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 頬が冷たい。窓の外から雨音が聞こえる。肩口が毛布からはみ出てることに気づい

て急に寒気を強く感じてきた。寝巻きに着替えた覚えはないから、また莎緒子《さお

こ》さんに迷惑をかけてしまったみたい……。体のだるさがすごくて首さえも動かしたくないけど、そんなこと言ってたら一生この姿勢のまま暮らしかねない気がするので頑張ってベッドから起き上がってみた。


「痛ったぁ~……」


 背中とふくらはぎと胸、それと首に手首に足首に、おまけに口周りに鈍痛が走ってきた。いつの頃の筋肉痛かもはっきり覚えていないとは……、しっかりしなきゃ私。


「あれ?いっけない何時だろ今?」


 キッチンまで這いずって出てくるとリビングから莎緒子さおこさんの話し声が聞こえてきた。ソファーで激しく言い合っている様子だけど、相手の声は聞こえない。電話なのかな?レンジボードに寄っかかりながら考えてるとボタンを押す音が聞

こえてリビングが静かになった。


莎緒子さおこさんごめんなさい、今何時ですか?」

「あぁこうちゃん起きた?ぐっすり寝てたから起こさないほうがいいかと思ってさ。今11時になったところだよ」


 まずい!今日のバイトは10時半始まりなんだった!

莎緒子さおこさん電話貸してっ、あっ!」


 レンジボードに着いていた手が滑ってリビングにすっ転ぶ。全身がじんわりと熱くなって次の瞬間筋肉痛の余波が襲いかかってくる。正直すごく痛い。


「もうこうちゃん、またベッドに置き忘れたでしょ。どのあたりに置いたか覚えてる?」

「お、覚えてないぃ~……」


 耳元の足音が遠ざかっていき、一分もかからずに戻ってきた。痛みに耐えながら助け起こして貰って深呼吸をし、目元に大事なそれをかけてようやく大分近づいた。


「止めときなよ~そんな調子で行ったってむしろ迷惑じゃない?」

「だから連絡だけでもしようかって。こんな体で雇ってもらってる立場ですし」

「そんなこと言わないの!仕事してもらってるのは向こうなんだから。言いにくいなら私から連絡しとくよ?」


 お言葉に甘えた。わざわざ電話機での呼び出しで休みの連絡を入れるのはバツが悪かったし。明日から頑張って働いて評価を取り戻せば問題ないのだから!まぁクビになってなければの話だけど。


「そういえばさっき誰と話してたんですか?」

「ん?昔の職場友達。それより何か食べよ?魚でも焼こうか?」


 シャケの気分じゃなかったけどすっからかんになったこのお腹は早急に栄養を欲しがってたのでまたもやお言葉に甘えることにした。窓の外では昨日の夜よりも勢いを増した雨が窓を打ち鳴らしてる。その時の私は、なんで昨夜の雨模様だけが記憶に残ってるのかなんて気にも留めてなかったんだけど。




 秋も終わりに差し掛かって日もだいぶ短くなってきたみたいだ。外から差し込む光量値が下がってきた午後5時14分、1年中長袖が手放せないような気候になってしまった今では、これだけが季節を感じさせてくれる。


 昼食後にコーヒーを飲んで「暗くなる前に行ってきちゃうね」と莎緒子さおこさんが買い物に行っている間に溜まっていた洗濯物を私は頑張って消化していた。ものぐさの二人暮らしじゃ、いくら全部が5分で完了する洗濯乾燥機でも洗いきるまでには時間がかかってしまう。全6軍中の4軍目を始めたところで玄関の呼び鈴が鳴ったのが聞こえた。


「よぉし!ナイスタイミング!」


 ぶっちゃけ半分以上が莎緒子さおこの洗濯物なんだから少しくらい手伝ってもらわないと割に合わないと思う!買い物帰りで悪いけどここは共同戦線をお願いしよう!思い立って急いで玄関まで駆け出していく。

 補肉剤のお陰でだいぶ和らいでるけど、くすぶった腱の疲労ででわずかなでダメージを受けつつインターホンを受けた。


「はいはい♪お帰りなさーい!」

 

……返事がない。気付かれた?あまりにもご機嫌過ぎたかな?それともただの宅配の人だったかも!?だとしたら猛烈に気まずい……。確認するために玄関のモニターを付けた。……誰もいない?ウソ、確かにベルは鳴ったんだけど、もしかして、彼女莎緒子も同じ考えを?慌ててドアを開け放った。


 日が落ちかける薄暗い秋の空気が目の前に広がって、その下に一人の輪郭が見え隠れする。腰くらいの高さに気配を感じて目線を下げると小さな人影と視線が合ったのを感じた。恐らく9~10歳、厚手のワンピースと笠のようなシルエットで私は下校途中の小学生が迷い込んだのだと思った。


「えぇっと……おうち間違えてないかな?」



 慣れない相手に精一杯真似事のような言葉づかいで話しかけてみる。このぐらいの大きさだと幾つぐらいだろう?もし泣かれでもしたら人が来ちゃうかもしれないし……あぁどうしたものか。


「うぅんとねぇキミ、ウチに電話って置いてあったりする?もし良かったらお姉さんがお家に知らせてあげようか?」


 しゃがんで視線を合わせてはみたけど、いきなり知らない大人からこんなこと言われたってねぇ……。警察を呼んでもいいんだけど、前に呼んだときは莎緒子さおこさんに凄い怒られたし。でもこのまま置いておいたら冷え込んできて家に帰せなくなるかも、確か今夜は雪になる予報だ。


 しゃがんだまま考えを巡らせていると急にその子がきびすを返して走り出し庭を突っ切っていってしまった。。庭を超えた先は交通量は少ないけどしっかりリニアが走っている車道に出てしまう。慌てて立ち上がって追いかけ始めたけど、門の中では追えていた影を車道に出る頃には見失ってしまった。辺りを見回しても似たような大きさのものは感じられない。心配と急な動きで息を切らしながら呼びかけるも返事はない。


「あれぇ……」

 何故だろう。大して走ってもいないのに胸が苦しくなってきた。手足は枷をはめられたみたいに窮屈に感じ、不自然なくらいの騒音が耳の奥から這い出てくるように響く。体が、目玉が焼けるように熱くなる。瞬きを一つ。瞼を開けると先程の見慣れた景色は消え失せ、私の虚構の視界には赤ぼけた白黒が広がっていた。


 ひび割れた路面。雑草が生い茂るビルディング。そして私の周りには真っ黒な硬い人影が走り回り何かから逃げまどっている。どこか懐かしさを感じるその姿の上を見れば灰色の線で区切られた狭い空の中に黒い点が一つ、二つと浮かんでいる。段々と近づいてくるそれから光が漏れると、轟音と一緒に地面がめくれ上がってバラバラの灰色と水っぽい赤色が顔に降りかかってきた。重い腕を上げて顔をぬぐおうとするけど触れられない、分厚いアクリルみたいな透明が目の前を塞いでて掌に着いた赤色がただ塗り広げられた。


 何故だろう?これ知ってる。私はここを……


駄目だ!


 誰?誰が私を知ってるの?後ろから響く叫び声に向き直ってみると、硬い影達とは違う誰かがそこにいた。

知っている。私は彼を。

知らない。私は彼を?

知らないはずなのに何故

なんで私は……


紅!




「……ぅちゃん!しっかりしてこうちゃん!」


 聞き慣れた呼び声で目を開ける。横倒しで下敷きになった右手の甲にはフローリングの感触。察するに帰ってきたら私が洗濯物をぶちまけて倒れていたとかそんな感じだったのだかな?


「どうしたの莎緒子さおこさん……」

「どうしたのじゃないよ!倒れてたんだよ居間の真ん中で!発作でも起こしたのかと思って心配したんだから!」

「……どこ?」


 天井と同じ画角で視界に移りこむのは、見知ったこの人と頭の横に広がった洗濯物の4軍だけだ。


「え、何が?」

「小さい子がインターホン鳴らして玄関の前に立ってて、多分迷子かなんかだと思ったんですけど……追いかけて外に出たら見失っちゃって」

「……でも鍵かかってたよ?」


 自力で戻ってきた記憶は無い。頭から引っ張り出そうと考え始めると奥の方から鈍い痛みが出てきて思はず抱える。また同居人の心配そうな声が漏れてきたので安心させるために何か話そう。


「ごめん、なんかお昼食べ過ぎて急に眠くなっちゃったみたいで。最近連勤で寝不足気味だったし」

「それにしては顔が苦しそうだったけど……」


 言い伏せるにはもう少し材料が欲しい。嘘の調味には少しのホントだと思いついて先ほど見たビジョンについて莎緒子さおこさんに伝えてみた。もちろん与太話みたいなノリでだけど。


「景色とか人の顔とかがちゃんと見えてさ。知らない人から声とかかけられちゃったりして。」

「そ、そう……。体は問題ないのね?」


 かき回された頭で必死に言葉を紡ぐ私の肩を莎緒子さおこさんはそっと抱き寄せてくれた。懐かしい温かさと柔らかさに包み込まれて、私は知らないけれど多分「春」ってこんな感じだと思わせてくれるこの安らぎが、胸の中に小さく残ったこの怖さを忘れされてくれる……そんな気がしてたんだ。


「また、コーヒーでも淹れようか」





十之とおのさん、最近どうしたの?」


 休憩室で2週間ぶりに再会した同僚との会話の出だしとしてはかなりのザックリ具合。菓子パンをほおぼっていて答えるのに手間取って妙な間が開く。同僚の視線を感じながらしっかりと飲み込むと、あそこまで短い質問を聞き返してしまった。


「いや、十之さん最近シフトにない休みが増えてきて、人手は足りてるから別に困ってるとかじゃないんだけど。何か生活に急な変化とかがあってそれについていけなくて参ってるんじゃないかな?とか思ってたんだよね」


 二階堂さんは基地局の仕事では半年の先輩だ。雇用枠で入った私の教育係として色々な仕事を懇切丁寧に教えてくれている。かれこれ3年程の付き合いになるけどそこまで親しい間柄という訳でなく、あくまで職場での関係が良好というくらいの付き合いだった。


「えぇいや、特に変わったって訳じゃ無いんですけど……」


 無意識に嘘をつく。一週間前のあの出来事から今日、ろくに眠っていない。目を閉じるのが怖い。瞼を開く度にあのひび割れに囲まれているのではないかと思うと怖くなる。


「もしかして、昔の事とか少し思い出せたりしたの?」


 良い人なのは分かってはいるがこういう部分に対するデリカシーだけは残念な出来の人だ。お酒の勢いで身の上話なんてする私の責任も半分あるんだけど、そう簡単に思い出せるもじゃ無いことくらい分からないものかな?


「もし仕事以外でも困ってることがあったら言ってね!大丈夫あたし口硬いから!」

 ありがとうございます、お気持ちだけ受け取っておきます。


 退勤処理をして外に出ると、光量センサーでもすっかり町が闇に包まれたことが分かるくらいの時刻だった。リニアカーは下り車線に集まり、人は駅やバス停に、掲示板からは帰宅を促す音声が流れて、私たち働き手の一日がこうして終わっていく。そもそも今の時代夜に遊びに出るような場所なんてほとんど無いんだけど。



 さっきまでの会話で自分の立場を再認識しても、今の私には現状維持が精いっぱいだ。もう5年になる。昔のことを思い出そうとしなかった日は無い。


 気が付くと皮が裂けそうなほど冷たい雨の中で抱きしめられていた。路地の中でも痛いほどの雨が降り注いで、そんな量の雨でも洗い流せないくらいに、私の手は汚れてた。抱き寄せる人の手が私に手と重なって上から強く握りしめた。


「もう大丈夫だよ」


 それが莎緒子さおこさんとの出会い。次の記憶は病院のベッドの上だ。16歳ただ一人、被災地の近くの病院で家族の名前も思い出せず、こんな体で行く当てのない私に莎緒子さおこさんは声をかけてくれた。


「貴方は、誰なんですか?」

「口では説明するのが難しいの。あなたの大切な人の友達って言ったら分かりやすいかな?」

「大切な人?」

十之紅とおのこうさん、だよね?」

「皆そう呼びます、自覚は無いですけど……」

「これは君の名前。これから生きていくためのしるべなんだよ十之とおのさん。人が亡くなったの。あまりにも多く、あまりにも無為に。でもあなたは生きてる。こうして私と話をして、疑問を感じられるほどに人間らしくね。でもその代わりあなたは思い出を失くした。生まれてから今までの貴方のとしての全てを。だからこの名前だけは離さないで。こうさん、ここから人生を新しく作っていく勇気があるなら、一緒に行きましょう?」


 今思えば笑っちゃうくらい仰々しい話し方だったな。この話をすると夕食の支度をほっぽり出してしまうから、莎緒子さおこさんにはあまり話さない。今の話し方に変わってきたのはそれから3か月くらいしたころからだったかな?以来私は莎緒子さおこさんの住まいで一緒に暮らしている。感謝してもしきれないほどにお世話になりながら。


 頬に伝わる空気に湿り気が混じり始めた。もうすぐ雨が降りそうな気配だ。今日は莎緒子さおこさんも同じ時間の帰りだから車は無い。混んでしまう前に早めに駅に行かなくては。思考を回想から行動に切り替えて足早にリニアの駅に向かう。


 一つ、また一つとすれ違うビルの看板から光が消えいくのを目で追っていると自然と空を見上げていた。もしこの体が生まれつきのモノなら恐らく一度としてこの空の色を見たことは無いんだろう。でももし世界が”あの夢”の通りにできているのなら、私は色を知っている。この寒空を見上げて深呼吸をするときに感じるこの気持ちには、私には懐かしさに似た心地良さだ。流れ星が煌めいたことすら分からないのに、この夜空は私の瞳の色を知っているような、そんな気がしてたまらなくなるのだ。


「うわわっ、」


 大型のリニアカーが真横を通り過ぎて、舞い上がった風が顔に吹きかかる。鞄でのでガードは効果はいまひとつ。乾かされた目をこすって進路へ視線を集中させたとき、


「あの子……」


 歩道の真ん中で立ちすくむ小さな人影。それだけでも何故か分かった。「あの日の子」だと。身長は140センチくらい。5、6メートルほど距離があってもその小さな躰を見つめる私の目はまるで縛り付けられたように固まってしまった。輪郭を読み取りながら思考を巡らせていると、昨日の子は私に気が付いたような様子を見せてこっちを向いた。


「え?」


 何故かは分からない。私を見てあの子は笑った。でも、なんでそれが分かったんだろう?一瞬の思考うちに目の前の小さな輪郭は背中を向けて走り出した。


「ちょっちょっと待って!」


 金縛りが解かれたように体がほぐれ、走り去るあの子に向かって駆け出した。。正体も分からないまま目の前の小さな輪郭を追い続ける。右に、左に、左に、上に。歩道や交差点、階段を疲れも知らずに縫うように軽やかに駆ける。時々こっちに振り返って観察するようなそぶりを見せてまた走り始める。以前の事といい、遊ばれているような気がしてきてならない。距離が離れれば曲がった路地の先で待っているし、信号を挟んでもこっちを振り切ろうというようなことはしてこない。私が追いかけてきていることだけを確認すると再び走り始めるのだ。


 車群に気を付けつつ15分ほど走り続け、ようやく距離が詰まってくると向かう先に強い光を感じる。べた付いた突風と汽笛の音、無我夢中の追跡で港にまで出てきてしまったみたい。サーチライトをモロに浴びて機能に支障が出ないように視線を地面に傾けて進んでいるうちにあの子の姿を見失ってしまった。


「隠れないで!あなたは何?私に何の用があるの?この前の夢は?」

 周りに人影が見えないことを確認してから環境音に負けないように大きめの声で呼びかける。360度見まわして元の位置に目線が返ってくると追いかけ始める前と同じような距離にあの子の影を見つけた。


「ごめんね、急に追いかけたりなんか……」


 まただ。めまいと耳鳴り、でも違う。まるで外から何かが入ってくるみたい。太いストローで頭蓋骨を砕かれて何かを流し込まれているみたいに頭の中に直接情報がしみ込んでくる。苦しさは無い。麻酔でもかけられたように体は私の命令を受け付けずそのままアスファルトの上に倒れこんだ。地面の冷たささえも次第に消え失せていき手足から徐々に感覚を奪われ、最後に残された思考の部分が揺らぎ始めた。


 もしかして死ぬのだろうか私は。あんなに強く差し込んでいたサーチライトの光も小さくなっていき意識が混濁する。あぁ、……できればもっと……思い出したかった……




ねぇ


そこで寝たらかぜひくよ


―――――




「特装は!?」

「どうなってるんだあいつ!」

「カーボンじゃ駄目だ!ターボを寄こせ!」

「このやガッ、」

破砕

衝撃

「早く二発目を!」

破砕

排莢

接続

上書き

「貴様何を……」

破砕

同期開始

Blind EyE

完了

退避





 生存本能が死にかけの体を起動し酸素を供給させた。揺れる思考と意識の回復に集中すると酸素が使い切られてまたベッドに沈み込む。やっとの思いで半身を起こしてベッドに片手を着き、もう片方に手でグラスを探し回った。サイドテーブルの上の物体をはじき落してしまい慌ててベッドからずり落ちると床に両手を這わせて必死に捜索する。


「あった!」


 視界を取り戻しここが自宅であることを理解すると、リビングに駆け出しながら同居人の名前を大声で叫ぶ。ぎょっとした声で反応した彼女に振り向き駆け寄って、心の中の疑問をぶちまけた。


「あの子は!?」

「あ、あの子って?」

「昨夜の子、港まで一緒にいた!」

「昨夜?港?何の話してるの紅ちゃん」


 知らされた。私が病院に運ばれたとの連絡を受けて私を連れ帰り、看病をしながら、今日目覚めるまで二日半要したと。今は28日の朝で私が無事に目覚めたことに莎緒子さんはとても喜んでいた。でも私は……


―そこで寝たら風邪ひくよー


 じっとしていられなかった。体を心配して引き留める莎緒子さおこさんの声も聞かずにリニアカーのカギを借りると、庭先に止めてあったそれですぐさま出発する。


 国道のレールから外れそうなスピードの中で私は先程の眠りの中のイメージを脳内で反芻はんすうし始めた。前のとは違い見覚えは無い、でも妙な臨場感があった。視界は無く自由も無く、曖昧な意志だけを外から送られてそれに従う自動人形。そんな風に見える誰かがそこにいたのは覚えているけど、それを私は俯瞰ではなく主観で見ていた。まるで瞳に埋め込まれたドライブレコーダーだ。


 本格的に都市部へと入って車の電話機に着信あった。心配して家から連絡してきたんだろうけどごめんなさい、今は無視の一手だ。職場に近づいてきたことをナビの音声で確認したら歩道に車を寄せて鍵もかけずに飛び出す。


「待ってて!」


 通いなれた通勤路とは少し離れていたので道順に戸惑いながら昨日の港を目指す。物理標識も案内板も無くあたりを右往左往していると、道の先に人だかりの様な線ができているのが見えた。胸騒ぎがする。起こって欲しくない事象は決まって最悪な段階まで育ってから現実になるものだと決まって言ってたっけ。猛ダッシュで人山に突っ込み肉の壁をかき分けながら前に進む。故意や事故で罵声と拳をぶつけられながらも人波の先頭から突き出て進み続けた。後ろから呼び止める誰かの声にも構わないで目の前に張られた変なビラビラを破って走り続けると、ついに(私にとって)昨夜までいたあの港にたどり着いた。


「どこ!?どこなの!?」


 変だ。不気味なほど静まり返ってる。作業員の人も停泊している貨物船も見えない。こんな時間にここまで人気がないってどういう、


「伏せて!」

―――――――――――!!!


 突然の忠告から一呼吸も空けずに、左から右へ真上の空気が切り裂かれて炸裂した。衝撃で空気が切り裂かれて地面に倒れると、轟音が響いてきた方向から角ばった人型が2、3人現れて一斉に砲撃を始めたのだ。


大査たいさ!そいつをどけろ!」


 カチカチの角人間かくにんげんの影から乱暴な呼びかけが聞こえると、建物の影から一人が駆け寄ってきた。


「危険です!こっちに!」


 比較的小柄に見えた輪郭からは想像できない力で抱えあげられて思わず声が出る。モーターみたいな音を立てながら抱えられてその場を後にする最中、角ばった人からいくつかの豆粒が飛び出して、次の瞬間とてつもない爆発が起こった。


「急に動かないでさい!落ちますよ!」


 抱える腕に力が籠められる。一歩ごとに2メートル程を飛ぶように動いて、私の呼吸が整う頃には大きいビルの影に着いていた。


「停止線が見えなかったんですか!おかげで死にかけましたよ!」


 私に言ってるのかな?6割くらい自分のことを言ってるようなに聞こえるけど。毎秒ごとに遠くで空気が割れるような衝撃が起こり、こっちにまで旋風が届いてくる。安全圏にまで達したと感じてここに来た目的を思い出し、目の前の彼に問いかけた。


「あの!小さい子がここにいませんでしたか!?」

「何をいきなり!ここがどういう場所か知ってて行ってるんですか貴方!」


 お互い鬼気迫る声で相手に問いかけてはいるが、彼の口調は詰問に近い。まるで躾のなっていないペットを叱り飛ばすような言い方だ。


「ここは普通の港じゃない!民間人が足を踏み入れれば次の日の朝には臓器と血液に分けられて出国していくような。子どもなんかが入っていったら無事で済むわけがない場所なんです!」


 危険な場所であることは十分に理解できた。でもそれが事実ならあの夜の穏やかさはどう説明すればいいんだろう?


「ここから裏道を通って安全な場所まで運びます。僕はすぐに戻りますがここで起こったことは、正式に報道があるまで決して他言しないように!いいですね!」


 違う。こんな都心で危ない人たちが活動なんてしていたら警察はもちろん一般人だって気付かないわけがない。この人は嘘をついている。どうして?


破砕


「あ”ぁ”っ!」

 脳細胞に電気を通された様な強烈な痛み。誰かが呼んでいる。私を、だれが……?あの子が呼んでるの?痛みは鋭さから重さに素早く形を変えて頭の上からのしかかってくる。抱えられた腕を思わず払いのけると体はコンクリートの上に投げ出された。


「どうしました!?」


 急に我を忘れて地面でのたうち回る私を見て、彼らは心配しているのだろうか?

―違う、彼こそ逆賊。神の名を冒涜し叡智えいちけがす無神論者の徒―

―ちがう、この人は牧田京弥まきたきょうや。あなたの味方―


「待って!危険ですよ!」


 

 気が付くと走り出してた。喧騒ははるか後方から響いて恩人の姿はもう見えない。ここはどこだろう。足の裏には痛みと一緒に何かが滲み、肺は貯蓄を使い切って悲鳴を上げてる。目で見えなくてもどれ程の無謀な行ないだったのかを肌で感じ取ってその場でへたり込んだ。あの子はどこだろうか。いや、あんな場所に居たのだからもう命は無いかもしれない。それどころか私まで……


 ?あんな場で気を失って、なんで生きている?何があったの?あの場所で。あの子は私に何をした?朝の都会の雑音が耳に入り始めても人々の話し声が聞こえ始めても。

 心をあの激場げきじょうに捕らわれそうになった時、何かが動いた。向かいのビルの間の路地で。あの子だ。体に意識が戻り、自分の見たものが現実であるかを確かめるために満身創痍の五体を引きずり起こす。


「ねぇ!ちょっと!」


 駆け寄りながら声をかけると人影はこっちに気づいて小さく震えだした。


「大丈夫!?ケガしてない!?」


 日陰で小さく丸まるその人影に近寄って声をかける。


「立てそう?」


 吐息がかかる距離にまで近づき助け起こそうと人影の脇腹を掴んだ時、目が合った。目線なんて分からないけど、私の瞳の先には確かにの瞳がある。息は擦り切れ、精神は撹拌されて、今にもすり潰されそうな自意識の中でつぶやきが聞こえる。

 

「お前は、何だ……?」


 昔は無くしたと思ってた。今の私に無いモノだと。その事実が変わらなくても、その声は”私の昔”に残っている。


―駄目だ!紅!―


 まどろみの中で私の名を呼んだ。

 2087年11月28日午前8時13分。ここからが私の「今」だ。

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