第3話
鳥の鳴く声がした。
無意識のうちに重い瞼が上がる。
枝葉の隙間から差し込む陽の光に、寝覚めの半ば惚けた意識が覚醒していく。
ゆっくりと呼吸をすると、草木や土の匂いが鼻孔を通り肺を満たした。
……幸いな事にどうやらまだ生きていたらしい。
一体どれだけの時間をこうして過ごしていたのだろう?
前に意識を取り戻した時は、身体を動かす事すら儘ならなかった。
今は全快とはいかないが、日常的な動作を行える程度には回復した様に感じる。
一先ず上体を起こすと、腹の上に煤けたブランケットが掛けてある事に気付く。
何故自分はここに居るのか? このブランケットの持ち主が助けてくれたのだろうか。
古びたブランケットを手に取るとふと、誰かの声が蘇る。
――死なないよね? 生きてるご飯は久しぶりだけど大丈夫かな?
果たして自分は助かったのだろうか。
物騒な事を言っている様に聞こえるがどうだろう。今置かれている状況は不可解な点だらけだ。
取り敢えず考えるのを止めブランケットを脇に置くと、腰に下げていたポーチと曲刀がなくなっている。
気付けば外套もなくなっていた。
辺りを見てもそれらしい物は見つからない。砂漠に落としたかそれとも、声の主が持ち去ったのだろうか。
どちらか分からないが後で尋ねるとしよう。
声の主は生死を気にかけていた上に、
荷物の事はその時に聞けばいい。
立ち上がり、硬くなった身体を動かし調子を確かめる。
身体の至る所で鳴る音を聞きながら周囲を見渡すと、眼に付いたのは直ぐ側の湖と木々だった。
湖を囲う様に生えたこの一帯の木々は、灰白色の中に緑の入った樹皮と、一対の羽根状に広がる緑の葉が特徴的だ。
今まで旅をした場所で、同じ樹木を見た覚えが無い。
この灰白色の木々と湖は神秘的で、それだけで絵になりそうだ。そんな事を考えながら湖の側へ。
近づいて見た湖はとても澄んでいてた。
この水は飲めるだろうか? そう思うのと同時に、砂漠で気を失った割りにあまり喉が渇いていない事に気付く。
こんな世界でも意外と飲める水ばかりではないが、この見た目通りの水質なら飲み水に適しているだろう。飲めるなら飲んでおきたい。
そしてこの湖を見ているとそれとは別に、もう一つ思うところがある。
「ここならいい酒が造れそうだな」
蒸留酒だろうと醸造酒だろうと、いい水源の確保が酒を造る為の条件だ。
その昔、水源が枯れて閉鎖した蒸留所がある程に水は重要な位置を占める。
水が透き通っていればいいという訳ではないが、不思議とこの場所は酒を造るのに良さそうに思えた。
下らない事を考えながら湖の向こうへ眼を向けると遠くに、林立した奇岩群が見えた。
大小様々な奇岩がありここから見た限りでは、巨大な物だと標高数百メートルを超えているだろう。
その奇岩の頂上には木々が生えそれが緑の稜線を形成している。眼を凝らすとその緑の中に、薄く赤い屋根の建造物が点在していた。
声の主はあそこに住んでいるのだろうか? そんな事を考えていると不意に、そう遠くない場所から生物の気配を感じた。
即座に耳を
すると風の音や枝葉が揺れる音の中に紛れて微かに、自然を踏みしめて進む音を捉えた。もう視認できる距離まで来ている。
近づいて来る足音は二つ分――四肢で歩く獣か化物の足音だ。
極力足音を立てず歩いているはずだが、その足取りは決して遅くはない。
向こうは間違いなく此方を認識している。声の主とは無関係なのかそれとも、声の主は人ではないのか。
どちらにしろ退屈はしないだろう。音のする方へ視線を向けると、木々の合間を縫う様に悠然と歩く姿が視界に入った。
近づいて来る足音の正体。それは、美しい銀の毛並みを持つ二頭の大きな獣。
――そして。
「驚いたな、その犬は君が飼っているのか?」
「……飼っているわけじゃないわ。それと、犬じゃなくて狼よ」
足音は二頭の狼のもの。だが狼はその背に一人の少女を乗せていた。
白い肌と長く伸びた黒い髪に、
この綺麗で何処か神秘的な景色も相俟ってか、銀の狼と少女という組み合わせが不思議と調和の取れたものに映る。
少女と眼が合う。瞬間、何故か"助かったんだ"という自分でも処理できない思いが湧いてくる。
だがそんな此方の動揺を知るべくもなく、彼女は狼から降りずにそのまま会話を続けてきた。
「あなた、もう動いて平気なの?」
「身体は丈夫な方なんだ。やはり、君が助けてくれたのか?」
「私じゃないわ。私じゃなくて――そうね、うん。背中」
「……背中?」
「背中に手を回して。そうすれば分かるわ」
彼女の説明は要領を得ないが、言われるまま背中に手を回すと妙な手触りを感じる。
違和感を覚え背骨をなぞる様に手を動かす。すると服ではなく自分の素肌に行き当たった。
どうしてか背中だけ服が破れていた。思わず顰め面になる。
「ごめんなさい。貴方をここへ運んだのはこの子達なの」
謝りながらも彼女は何処か楽し気に、控えめに笑った。
「その狼が?」
二頭の狼に視線を向けると、彼女を乗せた方は短く切る様に息をしている。もう一頭は静かにじっと此方を見ていた。
「あぁ、服を咥えたのか」
「えぇ。倒れていた貴方の服をハティが咥えて、スコルに乗せようとした時に破れたんですって。その時にコートもぼろぼろになってしまったみたい。一応取って置いたけどどうする?」
「いや、手間をかけて悪いが捨てておいてくれ。それで何方がハティで、何方がスコルなんだ?」
彼女は自分を乗せている狼の頭を撫でた。
「この子はスコル――男の子ね。それであの子がハティ。女の子よ」
「そうか。……すまないな、助かった」
改めて二頭の狼に顔を向けて話しかけてみると、スコルが一声鳴きハティは静かに頷いた。
「言葉が分かるのか?」
「この子達はとっても賢いのよ。いつも私と話してくれる……家族、みたいなものね」
二頭の狼を家族と言う時、彼女は
「君は何処から来たんだ? あの岩山の上に住んでいるのか?」
視線で奇岩群の方を指す。
「貴方って眼がいいのね。えぇ、そうよ。あそこで暮らしてるわ。私とこの子達で。」
「君達だけで?」
「私達だけで。本当は貴方を家まで運びたかったけど、それは流石にこの子達でも無理だったみたい。……ねぇもしよかったら家まで来てくれない? 渡したい物もあるし」
「……俺の荷物か?」
「察しが良いわね。駄目ならハティに取りに行ってもらうけど、どうする?」
魔法の砂漠で気を失い目覚めたらこの場所に居た。目の前には自分を助けたはずの狼と少女。
不可解な状況とあの時に聞いた言葉が引っかかる――だが。
「そうだな。ここも綺麗で良い場所だと思うが折角だ、お招きに与らせてもらおう」
何故だか妙にこの目の前の少女の事が気にかかる。
家に上がらせてもらう旨を伝えると、彼女は安心した様に笑顔になった。
「良かった。私、あの家に人を呼ぶの初めてなの。……そう言えば貴方、名前は?」
随分と会話をしていた。
狼の名前を聞き家にまで招かれていたが、お互いの名前をまだ知らなかった。
「そう言えばまだ名乗ってなかったな。俺はテラだ。君は?」
「私は――メリアよ。宜しくねテラ」
互いの名を交わしたところで初めて、彼女はスコルから降りた。
側まできた彼女は照れながらも、そっと右手を差し出してきた。彼女の顔の様に白く小さな手。
こんな場所で狼と暮らす彼女は一体何者なのだろう。
そんな事を考えながらその華奢な手を取った。
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