第21話

「んー……?」


 眠い目をこすりながら、アンジュは身体を起こした。

 外はすでに暗い。揺れていた世界はいつの間にかどこかの部屋へと変わっている。


「……………………寝落ちた」


 気分が悪くて、馬車を止めて貰って吐き戻したのは覚えている。

 そのあとも続く吐き気にぐでぐでしていた記憶はあるが、それ以降の記憶はない。


 また迷惑かけた事実に気分が鬱々とする。


 眉をひそめ、閉じていた瞼にほんのりと明かりが灯った。

 薄めを開くと、ゆらゆらと揺れるランプの横に、振り返る人影がある。


「気分はどうだ」


 夜ゆえに潜められた声。

 けれどもそこに自分を案じる響きがあって、アンジュはがっくん、と首を垂れ下げた。


「大丈夫。ごめん。寝た」


 ぎゅっと瞼を固く閉じれば、じんわりと目元に暖かさが広がる。

 その心地よさに、辛うじてつなぎ止められている意識がとろけていく。


 瞼の裏のずっと奥で、ぐにゃりと何かが蠢いた。

 ささやき声よりも更に小さい、聞き取ることも難しいほどの声が響く。


 ――…………。


 よんでいる。何の用事だろうか、私は猛烈に眠いのに。


 ――……い………で……。


 むり。ねむい。


 ――おいで……。


 むりねる。おやすみなさい。


 意識を手放す直前、静電気が走ったような痺れに意識が引き戻される。


 ――ちっ……。


 びくりと跳ねた身体で辺りを見渡す。

 いつのまにかカルロが目の前にいて、驚きのあまり息を詰めた。


 こぼれ落ちそうになったよだれをすすり、口元を手の甲でぬぐう。


「眠いなら寝ていいんだぞ」

「大丈夫。今ので目が覚めた」


 先ほどよりも意識ははっきりしている。

 それでもこぼれ出るあくびに大きく口を開いた。


 目尻に浮かんだ涙をそのままに、カルロに頭を下げた。


「むしろ起こしてごめんなさい」

「気にするな。いつもこんな感じだからな」


 肩をすくめてみせるカルロに、アンジュはこてん、と首を傾げた。


「寝ないと背丈が伸びないよ」

「余計なお世話だ」


 息をついて立ち上がったカルロ。

 背を向けてランプのほうへと歩みを進める背中を眺めていると、折り曲げている足の上で、衣擦れの音がした。


 身体の横に投げ出していた腕に、身体を伸ばした白蛇がとぐろを巻く。


「……お前、巻きつくの好きだね」


 撫でようと反対の腕を持ち上げようとして、けれども重だるくて腕を落とした。


 噛まないし締め付けてこないし、なんなら何故か野生とは思えないくらい懐いてくれている。

 お前も変なやつだよなあ、と眺めているとちろちろと白蛇の舌が頰をくすぐる。

 頭を擦り付けてくるのは甘えているのだろうか。


 蛇らしからぬ行動に、やっぱり変なやつだなと、口元に小さく笑みを浮かべた。


「アンジュ。これ食っとけ」

「んー? あ、パンだ。……食えるかな」

「お腹空いてないのか?」

「どうだろう」


 今のところ空腹は感じていない。

 ただ、カルロの心配ももっともだ。今日は昼も夜も食べずにほぼ寝ていた。

 食べるだけ食べておこうと思うのだが、体が重い。

 全身が鉛になったみたいで、指を動かすのも億劫で。


「体がだるい……」

「なんだ、まだ気分が悪いのか」

「や、そーゆーわけじゃなく……。力が出ない……?」

「腹が減ってるからじゃないのか? 食えそうか?」

「たぶんお腹には入る」

「じゃあ食え。ほら」


 隣に腰を下ろしたカルロが、目の前にパンを差し出す。

 のろのろとかぶりついて、ゆっくりと噛み砕く。

 それを何回か繰り返したところで、激しく空腹を訴えるお腹に頷いた。


「お腹空いた」

「だから言ったろ」

「うん。カルロ正解」


 ゆっくりと一つ平らげて息を吐いた。

 怠いことには怠いが、食べる前よりは元気になった気がする。


 皿にのるもう一つのパンをおもむろに手に取り、小さくかじりついた。

 机の上に空になった皿をのせて、カルロはベッド前の床に座り込んだ。

 剣を抱えてベッドに背を預ける姿に、アンジュは小首を傾けながらパンをかじる。


「そういえば、どこで寝てたの?」

「ここで」

「ベッドを使えばいいのに」

「何かあったときに動きやすい」


 これはあれか。言ってみたい修羅場的セリフ第二弾を開催しろという思し召しか。

 その気力があったら是非やりたいのだが、生憎とその気力がない。


 もう一緒には寝てくれないのね、とか。

 昔は素直だったのに大きくなったのね、とか。


 ……あれ? 修羅場と言うよりおかんだな。

 修羅場って言うと、可愛い妹をさしおい愛剣と一緒に寝るなんて酷いわ、とかだな。

 でもまあ、おかんはおかんで楽しそうだし。


 楽しそう、というかやったら楽しいのは知っている。やっぱりちょっとやろうかな。

 のりのりで、というのは難しいけれど、言うくらいならできるし。


 どれにしようかなあ。


 最後の一口を口の中に放り込んで剣を抱えるようにして微動だにしないカルロを見下ろした。

 なんだろう。のりのりで台詞を言うのもそうだけれど、こう、沸き起こるいたずら心に内心首を傾げる。


 首を傾げながらも、いたずらしたい欲求に逆らうことはできなくて。

 カルロの肩に手を置いた。


 何事かと振り返ったカルロの頬に、伸ばしていた人差し指が突き刺さる。


「くふっ」


 見事に引っかかってくれたカルロにアンジュは小さく吹き出した。

 何がそこまでツボに入ったのか自分でもよく分からないけれど、笑いがこぼれ落ちる。


「……元気そうで何よりだ」

「うん。ありがとう。ところでカルロ」

「その意地の悪そうな顔からしていい予感はしないが、一応聞いておく。なんだ」

「もう一緒に寝てくれないなんてひどいわ。私と愛剣とどっちが大事なの」


 その言葉に硬直したカルロに、アンジュはくつくつと喉の奥で笑う。

 それでも耐えきれなくて、顔を背けて肩を震わせた。


 ひとしきり笑うなかで、いつまでたってもカルロから返答がないことに胸に一抹の不安がよぎる。


 いたずらが過ぎたかと恐る恐る首をめぐらせた。

 直後、視界がひっくり返り、ぼすっとベッドに受け止められた。

 横から斜めに覆い被さるようにして、カルロの両手が顔の横に置かれる。


「お前のほうが大事に決まってるだろう」


 見下ろしてくる静かな瞳。

 唖然としていたアンジュは、自分の状況を理解して、激しく動揺した。


「え、あ、はい。ごめんなさい」


 硬い顔で、視線を彷徨わせているアンジュを見下ろしながら、カルロは眉根をよせた。


 人のことを散々笑うから、腹が立ったのはある。

 アンジュと剣を比べるまでもなく、大事にしなきゃいけないのはアンジュのほうだ。

 それも軽視するような発言に、これくらいの仕返しなら許されるだろうと思ったのだが。


「なんでお前が戸惑ってんだよ」


 予想以上に効果がありすぎて逆に不安になる。

 アンジュの上から避けて、そのままベッドに腰掛けた。


 転がったままのアンジュは、折り曲げていた足を伸ばすと、宙ぶらりんになった脚のほうへ身体をずらす。

 そのままベッドから降りて床にへたり込んだ。脚から伝わる床の冷たさが心地いい。


 上から降り注ぐ変な物を見る目には気づくことなく、アンジュはおもむろに口を開いた。


「びっくりした……」

「俺はお前にびっくりしたよ」

「ごめんなさい。あの時みたいに、あしらわれるだけだと、思ってた、から」


 なんなら、相手にされないだろうなとも。

 それが想像しなかった形で帰ってきて、今でも動悸が収まらない。


 自分で嘲笑っておいて、返ってきた返答に傷ついている自分が滑稽で仕方なかった。

 真面目でも、おちゃらけてでも、剣のほうが大事だと言われたほうがましだった。

 重荷になりたくない。足枷になりたくない。そんな浅ましい心を見透かされたようで、胸が苦しい。


 それもこれも、昼間に見たあの戦闘のせいだろう。時間差できた精神的疲労かと、冷静な頭が今の自分を分析する。


 私がどうしたいと言っても、カルロにとっては枷でしかないのに。頭ではわかっている。戦闘もそうだが、これは恐らく現実に心が全く追いついていないと言うやつなのだろう。


 両膝を抱えて、体と足の空間に顔を埋めた。

 一切の表情をかき消して宙を凝視する。


 陰鬱と沈むアンジュの頭に、ぽんとカルロの手が置かれた。

 されるがままに頭を掻き回されて、少しばかり顔を上げる。でもカルロを見上げる事はできなかった。


「大丈夫だ。何があっても守るから」


 知ってる。そうしなければ、首が飛ぶのはカルロだから。

 卑屈だなと自分でも思う。でも否定できない事実だ。


 命そのものの価値なんてものは等しく同じなのに。

 社会的な地位によって変わる命の重さに辟易した。


「――うん。ありがとう」


 辟易しながらも、取り繕って気づかないふりをして、感謝を述べる。

 ただでさえ重荷なのに、これ以上、カルロの手を煩わせないようにしなければいけない。


 本来であれば十二やそこらの少年が、命がけで守らなければならない対象がいるってのがおかしな話だ。

 二年もそれを果たしている。これからも、時が来るまでそうするのだろう。


 思春期という思春期を送れないこの反動は、将来どう出てくるのだろう。

 その時が来た後で、カルロはどうするのだろう。


 聞きたいけれど、気軽に聴けるようなものではなくて服を握りしめた。


「いつまで床に座ってんだ。風邪引く前に寝るぞ」


 膝を抱えたまま動かないアンジュを案じて、カルロが声をかける。


 カルロの言動全てが、カルロ自身が生き残るためであり、アンジェリカという存在を案じているから出てくる言葉ではない。


 流石に卑屈になりすぎか。胸に巣くう罪悪感と認めたくない寂寥を押し込めて、努めて何事もなかったかのように立ち上がった。


「わかった」


 ベッドに登って、ぽてぽてと中央に移動して、壁の方を向いて横になる。

 その隣に横になったカルロに首を巡らせた。


「大丈夫だよ。ひとりで寝られる」

「黙って寝ろ」

 

 頭を撫でる温もりにじわりと目頭が熱くなった。

 わけもなく滲む涙をこぼさないように、静かに深呼吸を繰り返す。


 すぐに落ち着いた泣きたい衝動に、心の底から安堵して目を閉じた。






 はっと目を覚ましたカルロは体を起こして窓の外を見る。ほのかに明るい外に、ほっと息を吐いた。


 また寝過ごしたかと思った。


 そっとベッドを抜け出して服を着替えて背伸びをする。

 いつもより熟睡できた感覚に、体が軽い。前もそうだったなぁ、と取り留めもなく考えながらベッドを振り返った。


 眠るアンジュの顔色は、夜に比べて疲労の色が取れているがまだよろしくはない。

 目が覚めた時のアンジュはひどい顔をしていた。しかし自覚がなかったのだろう。人のことをからかって笑いながらも、その顔はどこか虚ろで。


「流石にそこまで気が回らなかったからな……」


 大丈夫と言ってはいたが、人が目の前で死んだのだ。この手で殺すのを目撃したのだ。

 なのに、へらへらとしていた姿は異様だとさえ思っていた。


 だからむしろ、自覚がないとはいえ精神的に参っている姿に、アンジュもちゃんと人だったと安心したのは事実だ。


 時折、変な言動があることも相変わらずだったが。


 いつものようにギルドに依頼を受けに行こうとして、ふと足を止めた。

 今のアンジュを一人にして大丈夫なのか色々と心配事が尽きない。


 依頼は早い者勝ちだ。

 日が昇っているのを見ると、もうギルドは開いているだろう。いい依頼が欲しければ、早くに動く必要がある。


 幸いなことに、捕まっていた間、奪われていたギルド証は生きている。異例の速さで決まって処分。けれどもギルド証が剥奪されていないところを見ると、すぐには手続きできなかった理由があるのだろう。


 そのおかげで、今もギルド証を使うことができるから、慌てて依頼を受けなくてもなんとかなるくらいの蓄えは健在だ。


「……、…………アンジュの様子次第だな」


 足を引き返して、ベッドに腰掛ける。

 眉間にしわを寄せて寝苦しそうにアンジュは呻いている。


 寒いのか身体を丸めて眉間にしわを寄せている。

 その顔色はよくはない。額に手のひらを当てるが熱はない。

 これから熱が上がるのだろう。


 思いとどまって良かったと自分の判断を褒める。

 道具を借りに部屋を出たカルロをじっと見つめていた白蛇は、アンジュの腕からするりとベッドへと降りる。


「しゃ――――!」


 誰もいない、何もない空間に向かって、白蛇は威嚇の声を上げた。

 その赤い瞳にだけ映る、アンジュを狙う黒い影がある。


 ちらちらと、遊ぶように踊る黒い影に牙を剥く。

 それを嘲笑うかのように、影は姿を消した。まるで、いつでも攻撃できるのだとでもいうように。


 見えなくなった敵に牙を収め、あたりを警戒するように体を伸ばす。

 近づいてくる足音に、扉をじっと見つめた白蛇はベッドから降りて、アンジュの鞄に体を滑り込ませた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る