第8話 政府も見捨てた二千円札
麻生太郎財務相が4月9日。日本銀行券の刷新を記者会見で発表した。聴けば5年も先に話である。いかにもと唐突の感は否めなかった。発表の仕方も用意したイメージ画も8日前の新元号「令和」を発表した菅義偉官房長官の会見とにていた2024年に日本の紙幣が一新されることになった。2019年4月1日の新元号、令和の発表から8日後の4月9日、菅義偉官房長官の新元号発表に対抗するかのように麻生太郎財務相が発表した。
「何で今、新しいお札発表するかな? 5年も先の話でしょ」
広海には政府の考えが理解できなかった。
「『来年のことを言ったら鬼が笑う』けど、5年も先のこと言ったら、誰が笑うんだろ」
秋田千穂の問い掛けに、志摩耕作が皮肉たっぷりに応じた。
いつものメンバーが並ぶ喫茶『じゃまあいいか』のカウンター。大宮幹太は財布から
札を取り出し、肖像画の面を表に福沢諭吉、倖田露伴、夏目漱石を並べている。
「笑うのは、みんなさ。正確には、安倍内閣の全閣僚と総理を忖度する官僚、忖度しなくても従わざるを得ない石破茂さんを除く自民党議員以外の全国民だな」
「エンゼルスの大谷翔平のストレート並みの剛速球だな、“課長”。でも、オレもそう思う。結局、存在感示したかっただけでしょ。麻生さん」
と幹太。“課長”というのは耕作のニックネームだ。フルネームの「志摩耕作」が、名字の漢字こそ違うが弘兼憲史(ひろかね けんし)氏の人気コミック「課長 島耕作」の主人公と同姓同名のために、中学時代にクラスメートからつけられたニックネーム。漫画の主人公は、順調に部長から常務、専務と昇進し、社長、会長まで上り詰めたが、広海たちの同級生の“課長”の方は、一時期“部長”に格上げされたが、いつの間にか慣れ親しんだ“課長”に格下げになってしまった。
「随分親しそうだな。財務大臣と」
マスターの渋川恭一が、からかうように幹太をイジる。
「若者に親近感持ってほしいのは、大臣の方でしょ。普段の言動からも分りやすいもん」
「私はちょっと距離置きたいかな。麻生太郎副総理には」
「私も」
広海だけじゃなく千穂にも人気がない。
「あっ、そう」
幹太は、もっとイジられたがっっている。
「それが言いたかったワケ? ったくお子ちゃまなんだから」
「スルーすればよかったのに。広海ったら」
大学が別々になっても、会話のペースは高校時代と変わらない。
「それにしても分かりやすいですよね、マスター。5年も先の話ですよ、お札のデザイン変更」
「そうだな。肖像画の人選に異論はないが、偽造防止のすかしやホログラムの技術は5年もあればどんどん進む。今このタイミングで発表する必要があったのかどうか」
と恭一。
ちなみに、新一万円札の表の肖像は「資本主義の父」渋沢栄一、裏面の建築物は東京駅。五千円札は表が津田塾大学創始者の津田梅子で、裏がふじの花。千円札の表は「近代日本医学の父」北里柴三郎で、裏には葛飾北斎の富嶽三十六景から、神奈川沖浪裏が用いられる。が、新紙幣のラインナップに二千円札はない。紙幣のデザイン変更は20年ぶりだ。
「逆に、自分が財務大臣の内に発表したかったとか」
千穂が意味深なことを言う。
「それって近い将来、財務大臣でなくなるってこと?」
広海は深く考えていたわけではない。自分で言ってから気がついた。
「あっ、そうか。遅まきながら、森友学園に対する国有地の大幅値引きや公文書の書き換え問題とかの責任を取る気になったのかな」
「いまいま辞任することは考えられないが、5年先まで財務大臣をやってるとは思えない。紙幣変更の発表にどれだけの価値を見出しているのか分からんが、オイシイところを官房長官に独り占めされるのが気に入らなかったのかもしれないな」
恭一も幹太の意見を支持する。
「大人げなーい」
「小6男子ね」
「一緒にするなよな。官房長官を妬んだ大臣は“小4男子”で十分だろ」
女性陣の言葉に、幹太が口を尖らせた。
「五十歩百歩。団栗の背比べ。目くそが、鼻くそを嗤う」
すました千穂が幹太の方に乗り出して言った。
「ん? ってことはオレが目くそで、大臣が鼻くそか…」
「チーちゃんったら。あなたの台詞じゃないでしょ、特に最後のは。カンちゃんも、そこ掘り下げないの。角が立つでしょ」
「広海ね、それかいかぶりだって。付き合い長いんだから、人を見かけで判断しないでくれる? こんなの、我が家では“公用語”なんだから」
千穂の抗議にみんなが吹き出した。
千穂の父は、新聞社勤務の正博。母は、元アナウンサーの響子だ。高校時代から広海たちのゼミの良き相談相手だ。娘が入っていることもあってか、アドバイスもしてくれる貴重な存在。
「ここでも二千円札は仲間外れだな」
何気なく恭一が口にした「二千円札」という言葉に千穂が反応した。
「ですよねー、仲間外れ。っていうか、完全無視。もう、お札として考えていないみたいな扱いよね」
「千年紀、ミレニアムの記念に思いつきで作った“お土産”だもんな」
千穂に続いて、幹太と広海。2人が生まれた頃には既に二千円札は“厄介者”だったので、肌感覚では測れないのが実際だった。
「だけど、記念紙幣じゃなくって一般紙幣だってはなしだったでしょ」
流通しない二千円札については高2の時、ゼミのテーマとして議論したことがある。
「何せ沖縄サミットが開かれた2000年に1億1千万枚、3年後の2003年に7億7千万枚印刷したっきり、製造自体が中止になったからね」
耕作が記憶を辿った。
「政治主導の色濃い紙幣だったんだよな。バブルが弾けた後の経済対策っていうか、景気対策。新札に対応した自販機や銀行のATMとかさ。いわゆる二千円札需要」
耕作の言葉を、恭一が継いだ。
「ところが期待外れもいいところ。諸外国では『2』のつく紙幣や硬貨は一般的なので、受け入れられるはず、って官僚の考えは国民に支持されなかった。札のデザインに守礼門が描かれていて、沖縄サミットのタイミングで発行されたんで、沖縄県内では現在も普通に流通しているらしいけどさ」
「何て言ったっけ? そうだ、平和希求紙幣だ。発想と命名の主は官僚だろうけど、完全に不発。企画倒れもいいところ」
黙って聞いていた恭一が乗り出すようにして言った。
「そもそもが思いつきの政策だから今さら後の祭りだが、試験的に硬貨を先行させる手はあったな」
「硬貨って、十円玉とか百円玉の?」
広海の脳裏には一瞬「硬貨」と「効果」、2種類の「コウカ」が浮かんでいた。
「そう。欧米では紙幣もそうだが、硬貨にも『2』のつくものが多い。2ユーロとか。アメリカのクォーター硬貨は25セントだ。低額の硬貨なら、子供に普及しやすい。これが狙いさ」
「助走期間ですね。車で言えば慣らし運転。“お試し期間”」
「まずは、子どもを巻き込んでブームを作る、か」
「子どもだけじゃないかんlこ。オレも助かる。たまに自販機で缶コーヒーを買う時に限って10円玉が足りない。百円玉を2枚入れると、返却口のつり銭が落ちる音がやたらと長い。お釣りの70円が全部十円玉で出てくる。投入したのが硬貨2枚なのに、戻って来たのは硬貨7枚。気分的にかなり凹む瞬間さ」
「分かる、分かる、その気持ち。頭の中では五十円玉1枚と十円玉2枚を想定しているからね。クォーター硬貨と二十円効果があれ、ばクォーター2枚と二十円玉1枚の硬貨3枚で済むんだから」
広海に頷いた恭一は続けた。
「子どもを火つけ役にブームを作るのは、商品開発の基本の一つだ。メーカーだったら普通にやっている」
「それが官僚のセンスには足りなかった」
「民間ならヒットしないと傷口は大きくて痛手だけど、役人はねぇ」
「コスパなんて意識があるのかないのか」
「ないに決まってるでしょ。言ってみれば予算だって青天井なんだから」
耕作と千穂の掛け合いは、相変わらず間がピッタリだった。
「もうひとつ、役人の当てが外れたことがある」
「えっ、何だろ」
広海が首をかしげる。
「『使い辛い』と疎んじられるのなら、徹底的に疎んじられた方が楽だったのさ、対応がね」
耕作が両の手を叩いた。
「そういうことか。沖縄県内で普通に流通していることですよね、問題は」
「さすがに呑み込みが早いな。全国民にそっぽを向かれたのなら、どこかのタイミングで完全に廃止に出来た。ところが、新札発行のお膝元ではウチナンチュが使い続けている。米軍の基地問題とは別に、政府に対する抵抗にも見えるんだ。オレにはね」
「そうか。んーと、ナ、ナイチャーでいいんだっけ? 鹿児島以北の本土の国民が使うのをやめた二千円札だけど、沖縄で愛着が持たれている限り、やめ時が難しいんだ」
広海のうろ覚えの沖縄方言も何とか当たったらしい。
「そういうことさ。このまま印刷しなければ、そのうち在庫は底をつく。自動的に“廃止”の憂き目を見ることになるだろう。その時、沖縄県民、ウチナンチュがどういう動きをするか、見ものだね」
恭一が左の口元を上げて笑った。
古くなった紙幣は定期的に市中の銀行から日本銀行に戻され、新しいお札と交換される仕組みだ。しかし、二千円札の在庫が底を突けば、2倍の量の千円札との交換になる。在庫の量は想像がつかないが、2003年に7億7千万枚が印刷されて以降15年以上1枚も刷られていないのだから、もしかしたら今回発表された新しい券種が発行される2024年頃にはこうした問題も浮上するかもしれない。
「加計学園の獣医学部の新設や厚労省の統計不正とは性格は違うが、官僚にとって本来は頭の痛い問題だし、政府与党も他人事では片づけられないはずだ」
恭一は広海たちの前では珍しく、自身の想いを語った。
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