メル・アイヴィー奇譚
竹内緋色
永遠の夏。その公園にて。
この世界に夏しか来なくなったのはいつからだったろう。
僕は公園で彼女を見て、ふとそう思った。
「……」
彼女は何が楽しいのか、眉一つ動かさずに空を見ていた。
終わらない夏。その中で唯一、青すぎる空だけは変わらない――
仕事を終えて公園に立ち寄る。
公園はいつしか僕にとって大切な場所になっていた。それはあの不思議な少女が現れる前から変わっていないことの一つ。
それはきっと、夏が終わらなくなったころからそうだったのだろう。
仕事帰り。
最近はずっと銀色の髪をした珍しい少女は青い空と浮かぶ白い雲を眺めていた。
僕は焼ける地面と自分の手の汚れを見つめていた。
僕と彼女は違う世界の存在なのだと思った。
また、彼女を見つける。
真夏の日差しの中、昔あった清涼飲料水のコマーシャルのようにそこだけが涼しそうだった。
そう。ああいうコマーシャルは季節外れの冬とか春、もしかしたら秋にだって撮られていたのかもしれない。グラビアなんて水着なのに真冬でも撮影していたんだろうね。
ふとそうやって少女に話しかけたい気持ちになったけれど、夏しか来ないのにそんなことを話してどうするのかと思ったのと、冷静に考えると女の子に話しかける内容としては適切ではないかもしれなかった。
今日もまた、彼女に話しかけるのは止めて、住処に帰った。
公園の水道で汚れた手を洗う。
ずっと夏なので水不足だけれど、人口が減っているから水はたっぷりと使える。
でも、出る勢いは水が豊富だった頃よりも少なくなっていた。
また、彼女と出会う。
彼女はずっと空を見ていて、僕のことなんて眼中にないようだった。
職業柄、女の子に話しかけることはあっても、大抵会話にならない。だから僕は本当は女の子とお話したことなんてなかったのだ。
どうやったら彼女の気を引けるだろうか。
考えれば考えるだけ辛くなっていく頭で何かを考える。
「ねえ、君」
僕は口を開いていた。
「地球は丸いっていうのに、どうして僕たちは地球から落とされずにいられるんだろうね……」
彼女はすっと僕の方に視線を移す。
首をかしげた。
長い銀色の髪がさらりと揺れる。
「それは、きっと、落ちないと、知っているから」
消え入りそうな声で彼女は言った。
僕は初めて彼女の声を聞いた。
彼女が言ったことを頭の中で反芻して、その内容をよく吟味して、彼女が重力があるから落ちないんだよとかそういうありきたりなことを言ったのではないと理解して僕は安心する。
きっと僕が聞きたかったのはそんなありきたりなお話じゃなかったから。
「それはどういう意味なんだい?」
僕は極めて興味があるといった風に言ってみるけれど、ヒトと話すのも久々なのできちんと会話になっているのか心配になる。
「世界は、きっと、曖昧で、不安定な、そんな何かに、支えられている。あなたが、望むのは、そんな、答え」
彼女は一言一言かみしめるように言った。
彼女はどうも僕の望む答えを言おうとしてくれていたようだった。
それはとても光栄だけれど、なんだか残念だった。
「君が言いたいことはよく分かる。なにせ、僕が求めた答えそのものなのだから。でも、それだけじゃ、この世界はつまらないんだ」
僕は――怒っている?
それとも――悲しんでいる?
分からなくなって、逃げ出すように、夏の公園を飛び出した。
僕はふと、昔読んだライトノベルのヒロインを思い出す。
ちょうど、公園にいる彼女と似たような容姿だったのを覚えている。
銀色の長い髪に、青い瞳。白いワンピースまで一緒だった。
けれども背は小学生みたいに低くて、彼女には似ていない。
名前は――なんだっただろう。
そうだ。クロだった。
クローズ姫というお姫さまで、でも、それはゲームの設定で、本当の彼女では買ったけれど、名前は一緒で。
生前の名前は高嶋クロ。
死んで主人公前に現れた幽霊。
転生した先は、黒江黒。
銀色の少女なのに黒。
その娘は黒江銀で――
「君の名前はなんていうのかな」
僕は思い出した名前を手帳の中に探すけれど、どこにもなかった。
もう半分以上は黒く塗りつぶされた名前たち。
黒く塗りつぶされていない名前を探すけれど、ライトノベルのヒロインの名前なんて見つからない。
最初から見つかりっこないのだ。
「メル……」
僕は目を開いて彼女を見る。
彼女はやはり、空を見つめたままだった。
「メル・アイヴィー」
それは僕に向かって言った言葉なのだろうか。
僕は手帳を探して、その中に『メル・アイヴィー』という名前がないことにほっとしていた。
相変わらず、僕と彼女との距離は縮まらない。
でも、僕だけが知っている。
僕が一ミリくらいだけ彼女に近づいたということを。
空を見つめる少女は、僕の汚れた手をどう思っているのか気になった。
「私は、もう、行かないと、いけない」
彼女は――メルは僕にそう伝えた。
けれど、ずっと空を見つめたままだった。
「ねえ、君は――」
僕は彼女について感じていたことを聞いた。
「この世界の人じゃないんだろう?」
彼女は静かに頷く。
「並行世界、から来た」
そんなところだろうと思っていた。
「君の目から見て、この世界はどうだった?」
僕は彼女のことを知らない。
知らないまま別れる方がよかったのかもしれない。
けれど、きっともう、二度と彼女には、メルには会えないと分かっていたから――
僕は彼女に尋ねた。
「ずっと夏。好き。ずっとワンピースだから。過ごし、やすい」
きっと彼女は渡り鳥の一種なのだろう。
ずっとワンピースだから、温かい世界を行き来している。
「じゃあ、僕はどう思う?」
僕は自分の人足指と中指との間にメルの姿を挟んで見る。
僕とメルは延ばした掌の中に入るくらいに離れていたのだと僕は知った。
僕の手は汚れている。
取れないほどの赤黒い汚れ。
爪の間にしみこんでいる。
人を殺し続けた手。
いや、もう彼らはヒトではないのだけれど、僕の続けていることは正しいことだとは到底思えない。
「地球が丸いのに、人々は滑り落ちないのは、心のどこかで、あり得ないと思っているから。決して、落ちはしないと、心の底で、信じているから」
メルの銀色の影は揺らいだ。
きっと、この世界とお別れするのだろう。
僕は静かに目を閉じた。
彼女がこの世界を去っていく姿を見たくはなかったから。
夏が終わらなくなって、世界にはゾンビがはびこった。
人々の中には、ゾンビになった家族を丁重に消し去りたいと思う人がいて、僕は大切な人を丁重に葬り去る業者になった。
「僕が、思っている、通りにしか、僕は、僕でしか、ないということ」
彼女の独特な口調を真似して、僕は一人、終わらない夏の公園で呟いた。
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