さよならの神話
音海佐弥
1
色も温度ももたない街灯の光に灼かれて、深い群青の夜が落ちてきた。浅い息遣いとひとつの足音だけがその劇伴だった。くらい深海のなかを泳ぐように、僕は街灯に照らされた道を歩いた。時おりどこかで、鎖に繋がれた犬の啼く声が聞こえる。それはどうしようもないさみしさの予感に似ていた。うだるような夏の真夜中のことだった。
世界の片隅にあるアパートに帰り着くと、狭い部屋にも夜が染みこんできていた。革靴を脱ぎ捨てて玄関にあがり、縋るように灯りをつける。ぱち、と音がして部屋に光が満ちる。居場所を失った夜は窓に閉じこめられる。
「……たぁいあ」
無言で部屋に入るのも味気なく、かといってだれもいないのに「ただいま」とはっきり言うのも恥ずかしくて、なんともあいまいな言葉で気分をごまかす。わかってはいたが、その言葉に応えるものはなにもなかった。もういないんだ。僕はそれを二年前に喪った。もう戻ってくることはない。
――ぴちゃん。
スーツを脱ぐと、重い夜の闇から解き放たれたみたいで、いくぶんか気分が軽くなった。仕事に疲れた身体をソファに沈める。使い古したソファの生地は僕の身体の形にすぐに馴染んだ。その歪んだ形は、僕の心のやすらぎが可視化しているみたいだった。
あたりを見回しても、手の届くところにリモコンが見当たらなくて、億劫になってテレビもつけずにぼおっとした。ふう、と溜息をつく。しばらくじっとしていると、外の空気にまぎれたさみしさの予感が窓からのぞく夜から染み出してきそうで、僕はしかたなく立ち上がってカーテンを閉めた。
――ぴちゃん。
ふと気にかかることがあって、夜の静寂に耳を澄ます。たいした都会でも田舎でもないこの街は、真夜中になれば街の寝息すらも聞こえないような、深い静寂にすっかり包まれてしまうはずだった。
でも、その日はなにかが違っていた。
――ぴちゃん。
はじめは水漏れかなにかかと思った。きっと昨夜、シャワーを浴び終わったときにしっかりと栓を締めなかったんだろう。ほんのすこしの水漏れではあるが、きょう一日中漏れていたんだから、けっこうな量になるかもしれない。もったいないことをした。いまもなお垂れ流され続ける水道代を止めるべく、僕は立ち上がった。それはたしかに浴室から聞こえていた。
――ぴちゃん。
浴室は電気が消えている。扉越しになかのようすをうかがう。すると、扉から漏れる部屋の灯りを受けて、なにかが青白く光ったような気がした。
恐るおそる扉を開ける。すると、そこにはふだんとおなじ、汚れた浴室があった。シャワーの栓も締まっていた。いつもの夜の浴室があった――たったひとつの点をのぞいて。
「うわあっ!」
僕は驚いて後ずさり、転がっていたビールの空き缶を踏み潰してバランスを崩し、床に倒れこんだ。その大きな音に反応したのか、彼女の身体がぴくりと動いた。流れる絹のような金髪の隙間から、うっすらと目が開いたのがわかった。その顔はあどけなく、十五歳くらいの少女に見える。かすかなさみしさを孕んだ群青の瞳がぼんやりと僕に向けられる。透けるような彼女の白い肌には、きらきらとした鱗が張り付いている。
僕は呆然と彼女を見つめた。黄金に輝く髪。透き通るような白い肌。そして、脚の代わりにあるのは、青白くきらめく鱗に覆われた、すらりと長い尾ひれ。
「……人魚?」
僕がこぼした言葉に、こんどこそ彼女の瞳が僕を捉える。言葉で答える代わりに、彼女の尾ひれが小さく動いた。濡れた光を放つその尾ひれは、汚れた浴室の床を力なく叩いた。夜を支配する静寂を引き裂いて、浴室に音が響く。
ぴちゃん。
どうしようもないさみしさに満ちた予感のなかで、僕はひとりの人魚の少女に出逢った。
それは、うだるような夏の真夜中のことだった。
水も湯も張っていない汚れた浴槽のなかで、彼女はぐったりと弱って見えた。僕はあわてて浴室に足を踏み入れ、横たわる彼女を抱きおこす。白い肌に触れるとわずかに湿っていた。肌を覆っていた水分が揮発して、べたついているような感じだった。シャワーの栓を開き、水をかけてやる。彼女はきっと人魚だから、お湯よりも水のほうがいいだろうと思ったのだ。まんべんなくシャワーを当ててやると、彼女はうれしそうに微笑んだ。尾ひれの鱗の青白い光が、艶やかにきらめいた。
時計の短針はとっくにてっぺんを越えていたが、あしたは幸いなことに休日なので夜更かしできる。とりあえず数ヶ月ぶりに浴室を掃除した。人魚とはいえこんな少女を汚い浴室に寝かせておくわけにはいかない。かといって、リビングに招いてはソファやらなにやらに水分が取られ、彼女の肌が渇いてしまうからよくない(人魚の生態なんてわかるわけなかったが、水をかけたときの彼女の安心したような笑顔から、なんだかそんな気がしていた)。ひとまずこの浴室を彼女の居場所とする必要があった。
きれいに掃除し終えると、浴室は見違えるようだった。ぴかぴかになった浴槽のなかに金髪の人魚がいて、なんだか現実感がない。手を洗って汗を拭いて、ふうと溜息をついて見下ろすと、彼女は不思議そうに僕を見返す。
彼女はたしかに人魚だった。上半身は人間だが、下半身は青白い鱗におおわれ、長く透きとおるひれがついている。
よくよく見てみると、尾ひれの付け根の部分が、きつく縛られたような跡があった。内出血していて痛そうだ。
「ひどいな、だれがこんなことを……」
どこかから逃げ出してきたんだろうか、しかしどうやってこんな場所に入ってきたんだろう。
「きみ、名前は?」
訊ねたいことは山ほどあったが、これから彼女と会話をしていくうえで、彼女を知ろうとしていくうえで重要なのは、彼女の名前だった。
「――」
しかし彼女は、僕の問いかけに答えなかった。また不思議そうに首を傾げて僕を見返すのだ。もしかして日本語が通じないのだろうか。ためしに自分を指さしてこう言ってみる。
「僕は、
い、と、は。一文字ずつ区切って発音してみても、彼女はただ首を傾げるばかり。その群青の瞳はまっすぐ僕を見つめている。言葉を理解しない、というよりも、言葉という概念を知らないように思える。人魚というのは意思の疎通に言葉を使わないのかもしれない。
だとしたらここで僕は、たいへん大きな問題に直面することになる。
「名前。なーまーえ」
「――」
彼女らが言葉を使わないのなら、じゃあどうやって意思疎通をすればいいんだろう。
辞書を片手にしゃべることも、身振り手振りを交えて話すこともできない。ていうかそもそも「名前」って身振りでどうやって表現するんだ。手話であれば手指で「名札」を表現すると聞いたことがあるが、人魚に名札なんてあるのか?
「どこから来たの?」
べつの質問を投げかけてみる。でもやっぱり、不思議そうな群青の視線が返ってくるばかりだ。そのあといくつか問いかけてはみたが、悲しいことになんの進展もみられなかった。
「まいったな……」
そう呟いてほおを掻く僕の指を、彼女はじっと見つめていた。僕はその視線に気づいて、彼女を見返す。
冷たいシャワーの水に濡れた白い肌に浮かぶ、群青色の大きな瞳。切なげに揺れるその光は、僕の意識を捉えてはなさない。まるで吸い込まれるような感覚に襲われる。
ぴちゃん。
「きみは」
ふと口から言葉がこぼれた。彼女の髪から、ぽとりとしずくが落ちる。頼りない浴室の照明を受けて、そのしずくは光の玉となって浴室の床に弾けた。
「レイネ」
僕の呼び声は浴室に反響し、僕たちだけの世界を包み込んだ。
真夜中に出逢った人魚に、僕は「レイネ」と名前をつけた。
レイネは、くすぐったそうに笑った。
その翌日、僕は近くのホームセンターへと赴いた。
部屋に現れた人魚のために、とあるものを手に入れるためだ。
そのとあるもの、ちいさいころはよく遊んでいたが、社会人になってからはほとんど触れることがなく、目にすることもなくなっていた。二十代も半ばに差しかかったいま、そんなものを買おうとするなんて思いもしなかったが、その戸惑いも浴室の人魚のことを考えれば吹き飛ぶのだった。しかしやはり、広いホームセンターから買い慣れないそれを探し当てるのはさすがに体力が尽きて、僕は早々に店員に声をかけた。
「ビニールプール、ですか?」
にこやかに対応する中年の女性店員は、やや逡巡したあと、「こちらです」と僕を店の奥のほうまで誘導する。僕もそれにおとなしくついていく。距離があるようで、店員は他愛ない接客トークをはじめた。
「もう夏ですもんねえ。ご家族用ですか?」
「いえ、家族では……」
部屋にとつぜん現れた人魚の少女用です、なんてほんとうのことを言ったらどう思われるだろう。身構えながらもうまい嘘もつけず、僕はあいまいに答えていく。
「親戚でしょうか? いいですね、夏休みで集まるんでしょうね。何名くらいで使われるご予定ですか?」
「ひとりです」
「えっ、ひとり?」
ついうっかり正直に答えてしまい。店員に怪訝な顔をされる。すごい角度で眉毛がつり上がっている。しまった、と思うが、彼女の表情にはまたにこやかな営業スマイルが戻る。
「遠方から遊びに来られるんでしょうね。いいですねえ。男の子ですか?」
「いえ、どうやら女の子で」
「なるほどぉ。お名前は?」
「『レイネ』にしました」
「えっ、しました?」
どえらい角度の眉毛に恐れおののきつつ、僕は必死に取り繕う。
「ぼ、僕が名付けたんです。ご両親も気に入ってくれて」
「……そうなんですかぁ、素敵ですねえ」
眉毛が徐々に平穏を取り戻しつつあるのに胸を撫で下ろしたところで、ようやくビニールプールの売り場に着いた。さすがは広い売り場面積を誇るホームセンター、ふだんからあまり馴染みのないビニールプールの品揃えさえなかなかのもので、商品を選ぶのにも骨が折れそうだ。
「なるべく大きいものがいいかな……」
「お使いになる場所の広さにもよりますねぇ」
「そうですね」
「ちなみにお使いはお庭で?」
「いえ、アパートの部屋で」
「え、部屋で?」
店員の眉毛は刺されたら痛そうな角度にまで達した。「日差しに弱い子で……」とあまりにも苦しい言い訳をすると、不承不承といったようすで眉毛をおさめる。もはや生きた心地がしない僕は、はやくプールを決めてこの場を去ろうと心に決めた。
「お子さん、おいくつなんですかぁ?」
「たぶん十五歳くらいですかね」
「じゅうごさいッ!?」
ぷつっとなにかが途切れるような音が聞こえた。見ると店員の顔は茹で上がっているかのように真っ赤だ。落ちたら二度と這い上がれないアリジゴクの巣みたいな、やばい角度になった眉毛を見て、眉間のしわに吸い込まれる不憫なアリの気持ちになりながら、僕はその場から逃げようとした。
いま思えば、親戚から預かる十五歳の女の子ひとりに部屋のなかでビニールプールで遊ばせてそれを眺める(とまでは言ってないが
適当に手に取ったビニールプールはやたら大きいもので、部屋まで持ち帰るのにひどく苦労した。
「ただいま……」
息を切らしながら部屋の扉を開けると、浴室からぴちゃんと水の跳ねる音が聞こえた。レイネは僕を見ると、濡れた群青の瞳でうれしそうに笑った。彼女はちゃんと浴室で僕の帰りを待ってくれていたのだ。部屋に戻ると自分以外のだれかがいるという不思議な感覚に、どこか甘やかなくすぐったさを感じた。
故障した扇風機くらいの送風力しかない僕の貧弱な肺活量によって、ビニールプールは数十分かけてふくらんだ。そこに浴室からシャワーヘッドを引き込み、栓を全開にして冷水を注ぎ込む。どんどん水が流れ込んで、大きめのビニールプールはすぐにいっぱいになった。その一部始終を、レイネは不思議そうにじっと眺めていた。
「おいで、レイネ」
手招きする。彼女は群青の瞳をまんまるにして、僕の指先と水の張ったビニールプールを交互に見比べた。やがて僕の意図を理解したのか、彼女はゆっくりと浴室から這って出てくる。ビニールプールの水面に映る自分の顔を見つめたあと、勢いよくプールに飛び込んだ。
「うわあッ!?」
ばしゃん!と冷水が弾け、蒸し暑いアパートの一室にさわやかな透明のしずくが舞った。きらきらとふたりの目の奥を照らしたあと、思い切り僕に襲いかかった。ビニールプールのすぐそばにいた僕は、レイネの水しぶきを頭からかぶったのだ。おかげで全身ずぶ濡れだった。
「おい、レイネ……」
「――」
うらめしげにうめくと、彼女は瞳をしばたかせる。そうやってまた、僕を不思議そうに見つめるのだ。僕はなんだかおかしくなって、思わず吹き出して笑ってしまった。そのようすを見た彼女も、つられて微笑む。僕たちはそうやって、おたがいびしょ濡れの体のままで、いつまでも笑いあっていた。
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