時の向こう

灰色 洋鳥

 その時、俺は故郷の町を歩いていた。二十年ぶりの帰郷だった。故郷は、子供の頃の色鮮やかな思い出とは違い、いまは色褪せ活気を失っていた。賑やかなアーケードは夏になると夜店が出て見て回るだけでも期待と好奇心でワクワクしたものだ。二十年の歳月は地方の小都市から色を奪っていた。


 帰郷しなかった理由はよくある話で、家族とは折り合いが悪く、進学を機に都会に出てからそのまま一度も帰らなかった。親が嫌いだったわけでもない。故郷に帰る?それが俺の心に浮かばなかっただけた。

 両親はとうに世を去っていた。遺産も何も放棄していたが、兄貴がどうしてもと、クドくうるさいのでいい加減嫌になり、しょうがなしに一度くらいは、と法事に合わせ帰省した。

 面倒な儀式から逃げ出し、二度と戻るつもりはなかった町をうろついてみればそれなりに懐かしさは感じるもので、思わず過去の思い出を辿っていた。


 子供の頃のことはよく覚えているのに、受験前後の頃のことは覚えていない。思い出そうとしてももやがかかったかのように物事が曖昧に混じり合って、その頃の友人の顔も思い出せない。気にしてなかったが、こうして故郷に帰ってみるとつまらないものだ。高校の頃に友人たちとたむろした小さな公園。そのことは覚えているのに友人の顔も公園の場所も思い出せない。


 うろついているうちに日も傾いて、住処すみかに帰るのを早々に諦め今日はどうしたものかと思案しながら歩いていた。実家には俺の寝る部屋はない。ねめるような蔑むように人を見る兄貴の嫁に世話を頼むのもまっぴらとばかり失敬してきた。


 そろそろ腹も空いてきた。

 開いた店もなく、アーケードを端まで歩いて狭い路地に気がついた。そういえば、ここは子供の頃色鮮やかな明かりや看板がむせるようないかがわしさをかもし立ち入ることに躊躇ちゅうちょがあった横丁。いまは、明かりも切れ、看板は日に焼け色を失い、若い頃の色香がせた水商売の女のようだ。そのまま通り過ぎようとして目に止まるものがあった。


 やたらしっかりした木製のドアに違和感を感じて足を停めしげしげと見つめてしまった。飾り気はなく、色はアンチーク家具のようなこげ茶。色を塗ったというよりそれが持つ歴史がにじみ出ているような色合いだった。店なのか?。看板らしいものも見当たらない。近寄ると無意識に右手が伸びてそのドアを押していた。



 いま、思えばなぜそのドアを開けてしまったのか。



 重いドアを押し開けて中に入る。ドアは独りでに閉まった。

 中は薄暗く、分厚い自然木の黒い天板のカウンターが目を引く。右側の壁には映画スターの古びた写真がかけられている。左側には二人がけのテーブル席がひとつふたつ。カウンターの向こうの酒棚には見たことのない酒が並び琥珀こはく色のライトが香りを醸している。


 客は、まだだれも居ず、音量を絞った古いジャズがゆるやかに流れている。ああこれは、MorganaKingモーガナ・キングStardustスターダストだ、好きな曲だ。古い映画の一シーンが頭に浮かぶが、なんの映画だったのかもいまは思い出せない。


 カウンターの中には髭面ひげづらのバーテンダーが口元はにこやかなのに無表情の目でこちらを見つめている。店の雰囲気とのギャップに俺は面食らってしまい声を出すのも忘れ立ちつくす。


「いらっしゃい」

 その声で停まっていた体が動き出す。そのまま進みカウンター席に座る。顔を上げバーテンダーと目が合うと、さっきの無表情はなんだったのか、普通にこやかな笑顔で会釈えしゃくを返してきた。

「押しひらくドアとは珍しいですね」

 とりあえずの話題で気になっていたことを聞いてみた。

 ニヤリと笑い。愛想良さそうな相槌あいづちを返してきた。

「先代のこだわりでして。ここは入れる客しか入れないんですよ」

 その時にはその意味はわからなかった。さらに質問を続けようとする俺の切っ先を制すように聞き返してきた。

「お客さん注文は何にしますか」

「ああ、そうだな。

 ここは、いろいろそろっているね。そこの、GLENGOYNEグレンゴイン17年はまだ飲んだことがないな。

 それを、シングルのロックで」

「承知しました」


 バーテンダーは、なめらかで手慣れた仕草で瓶を棚から取るとカウンターに置く。コトリという音も立てない見事な仕草でラベルが俺によく見えるように置く。氷をアイスピックで砕くと三つほどグラスに入れる。当然のようにグラスはよく磨いてあり曇り一つない。氷がグラスに触れると高い澄んだ音が響く。瓶からスコッチを注ぐ。軽くステイするとカラカラと立てる音が飲まぬうちから香りを鼻腔に運ぶ。

 グラスを俺の真正面に静かに置き、テーブルの上に置いてある俺の右手に合わせて少し押し出す。

 何もかもが洗練されており、こんな田舎の小都市のバーテンダーとは思えない技量と仕草だった。


 グラスを持ち、口元まで運ぶとオークを含んだ独特の香りが鼻をつく。一口含むと口の中に芳香ほうこうが広がり鼻に抜ける。

「ああ、美味い」

 思わず声が出た。

 一流のバーテンダーのステア一つでウイスキーは味が変わるとは聞いていたが、この美味うまさは地のスコッチのものだけとは思えなかった。

「いや、本当にうまいね」

 この店のマスターだと判断して話しかける。

「マスター。大した腕だね。

 この町にこんな店があるとは思わなかった」

「恐れ入ります。

 先代が店を出してもう20年になります」

「知ってれば、もっと帰省したかもしれないな」

 そう言って、俺は小さく笑う。そんなことはあり得ないとわかっていたからだ。


「じゃあ、次はTHE MACALLANザ・マッカランの10年をダブルのロックで。

 それから小腹を埋めるものはないかい?」

「おほめめいただき、ありがとうございます。

 そうですね。当店のお奨めは。

 あぶりベーコンのじゃがいもサラダなどいかがですか?」

「じゃあ、それを頼むよ」

「ありがとうございます」


 店に入ってきたときの無表情がなんだったのかというほど愛想がいい。慣れた手つきでサラダを作っている。

 マッカランを口に含み、これもまた10年ものとは思えないほど絶妙だった、マスターの手元を見ていると唐突に話しかけてきた。

「お客さん、この店初めてですよね。

 いえ、私は人の顔を覚えるのが特技でして。一度来店された方はわかるんですよ」

「それはすごい。俺なんて昔の友人の顔なんて全く思い出せないよ」

 回ってきたアルコールのせいか口が軽くなり、気安い口調で返事をした。実際、人の顔を覚えるのが不得手でなんども失敗したことのある俺にとって羨ましい特技だ。

「それが、お客さんは前にあったことがあるような気がしまして。

 最初に失礼な態度をとってしまい申し訳ありません」

「ああ、それでか。いやいいよ。

 こんなうまい酒が飲めるなら、なんでもないことだ」


 ざっくりと潰した茹じゃがいもに軽く炒めたベーコンを加え、塩とブラックペッパーで味を整えたサラダの器を俺の前に置く。このじゃがいもサラダも絶品だった。

「それが思い出せないのですよ。

 私にしては珍しいことなんで、自信を失くしそうです」

 そう行ってニコリと微笑む。


 それからは、お代わりしつつ、覚えている昔のことを少し話していた。ペースが早かったのか酔いに任せ日頃なら話もしないことをマスターに話しかけていたことを覚えている。お約束のようにグラスを磨きながらマスターはうなずいたり、相槌を打ってうまく俺に話をさせていた。

 そうこうしてるうちにいつ店内に入ってきたのか、気がつくと二十歳くらいの若い男が隣に座り、マスターと挨拶を交わしていた。


 こちらに軽く会釈を送ってきた時に目が合ってぞっとした。執着心と狂気を秘めた目つき。会ったこともないはずなのにこちらを見つめる目に覚えがある。覚えた恐怖に鼓動が激しくなる。その場を少しでも早く離れようと無意識に腰を浮かそうとした、その時。

「そう慌てなくてもいいだろう?

 夜はまだ長いぞ」

 そう言われ、肩を押さえられ椅子に座らされた。そいつは口を歪めニタリと笑ったあとマスターにに笑いかけ酒を注文していた。


 そいつに触られた肩から怖気おぞけが広がる。怖気は肩から首を回り心臓の鼓動一打一打を締め付け苦しい。アドレナリンがアルコールとせめぎ合う。なぜ、こんなに恐怖を感じるんだ。俺は、どうしたというんだ。なぜだ…

 とうとう限界を越え俺は気を失った。

 こんなことは初めてだった。

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