駆け落ちのち、寝取られ──黒髪の魔女と白銀の聖女──

小豆丸

第1話プロローグ


 昨日まで仲間と共に歩いた道を独り進んでいる。進むと言っても、昨日の私からすれば戻っているのだが。

 ──時刻は真夜中。吐き出す息は白く、瞬時に虚空へ溶けていく。空に浮かんでいるはずの月を分厚い黒雲が覆い隠し、容赦のない雨粒が矢のように岩肌を叩き付けている。雨具を持たない私は海に飛び込んだみたいにずぶ濡れになったが、それを気遣う者などどこにもいなかった。自分自身でさえもそうだった。

 次々と降り注ぐ雨に身を抱かれながら動かしていた脚が止まる。彼らは今頃、街の宿屋で休んだ頃だろうか。あそこから距離も大分離れたことだろう。なら──。


「もう、泣いてもいいかな」


 誰にも届かない声が唇から漏れる。

 ここには私独り。誰にも見られず、迷惑もかけず、声を上げることを咎められもしない。涙はこの雨が流してくれるだろう。冷えきった体はただただ震えて、震えて、震えて。撲られた頬だけは熱を持ってじんじんと痛みを告げている。

 言葉にならない感情が声となって溢れ出してくる。激しい雨音にも負けない声が辺りに響き渡って、波紋のように広がっていく。どうしてこんなことになったのか、支えてくれるはずの人──支えてくれていた人に捨てられた私は、もはや生きる気力も意味も見失っていた。

 あんなに愛していると言ってくれた貴方だったのに。こんなに貴方を愛していたのに。初恋だったのに。この体も、心も貴方にだけ捧げたのに。──全て茶番だったのか。いつから心は離れたのだろうか。いつから彼女を想いながら私を抱いていたのだろうか。最後に口付けを交わしたのはいつだったか。体は許されても唇が触れ合ったのは遠い記憶だ。

 私の笑顔が好きだと言ってくれたあの人は、もういないのだ。

 誰を恨めば良いの。憎めば良いの。

 それでもまだ、私はあの人が好きで…………それがまたひどく悲しかった。

 あの吸い込まれそうな青い瞳をずっと見つめていたかった。柔らかい髪に指を通して、貴方に強く抱き締められて、ずっとずっとずっと! ……好きと言っていて欲しかった。


 けれど、それは叶わない。

 夢でもなく、ただの幻と成り果てた。


 ならば、私は私を呪うしかない。

 対等になれなかった、繋ぎ止めることが出来なかった私自身が、誰よりも憎くて仕方がない──。

 腰に忍ばせた短剣の束を握る。鞘から抜き放つとその刃はたちまち雨に濡れた。

 どこを刺そうか、首が確実だろうか、でもやっぱり勇気が出ない。震える指は止まってはくれない。泣いたせいもあるが、死への恐怖によりさらに呼吸は浅くなっていく。


 膝をついて短剣を喉に当てがってから、どれだけそうしていただろう。頭が朦朧として今にも倒れそうだった。


(少しでも、貴方が悲しんでくれたなら)


 私の死を指先ほどでも悼んでくれるのならば、私はそれを抱いて地に還れるだろう。最期くらいは、希望を持って死にたい。体はすでに感覚を失っている。あとはそう、この刃で喉を突き刺せば良い。

 目蓋を閉じて空を仰ぐ。底無しの暗闇に落ちていくような浮遊感が、少しばかり心地よい。もう、迷いはなかった。






「さようなら、フェンダー」





 握り締められた短剣は、そこに最初から鞘があるかのように自然と吸い込まれていった──。

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