り出した柿本は思っていたより真剣な顔つきで続けた。

「謝りたいんだってさ、加賀見に。酷いこと言ったって」

「そうなんだ」

「で、最近加賀見に捕獲され気味の俺にお声がかかったってわけ。今日は横塚のとこに行くって言ってたから、この後連絡取ってみる」

「例の件で何かあったんだな」

「あのサッカーの時の話な。よくわかんねぇけど、解決したっぽいこと言ってた」

「そうなのか」

 入れ直したお茶を差し出し、受け取った柿本は一口飲んで机に置いた。

「あんなに敵対心剥き出しだったのに、謝りたいって、何があったんだか」

 柿本の言う通りだ。

 諸々、ことの成り行きをある程度把握している彼からも、見えていないことは多い。加賀見が黒幕であるという噂にも対処するつもりだった彼にとって、すでに誤解が解けているらしい展開に驚いている。

「でも、仲良くなる分にはいいんじゃないか?」

「そりゃそうだけど」

「二人がちゃんと謝れるといいな」

「加賀見は気にしてなさそう。許す許さないって感じじゃねぇし」

「そうなのか?」

「そうそう。なんて言えばいいのかわかんねぇけど、それでいい! そのままでいい! っていうゴリ押し」

「面白い表現の仕方」

「うっせ。もういい。俺たちも飯行こうぜ」

「ははっ。そうだな」

 しかし、柿本の表現は言い得て妙である。彼が知るあれの本質はまさに、柿本の台詞そのままなのだ。本来であれば、ゴリ押し、という部分がもう少し調整されているのだが。加賀見の場合、そこが問題であることはこれまで起きたトラブルでなんとなく理解した。

 柿本が席を立って彼を呼んでいる。グラスを手早く簡易キッチンに戻してから追いかけた。

 扉を開けると、さっきまで明るかった空が赤く燃える夕焼けに変わっている。自然豊かな景色にはいつも息を飲み、焼き付けるように見入ってしまう。足が止まる彼を、柿本は急かさない。

 二人で連れ立って歩く食堂までの道のりは、穏やかだった。

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