第58話 慫慂



「懐かしい歌ね」

 池のほとりで、夕暮れの涼やかな風に吹かれながらなんとなく歌っていたら、そんな声をかけられる。

 螢月けいげつはギクリとして振り返ると、そこには思った通りに月香げっかが立っていた。

「母さんがよく歌ってくれた」

「う、うん……」

 向けられる微笑みが直視出来なくて、螢月は僅かに視線を逸らす。

「お兄様は一緒じゃなかったの?」

「冷えてきたから、羽織物を取りに行ってくれてて……」

 確認するように尋ねられるのへ、螢月は答えながらもう一度視線を逸らした。

 そう、と頷いた月香は、身軽く螢月の隣へと立った。その挙動に螢月は身を強張らせる。

「火傷が随分酷かったそうね。大丈夫?」

 かけられたのは、心配そうな声音での安否確認。螢月は顔を上げた。

「すぐに助けは呼んだんだけど」

「そう、なの……?」

 心から案じているような表情で尋ねられ、螢月はぎこちなく尋ね返す。ええ、と頷かれたので、僅かに緊張を解いた。


 座ってもいいか、と尋ねられたので、螢月は少し端に寄って場所を空けた。

「……取っ組み合いで喧嘩なんて、初めてしたね」

 螢月が言うと、月香は「そうね」と笑って溜め息を零す。

「ごめんね、姉さん。怪我をさせるつもりはなかったの。あんなことになって驚いちゃって……あんなに熱いお鍋も姉さんの上に

 申し訳なさそうに言われ、螢月は首を振った。

「いいの、大丈夫。お医生いしゃ様はすごく腕のいい方だったし、平気よ。ちょっと痕が残るくらいだって仰っていたから」

 答えながら、やはり鴛翔えんしょうの勘違いだったのだ、と螢月は思った。彼は葉っぱのおまじないを誰かに焼き潰されたと言っていたが、不運な事故で焼けてしまっただけなのだ。

 その犯人は月香だとも言っていたが、そんなことはない。すぐに助けを呼んでくれたと言っているし、お陰で早く冷やせた背中はすぐに熱も落ち着いたではないか。

 幼い頃から背負っていたあのお呪いが、今回の螢月の不運を全部被ってくれたのだ。だから螢月の怪我はこの程度で済んだし、命は無事なのだろう――そう思いたかったし、そうだと思い込もうとした。

 月香はそんな姉の人が好い部分を知っている。殊勝な態度で謝ればすぐにほだされてしまうのだ。


 大丈夫よ、と答える姉の笑顔に微笑み返しながら、月香は次の作戦に出る。

「姉さんにね、伝えておこうと思うことがあるの。大事なことよ」

 そんなことを真剣な表情で言われるので、螢月は姿勢を正した。なにか悪い話だろうか。

「うちに、茅の環が飾ってあったこと、覚えてる?」

「茅? 毎年夏至のときに吊るし替えていたお守りの、あれ?」

 裏口の軒先に昔から吊るしてあった。毎年夏至のときに同じものを作って付け替え、古いものは線香と共に焚き上げていたのだ。

 そうよ、と月香は頷く。

「あれはね、父さ……守月しゅげつさんの故郷の風習なの。聞いたことあるでしょ?」

 確かに母からそんな話を聞いた覚えがある。父の生まれ育った地域でされていた習わしで、厄除けの意味があるからうちにも吊るしているのよ、と言っていた。


金輪クムワ国って知ってる?」

「え? 私達が生まれるより前に亡くなった国よね? 確か、野蛮で恐い人達がたくさんいる国だから、先の王様が、この国に悪さされないように戦ったっていう」

 滅ぼされたのは三十年近く前の筈だ。それ以来、生き残った者達が襲撃を仕掛けていて、何度も小さな戦が起こっていた。そういった小競り合いもようやく落ち着いたのが、もう十年ほど前のことだろうか。

 元金輪国の土地からも離れた地域に暮らしていた螢月達には、まったく縁も所縁もない話だ。村の男達が兵役に駆り出されることもなかった。


 何故突然そんな話をし始めたのだろう、と螢月が首を傾げると、月香は暗い声で囁いた。

「守月さんは、その金輪の生き残りなのよ」

 螢月は双眸を瞠り、息を飲んだ。


「知らなかった?」

 月香は気の毒そうな表情で尋ねてくる。動揺しながら頷き返したが、混乱は強くなる。

「あの茅の環飾りが金輪の風習だったんですって。私も人から聞いて知ったのだけどね」

「そう、なの……?」

 曖昧に言葉を返しながら、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるような不快感に胸が苦しくなり、螢月は胸許を強く握り締めた。


 父が金輪の生き残りというのは、いったいどういうことなのだろう。

 野蛮で恐ろしい民族が暮らしていたという国の出身で、その国は先代王――つまり、鴛翔の祖父にあたる人の命で滅ぼされたということだ。

 だから父は、鴛翔に対して頑迷な態度だったのだろうか。なにかのきっかけで鴛翔が世太子だということに気づき、故郷を滅ぼした一族の者だと知って、怪我をしているのにすぐに追い出そうとしていたのだろうか。


「だからね、姉さん」

 混乱する螢月の冷たくなった手を握り締め、月香は真摯な目を向ける。

「姉さんは、ここを出た方がいいと思うの」

「え……?」

「だってお兄様――ううん。この国の王族は、守月さんの故郷の仇よ? そんな場所に姉さんが嫁ぐなんて、守月さんはいったいどんな気持か……」

 言われ、螢月は僅かに震えた。


 確かにそうだ。月香の言う通りならば、鴛翔は父の故郷を滅ぼした憎い一族の子孫で、恐らく父はまだそのことに対して許していないし、強く恨んでいるのだろう。だからああいう態度だったのではないだろうか。

 鴛翔はいい人だ。そのことを多少は理解してくれたから螢月を預けたのだろうとは思うが、そうなることを本心から喜んでいるのだろうか。

 父の静かな怒りを湛えたような仏頂面と、複雑そうな顔を思い出す。あの表情が、父の心情のすべてを物語っていたような気がしてならない。


 黙り込んでしまった螢月の手を、月香はもう一度強く握り締める。

「姉さんは優しいから、守月さんのことが気になってしまうでしょう? だから、お兄様に嫁ぐのはやめた方がいいと思うの」

「月香……」

「だって、そんな秘密と悩みを抱えたまま、姉さんは幸せになれる? 嘘なんかつけない姉さんが、秘密を隠し通せる? いつか絶対に苦しくなってくる筈よ」

 親身にかけられるその言葉達は、螢月の胸の奥を静かに刺激してくる。

「私は嫌よ。つらそうに暮らす姉さんの姿を見ているなんて、私までも悲しい。つらい」

 そう言って瞳を潤ませる妹の姿に、螢月も僅かに瞳を潤ませる。


 月香の言う通りだ。螢月は父のことを思ってしまうし、その度に、きっと鴛翔のことを見ることもつらくなる。そんな状態で一緒にいることは、鴛翔にも失礼だ。

 逆に鴛翔にそのことを知られてしまったら、彼はどう思うだろう。もしも嫌がられたりしたら、彼の傍にいる今の螢月に逃げ場はない。


 暗い表情で俯いた螢月の様子に、月香は心の中でほくそ笑む。

 人を騙すことが苦手なら疑うことも苦手で、とにかく押しに弱い姉は、言い包めてしまうのはとても簡単だ。小さい頃からやってきたことなので、慣れた月香には思う通りに誘導出来る。

「もしもここを出るのなら、協力するわ」

 月香の提案に螢月は不安そうな顔を上げる。

「お兄様に伝えるのが大変なら私からしてあげてもいいし、まとまったお金が必要なら用意するわ。住む場所が必要なら、それもなんとかしてみる」

「でも」

「気にしないで。大丈夫よ。姉さんが幸せに暮らしてくれるのが一番だもの」

 にっこりと微笑んで言われるので、螢月もぎこちなく微笑み返す。


 一通りの話を終えて用は済んだのか、月香は立ち上がる。

「そろそろお兄様も戻って来られるでしょう? お邪魔しては悪いわ」

 冷やかすような笑みを向けてぺろりと舌を出し、身を翻す。その背中に向けて、螢月は礼を告げた。

「あ、そうそう。母さんの櫛だけど」

 手を振って立ち去ろうとしていた月香は、思い出したように振り返った。

 螢月はギクリとする。また返せと言われるのだろうか。

 しかし、投げかけられたのは予想に反した言葉だった。

「よかったらこれからも持っていて。私と母さんとの思い出として」

 そう言って微笑み、螢月は返事を待たずに立ち去った。


 前からあんなに欲しがっていたのに、と螢月は呆気にとられる。妙にあっさりと引き下がったものだ。

 なにか違和感のようなものを抱きながらも、そのすぐあとに鴛翔が戻って来てしまったので、螢月はそれ以上月香の言動を疑うことが出来なかった。



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