三章

第20話 公主



 目が覚めても、まだ夢の中にいるような気分だった。

 天蓋から下がる美しい薄絹の幕が、朝の陽射しを柔らかく引き込んでいる。

 空気に埃っぽさや黴臭いところはなく、何処かに花が活けてあるのか、優しい甘さの中に胸のすくような清涼感のある香りがする。


「お目覚めですか、公主様」

 起き上がって深呼吸していると、薄絹の幕の外から声がした。

「公主……?」

 月香げっかが思わず首を傾げると、先程の声が微かに笑う。

「まだお慣れにはなられませんよね。あなた様のことでございます、萌梅ほうばい公主様」

 そこまで言われてハッとし、月香は幕を手で払った。

 寝台の外には、綺麗に着飾った女官達が十人ばかり控えていた。


「よくお眠りになられましたか?」

 先頭にいた年嵩の女が尋ねてきた。先程の声の主だ。

 月香が頷くと、女は優しく微笑んで「それはよかった」と頷き返した。

「こちらへお出でくださいまし。お着替えをして、朝餉に致しましょう」

 女に招かれるままに月香は寝台を滑り降り、女官達の輪の中へと足を踏み入れた。


 居並ぶ女官達は驚くほど手際がよく、なにも言葉を発しないでいても素早く月香に洗顔の為の水を差し出し、顔を拭く為の布を差し出し、振り返ったときには、着替え一式を手にして整然と控えていた。


 明け始めの空のような淡い紫の襦裙きものを差し出され、月香は双眸を瞠る。

「なんて美しい衣なのかしら!」

 思わず感嘆の溜め息と共に呟くと、女官達は優しく微笑みかける。

「公主様の為のお衣裳です」

「お似合いになるものを、と陛下がご用意くださいました」


 陛下――と聞き、月香は吐息を漏らす。

「あの方が、私の父なのね」

 月香が名乗ると涙を流して喜んでくれた男。ずっと会いたかった、と言ってくれた声は、涙と歓喜に震えていた。

 確かめるように呟くと、女官達は微笑んで頷き返す。

「陛下は、この二十年近くの間、ずっとずっと公主様をお捜しになられておりました」

 月香に美しい襦裙を着せかけながら、先程の年嵩の女官――美峰びほうという名らしい女がそう告げてきた。


 曰く、母の恋人であった鴛祈えんきが戦地に赴いている間に、母の家は謂われなき罪で焼き打ちに遭った。その報を受けたのは事件から半月以上も経った後のことで、鴛祈はあまりのことに絶望したということだった。

 そのときに、焼け跡から見つかった遺体の数が合わないということと、火を放たれる少し前に屋敷を出た者がいるらしいという話を聞き、それはもしかすると月蘭げつらんではないか、と僅かな希望を抱いて行方を捜し続けていたのだという。


「玉座に就かれてから十六年――即位後にご正妃をお迎えになられはしましたが、その御心はずっと月蘭姫の許へ寄せられたままでございましたよ」

 両目を潤ませた美峰はそう言って微笑んだ。

 そう、と月香は頷き、こちらも微笑み返した。

(麗しき純愛ってことね)

 王妃がいることは、一国民として当然知っていた。そちらに慮って「こんな娘は知らない」と言われないでよかった。その点に関しては、心の奥を占めていたらしい母に感謝しなければなるまい。


 着替え終えてきちんと髪も結ってもらい、月香は自分の姿を見て歓喜に打ち震えた。

「まあ……! まるで、天女様みたい!」

 思わず零してしまった声にハッとして頬を染めると、女官達はにこにこと笑みを向けてくれる。

「ええ、天女様のようですわね」

「本当に。とてもお美しいですわ、公主様」

「陛下がお選びになったお衣裳もよくお似合いで」

 口々にそんなことを言われるので、月香は内心で気をよくしながらも、恥じらって見せる。

「自分を天女だなんて、言い過ぎました……。あまりにも綺麗なお衣裳で、素敵で、それが嬉しくて……」

 両手で顔を覆って俯くと、女官達から優しげな笑い声が漏れてくる。

「そのように恥ずかしがらないでくださいまし、公主様。本当にお美しくていらっしゃいますし、喩えではなく天女様のようですよ」


(当然じゃない)

 月香は称賛の声を聞きながら、覆った手の内でにんまりと笑みを浮かべる。

 田舎だったとはいえ、そこで月香は一番の美少女と謳われていた。誰もが口を揃えて可愛い可愛いと言ってくれていたし、将来が楽しみだ、という声はいったい何人から聞かされてきたことか。

 そんな美しい自分が、接ぎの当たった襤褸ぼろを着ていることが本当に嫌で堪らなかった。

(これからは、この綺麗な襦裙も、豪華な簪も櫛も、みんなみんな私のものなのよ。これを纏うのが当然の暮らしになるのだわ)

 そろりと指の隙間から鏡を覗き込み、今まで見たことも触ったこともないような高価なものを身に着けている自分を見て、心から満足した。


(ほら。姉さんよりも、私の方がずっとずっと似合ってる!)

 服装にも髪型にも無頓着で地味な姉よりも、美人な母に似た自分の方が、この美しい衣裳もなにもかもがとてもよく似合っている。まるですべて月香の為に誂えたようだ。

 月香はもう一度にんまりする。これこそが月香の望んでいた姿なのだ。


 用意された朝餉も素晴らしく豪華だった。

 昨夜の夕餉も卓の上に狭しと並べられた皿数に驚いたが、朝もそれと同じくらいに並んでいる。いつも粥と主菜のなにかが一皿並ぶだけの食事をしてきていたので、今までのそれがどれだけ貧相な食事だったのか改めて思い知らされる。

 そのすべての料理は月香の為だけに用意されたものだ。遠慮なくすべてをぺろりと平らげる。いつもいつも少ない食事を四人で分け合っていて、とてもひもじかったのだ。


 すべて綺麗に食べてしまって満足していると、女官の何人かが少し呆気に取られたような顔でこちらを見ていることに気づいた。

 さっと頬を染め、月香は申し訳なさそうにしてまわりを見回した。

「あの……ごめんなさい。残したら叱られると思って……」

 そうして涙ぐんで見せると、まあ、と美峰が痛ましげな表情になる。

「そのようなご心痛を与えていたとは知らず、申し訳ございません。食べられるだけでいいのですよ。遠慮なくお残しになって、下げ渡してくださってもいいのです」

「でも、とても美味しかったので、残すのももったいなくて。意地汚かったですね」

「決してそのようなことはございませんよ。とても有難いお言葉、厨の者も喜びましょう」

 悲しげにしている月香に向かって美峰は微笑み、感激したように頷いた。


 ありがとう、と月香も頷き、そっと微笑む。

 美峰はすっかりと『憐れな村娘だった素直な公主』に気を許しているようだ。見つめてくる瞳が限りなく優しく、まるで赤子を見守る母親のような雰囲気だ。

 どうやら彼女がこの女官達のまとめ役であるようなので、このまま彼女を味方につけてしまうことが、月香がここで安全に暮らしていける第一歩だろう。


(王の娘というだけでは、きっと苦労するもの)

 偉い身分の者の子供だからといって、それだけでいい思いが出来ないことくらいはわかっている。皆から尊敬を集める人徳の厚い村長の娘である夕鈴ゆうりんでも、村でそんなに特別扱いは受けていなかった。

 王宮という場所がどんな環境かなど知らないが、突然現れた賤民が主人となって面白く思わない人間の方が多い筈だ。表には出さずとも、心の内では絶対に反発がある。

 そういったものを上手く躱す為にも、月香は女官達から早急に信頼を勝ち得る必要があったのだ。




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