第3話 少年は魔女と約束をした

 部屋の中には小さなテーブルが一つだけありました。

 その上には一輪挿しが、オレンジ色の花を咲かせていました。

 それ以外には何もない寂しい部屋です。

 けれども悠希は、この部屋に優しい雰囲気を感じました。

「綺麗なお花だね」

 扉の前で立ち止まったまま、悠希はぽそりと呟きました。

「カランコエというのよ。友人が森に植えてくれたの」

 のぞみは振り返りません。

 どんな表情をしているのか悠希には分かりませんでした。

 けれども、その友人が大切な人なのだろうと声色で悠希には分かりました。

「さあ、お座りなさい」

 のぞみは悠希に手を差し伸べ、テーブルまで導きました。

 悠希はその場に座り、花を見詰めました。

「カランコエ……」

 小さな花瓶と小さな花。

 悠希の瞳は花を映し、光を多く放っていました。

「その友人はね、私に名前をくれた人なの」

 のぞみは、白い無地のカーテンを開いて、窓から外を見ています。

 悠希は座ったまま、のぞみの背をただ見詰めました。

「森には誰も入ってこない。だってここには恐ろしい魔女がいて、森に迷った人を食べてしまうから。だけれど彼女は、入ってきた。そしてーー私を恐れなかった」

 烏の濡れ羽色のような黒髪は、窓から差す光にきらきらと輝いています。

 細すぎるその体を包む簡素な白のワンピースすらも、悠希には美しく見えました。

「誰にも見つからないように早起きして、彼女は毎日毎日遊びに来てくれた。一人ぼっちだった私には、彼女が来てくれることだけが、日々の楽しみになっていたの」

 のぞみは何処を見つめているのでしょう。

 もしかしたら、何も見ていないのかも知れません。

 その瞳に映るモノは今ではないのかも知れません。

「ある日突然来なくなった。彼女はね、とても体が弱かったのよ」

 のぞみは漸く、ゆっくりと振り返りました。

「彼女は子供を産んだの。そして、倒れてしまったの」

 ゆっくりと近づいてくるのぞみを悠希はじっと見つめ続けました。

「そのまま彼女は、永遠の眠りについた」

 のぞみは悠希の顔の位置に合わせて、膝をつきました。

 鼻がくっついてしまいそうな程の距離です。

 のぞみの明眸は悠希だけを捉えていました。

「お母さん、でしょう?」

 身じろぎもしないで、悠希は口を開きました。

「誰に聞いた?」

「なんとなく、そう思っただけだよ」

「そう。とても優しい人だった」

 のぞみは、ふわりと笑いました。

ーー嗚呼、なんて美しい人なんだろう。

「嬉しいな。お母さんの大切な人と、僕はお友達になれたんだね」

 のぞみは湖から音もなく出るように、静かに立ち上がりました。

「希望はいつだってあなたの中にあると、彼女は言った。悠希、あなたが望めば、あなたは歩ける。元気な体になる。望めば、希望は形となる」

「なんだか、僕たちの名前みたいだね」

「あなたの母親がつけた名前だもの」

 のぞみはもう一度、悠希に手を差し出しました。

 そっとその手に悠希は触れて、彼女の手に引かれて立ち上がりました。

 ぎゅっと握られたその手はとても暖かいものでした。

 彼女に連れられて、悠希は荒屋の裏側へと行きました。

 そこには花瓶に挿されていたカランコエが沢山咲いています。

「ねえ、悠希。この花を枯らさないで欲しいの。どうか、いつまでも美しく咲かせて欲しいの」

「うん」

「約束よ」

 二人は咲き誇る花を黙って見つめ続けました。

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