アパルトマンで見る夢は 5 ギター


 今日は朝から、気分がよかった。


 舞花は部屋の掃除をした。カーテンを開け、絞った雑巾で窓も拭いた。何だか、すべてが懐かしく思えた。


 十五歳。あの頃の舞花は、ちょうど今と同じように、一人、安アパートに暮らしながら、芸能事務所へ通っていた。レッスンがお休みの日は、近くのスーパーでバイトもした。


 夢と希望に満ちあふれていた、当時の自分。


 掃除をしながら、舞花の頭に、これまでの軌跡が蘇ってきた。


 雑誌のモデルとして、プロのカメラマンに撮ってもらった写真。その時のメイクさんに紹介されて、出させてもらった、コスメのCM。今の監督に見出されたのは、その頃だった。


 初舞台。監督や共演者たちから学んだ、演じるということ。厳しさで知られていた監督に、舞花は何度も泣かされた。でもそのつど、演技に磨きがかけられる。楽しかった。


 監督とはそれ以来の、とても長い付き合いになる。彼の意図していることが、だいぶ分かってくるようになった。そう思っていた。それなのに……。


 監督はなぜ、私に、こんな役を演じさせようとするのだろう……。


 もらった台本は、頭では暗記した。けれど心では、上手く言えない、納得できない気持ちがあった。


 自分がここへ送られたわけを……しばらくの休業が、ただ与えられたわけではないのだと、舞花はもう分かっていた。


 おそらく監督は、初心を思い出させようとしたのではないか。一人、孤独にすることで、逃げ場のない、自分の心と向き合う時間を、作ってやりたかったのだろう。


 舞花はそれを実感していた。演技がしたい。早く、あの舞台に立ちたい。監督の書いたセリフを、胸を張って喋りたい。


 だけど、それにはまだ、気持ちの整理が必要で、飲み込むまでに、時間がかかる……。


 私はまるで、若手の新人……。振り出しに戻されたような状況だった。


 キミカのことを思ってみた。


 キミカは、とても自由な女性だ。塞ぎ込みがちな私とは、真逆の性格。そんな彼女の存在が、今の私には必要だった。


 彼女の気持ちを、私は知りたい。もし、ここにいたのなら、どう考え、どういった行動をとるのか……。


 どうしても、彼女には会わなければならない。キミカからしか学べないことが、私にはきっとあるはずだ。


 部屋のインターホンが鳴って、舞花は意識を引き戻された。


「ごめんください。お届け物です」


 玄関に青いつなぎを着た、宅配便のおじさんが一人、立っていた。


「こちらに受け取りのサイン、お願いします」


 舞花はハンコを持っていなかったので、そのおじさんが差し出したペンで、指示された箇所にサインした。


 色紙用の崩したサインではなくて、普通に、漢字で「三鷹」と書いた。


 分厚い封筒を舞花に手渡し、おじさんは「ありがとうございました」と言って、去ってゆく。


 その時、舞花ははっとした。


 私、サングラスをしてない。でも……、掃除のために、マスクを口につけていた。顔は半分隠れていたので、たぶん、誰かは分からなかっただろう。


 舞花はあえてそう思い、くよくよ考えないことにした。私がもしキミカなら……こんなミスに、悩んだりはしないはず。


 寝室の机の上に、封筒の中身を引き出した。


 一冊の厚い本と、小さなメモが入っていた。


 メモは、端に破った形跡があった。監督の手帳から切り取られたものだと分かったのは、書かれていた字の、右肩上がりの特徴を、舞花が覚えていたからだった。


 舞花はメモを、声に出して読んだ。


「作曲家に依頼していた曲が、やっと仕上がった。劇のラストに流す、短い歌だ。ハミングでいい」


 本を手に取って開く。黒い印字が、縦書きで連なる。監督の書いた台本だった。ぱっと見たところ、ト書きもセリフも、前と同じ。ただ、最後のほうに一ページだけ、楽譜が追加されている。


 タイトルは、発音の分からない外国語で、「L'oiseau bleu」と書かれていた。歌詞はなく、これを鼻歌のように流したいのだろう、と舞花は察した。


 練習しておけ、と、監督はこれを寄越したのだろうが、複雑に並んだオタマジャクシの五線譜を、舞花は上手く読み解けなかった。


 携帯があれば調べることができるのに……。舞花はもどかしく思いながら、本を持ったまま、部屋をウロウロ歩き回った。


 その時だった。急に、強い風が吹いてきて、窓のカーテンが大きく揺れた。


 頭の中に、どこかで聞いたことのあるような、印象的なセリフが浮かんだ。


「……吹く風は同じ……」


 誰が言ってたんだっけ……。


 窓に近づいた舞花は、何気なく外を見下ろして、それから、静かに微笑んだ。


 そうだ。あの人が話していた言葉だった。


 アパルトマンの前で、絵を描いていたかけるが、ちょうど真下に見えていた。




「ロワゾー・ブルーだね」


 かけるは舞花に台本を返しながら、曲のタイトルを教えてくれた。


「フランス語だよ。きみは尋ねるべき人を、ちゃんと知っているな」


 元パリジャンさ、と彼は言って、自分で笑った。


 そんな彼の、今日の服。左右で違うポケットの色。頭にかぶったキャスケット。個性的なのはもう分かっていたので、舞花はさほど気にしなかった。もはや、変わらないのは、メガネだけだ……と、間違い探しのような感覚で気づけたのが、舞花には少し嬉しかった。


「それ、どういう意味なの?」


 舞花の問う視線を避けつつ、かけるは俯きがちに微笑んで、横に小さく頭を振った。


「言ったらきみは、僕の前から去ってしまう気がするよ。困るな……僕は続けていたいのに」


 早速スケッチブックを開き、かけるは鉛筆を動かし始めた。舞花は外したサングラスを手に持ったまま、しばらくかけるの様子を見ていた。


 描く時は、塞がれるように見える、かけるの瞳。舞花を確認する時は、目と目が合ってしまいそうになる。けれど一秒にも満たない、対象と手元を往復させる、視線の速さ。


 描くことが、この人の情熱なんだ、と舞花は思う。私が演じたいという熱意を持っているように、彼も、その心に熱を持つ。そしてそれが、私には見える。


「口実は、バレそうなくらいが可愛いんだ」


 とかけるは、唇の端を、ほんの少し上げながら、舞花に言った。


「きみは女優さんなのに、お芝居が下手だね。僕に会いたいのなら、ウソなんかつかなくてもいいのに。僕は毎日、ここにいるから。きみも毎日、下りておいでよ」


 かけるが何を言ったのか、よく解からなかった舞花は、「え?」と言って、聞き返した。かけるは手を止めて、顔を上げた。


「ジョークだよ。こんな美人を前にして、口説かないって失礼だろう?」


「ねえ、待って。私があなたと話したいから、わざとフランス語を持ってきたって、そう思ったの?」


「説明すんなよ、恥ずかしいだろ」


 小さなことで、二人は急に、言い争いになってしまった。


「じゃなきゃ、きみ、なんで前と同じ服を着て、僕の前に立ってるんだい? 絵の続きを、僕に描かせてやりたかったんじゃないの?」


「このワンピースには、いろいろと、わけがあるのよ。勝手に誤解しないでよ」


「誤解させたのはきみのほうだよ。人をからかって楽しむのが、芸能人のお遊びってやつかい」


「違うわよ。ここでは私、ただ知り合いが、他に誰もいなかったから、だから、あなたに……」


 二人は顔を見合わせて、少し黙った。それから、どちらからともなく、無言のままで、笑顔になった。


 なんて子供じみたこと……。笑いながら、舞花は思った。こんなくだらないことでも、笑えるんだ。私たちって、バカみたいね。だけど何だか、平和だわ……。


「僕も演じているんだよ」


 と、かけるが、指先で鉛筆を回転させながら、小声で話した。


「絵描きという、明るいキャラクター像をね。普段は、こんなに喋らない。意外だって思うだろうな。たぶん……口数が多いのは、友好的に見せるための、はったりなんだ。でも、それでもいいよ。自分を騙せるんなら、人だって僕のことを、こういうやつなんだって、信じてくれるだろうしね」


 舞花は、台本をきつく握った。


「きっと世界中の誰もが、いいように、自分を偽って生きてるんだよ。だから、この世は騙し合いだ」


 そう言って笑うかけるが、舞花の目には大人びて見えた。子供だと思ったり、大人だと思ったり、やっぱりこの人は、不思議な人だ……掴みどころのない感じ。


 かけるの鉛筆が、回していた指から転がり、地面に落ちた。伸ばした手で拾い上げて、「芯が折れた」と、小さく呟く。


 舞花はさっきから、自分が強い力で台本を掴んでいることに、気がついた。鉛筆の先を触っていたかけるに、控えめに言う。


「実はもう一つ、聞きたいことがあって……。楽譜が読める人に、このメロディを教えてもらいたいんだけど……」


 折れた鉛筆とスケッチブックを、机代わりの木箱に置いて、かけるはポケットの一つから、携帯電話を取り出した。ワンプッシュで誰かに繋がり、かけるが喋る。


「こっちに、ギター持ってきて」


 ほどなくして、アパルトマンからオーナーの多田がやってきた。白に近い木目の、アコースティックギターを抱いていた。


「本当にきみは、質問をする相手のチョイスが、上手だね。父さんは昔、ギタリストだったんだ。この年になってもまだ、捨てきれずにいるんだよ。かっこいいぜ」


 息子からそう紹介されると、ギターを構えながら、オーナーは舞花に向き直って言った。


「ああ、三鷹様でしたか。演奏でしたら、お任せください。この一階、一号室に住んでいるので、お好きな時に、お声をかけてくだされば、すぐに飛んで行きますよ」


 元ギタリストの血が騒ぐのか、オーナーはそれを早く鳴らせたくて、ウズウズしているように見えた。


 一度、火がついた情熱というのは、そう簡単には消えないわね……と、そのギターを見つめながら、舞花は声には出さずに、密かに思った。


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