第102話(サイドh):日角瑠衣は彼の姿を見続けている

「相馬優です。得意なことは、特にはないです。よろしくお願いします」


 猫背の姿勢に、覇気のない声。それでも彼の言葉は、意外なほどにすんなりと私の耳に入ってきた。

 高校一年の春。入学したての新入生がやることは、何の特徴もない、ありふれた自己紹介。


「日角瑠衣です。特技はベースが弾けることです。よろしくお願いします」


 当たり障りのない、誰からも疎まれないように考えた、短いプロフィール。

 元気にペラペラと喋る人。話すのが苦手で、何を言っているのか伝わらない人。面倒くさがって、名前以外は何も喋らない人。多くの人たちがいる中で、私が唯一名前を覚えたのは、相馬優、彼の名前だけだった。


 目立つような恰好をしているわけでも、顔立ちが端正なわけでもない。印象に残るようなことは何一つなかった。けれども、誰からも注目されないようなそんな彼のことが、なぜか私は気になった。


 それからというもの、授業中も休みの時間も、いろんな人と交流をする中で、隙をみては彼のことを見ていた。

 普段から面白くなさそうに頬杖をついて、つまらなそうに勉強をしていた。友達と話をするわけでもなく、教室の外に出るわけでもない。日がな一日、ただ机に向かっている。誰がどう見たって、彼はクラスのつまはじき者だった。


「相馬って、マジがり勉だよね」

「ね~。何がそんなに楽しいんだか」


 隣で机に腰を掛けて、たいして可愛くもない髪型を気にしている女子と、その向かいで相馬をバカにしたように笑う女子が、何も考えずに人の悪口を言っている。

 私から言わせてもらえれば、あなたたちは何が楽しくて、そんなことを言っているのかと言いたかった。けれど人間の心理というのもは単純で、どうしたって自分より下の存在を貶すようにできている。

 現に私だって、形だけの友達を演じながら、目の前の二人を馬鹿している。だから大層なことを言えた義理ではない。


 それでも、彼がそんな風に言われることに、スッキリしない何かを感じている自分がいた。


 横を向けば、彼はいつもと変りなく勉強をしている。なんで自分がそんな気持ちになっているのか、自分でも理解はできなかった。その後も度々、同じような気持ちに陥ることはあったけれど、学校関係で面倒を起こしたかったわけじゃなかったので、その感情にそっと蓋をして、気づかないフリをして過ごすことにした。


 別にそれで問題はなかった。私と相馬の間には、明確な友好関係はなかったから。

 そもそも彼からすれば、私という存在はさほど重要ではなくて、認識してすらいない可能性だってあった。そんな中で、毎日を相馬優という存在に費やすのは、ただのバカなことだと思っていた。


 だからこれでいい。関わりがないのなら、考える時間はもったいない。だったら、考えない方がいい。


 そんなある日、転機が訪れた。


 年に数回あるかないかの、生徒たちにとってはそれなりのイベント、席替えによって彼の隣の席になったのだ。

 この頃には、もう誰も相馬優を馬鹿にする人はおらず、逆に彼のことを疎むような声が目立つようになっていた。それもそのはずで、彼は普通に勉強ができて、運動ができた。問題があるとすれば一人でいることだけで、他を見ればとても高いスペックを持っている。だからこそ、彼の陰口はなくならなかった。


 そんな中での席替え。私は、彼に話しかけるようなことはできなかった。いつのまにか相馬優という人間を、別次元の人として勝手に位置付けてしまっていたから、話しかけることに躊躇したのだと思う。

 ただなんであれ、入学してからの私の興味の対象が隣に来たということは、私にとっては何とも言い方ものだった。


 考えないようにしようと思っていたのに、こう隣にいられてしまうと、どうしたって気になってしまう。

 毎日のように、勉強をしている彼の横顔を盗み見る。最初に見たようなつまらなそうな表情で、ただ黙々と勉強を進める姿。変わらない毎日に、なんで私はあんな気持ちになったのか、よくわからなくなっていた。


 何やってるんだろ……私。


 自分でも呆れるくらい、バカなことをしていると思った。こんなことは止めて、彼のことも考えないようにしよう。


 そんな風に考えていた。けれども、視線は自然と、彼の横顔に吸い込まれていく。


 ……あっ。


 少し……本当に少しだけ、彼の表情が曇ったように見えた。何がきっかけでそうなったかなんてわからないけれど、もの悲しい表情をしたのは確かだった。


 見たことない表情。


 いままで一つしか見せてこなかったからか、すごく新鮮だった。それと同時に、なんとなく彼のことが気になっていた理由がわかった。


 どことなく、私に似ている気がしたのだ。


 私はこれまで生きてきた中で、自分の本心というものはひた隠しにしてきた。特にこれといった理由はなかったと思うけど、なんだかどうしても、自分というものをさらけ出すことに苦手意識を持っていた。

 だからか、人と接するときは普段よりも気を張って、仮面をかぶるみたいに自分を偽ってしまう。本当のことは言わない。当たり障りない返事をして、相手に気取られないように当たり前に振る舞う。


 そうやって生きてきた。


 唯一、自分の本心で始めたのは音楽だけだった。単純に何かを表現するというのは楽しかったし、こんな性格だから、昔の自分は本音を別の形で表現しようと思っていたのかもしれない。

 今はもうただ楽しいから続けてるに過ぎないけど、これがあったおかげで、気持ちが軽くなっていたことは確かだ。でも最近は、少し窮屈に思うこともある。


 彼には、そんな自分に似たような空気を感じたのだろう。


 つまらなそうに勉強しているけれど、本心では何かを隠していて、それをどうしようもなく求めてしまっている。私とは少し違うのかもしれないけど、自分というのを見せていないことに、共感するところはあった。

 だから気になって、目で追って、彼も自分と同じなんだろうと思いたかったのだろう。

 私たちは、同じ世界に生きてるんだって。


 それからは、彼のことを目で追うことはしなくなった。自分の中である程度の折り合いがついたからか、彼に対する興味は、入学当初と比べると驚くほど下がっていた。隣の席でいることも、今では苦でもなんでもなくなっている。

 そんな時だった。


 ……教科書を忘れた。


 その日はたまたま入れ忘れたのか、鞄の中を探してもお目当ての物を見つけることはできなかった。こうなってしまうと、あとはもう隣に見してもらうしかない。


 チラリと、彼を見る。


 こちらの様子になど気にもかけず、いつもと変わらない表情で黒板を見ていた。空気感で喋りかけることを躊躇してしまいそうだったが、心の中で大丈夫、彼も同じだと呟いた。

 気持ちを整えて、仮面をつけるような気持ちで、彼の方を向いた。


「相馬くんごめん、教科書忘れちゃって……」


 当たり障りなく、目的だけを明確伝える。

 これなら何があっても大丈夫だろうと思っていた。けれども、ことは思っていたよりも、愉快な方向に転がっていった。


 彼は一度、驚いたように目を見開くと、「あっ、おう……」と焦りつつ自分の教科書を閉じて私に差し出したのだ。

 まさかの出来事に、今度は私が驚いた。それと同時に、笑いが込み上がってくる。あまり人前で本気で笑うなんてことはしないけれど、今回ばかりは笑いを堪えるので必死だった。


「それじゃあ勉強できないよ?」


 親切心で伝えたら、彼は顔から火が出るんじゃないかってくらい赤くして、俯きつつ机を寄せてくれる。私も机を寄せ、二人の真ん中に教科書を開いて置いた。

 彼がいまだに熱が引かないのか、額を手の甲で拭い、シャツを引っ張ってパタパタと服の中に空気を送り込んでいた。


 なんだ……全然違うんだ。


 似たようなものだと思っていた。けれど自分の想像とは全く違っていて、見せていないんじゃなくて、周りが理解しようとしていないだけなのかもしれない。

 本当の彼はこんなにも表情が豊かで、自分を素直に表現できる人なんだ。私とは、全然違う。


 羨ましいな。


 嫉妬に似た羨望を、彼に送る。


「ありがと」


 周りの迷惑にならないように、耳元で囁くようにお礼を伝える。彼はまた顔を赤くして、目を見開いて私を見た。何かを言いたそうに口を開けては閉めてを繰り返して、結局何も言わずにいつものように頬杖をついて、黒板を見る。けれどもその表情は恥ずかしさを堪えていて、可愛らしい。

 そんな素直な表情を見せる姿に、胸が締め付けられる。


 きっと私は、彼のようになりたかったのかもしれない。仮面のような笑顔ではなく、心の底から気持ちに従って笑えるような、そんな人間に。

 また、彼に興味が沸いた。彼を見ていれば、もしかしたら自分も変われるのではないかと、勝手にそう期待して、隣でずっと彼を見ていた。


 そうやって一年が過ぎて、二年生の6月半ば。

 運よく彼とはまた同じクラスになったので、去年と変わらず彼を見ていた。ずっと変わらない、つまらなそうな顔で勉強するその横顔に安心する。


「——っ!」


 けれど、その時は突然訪れた。


 困ったような表情を浮かべ、けれどもどこか楽しそうで、時折恥ずかしそうに顔をそむけてはため息を吐き、でも最後には楽しそうにする。見たこともない、彼の表情。すごく綺麗で……心がザワつく。


 視線を彼の後ろに向ける、一人の女子が座っていた。彼女は彼をいじりながらも、それに愛情のようなものが感じ取れる。彼の一つ一つの反応を見て、それを大事そうに噛みしめて、そっぽを向かれたとしても、その後ろ姿を愛おしく見つめていた。


 ずるい。


 初めて、明確に人に嫉妬した。いままでこんな感情になったことはなかったけど、私の知らない彼の表情を引き出す彼女に嫉妬した。

 なんであなたがそこにいるの? だとか。私の方が彼との付き合いは長いのに、とか。とにかく、なんで? が頭の中に浮かんでは消えた。

 そこでようやく、自分の過ちに気づく。


 最初は、ただの興味だった。けれどいつしかそれは憧れになり、欲しいものに変わっている。


 そうか……私は……彼のことを、独り占めしたかったんだ。


 初めて向けられらあの表情からずっと、私は彼に……恋をしていたのかもしれない。

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