第17話 親切



 ぱかり、瞼を開く。

 ぐらぐらと揺れ動く視界に広がったのは、見たことのない天井だった。

「――…気持ち悪い……」

 掠れた声で呟くと、ひょっこりと見知らぬ顔が視界に入って来た。思わずギョッとする。

「起きた?」

 悲鳴を上げるよりも早く、少女はにっこりと微笑んで尋ねると、身を翻して声を張り上げた。


「兄さああぁぁぁぁん! 起きたああぁあぁぁぁぁあっ!」


 予想もしていないほどに大きな声だった。慌てて両手で耳を押さえてみたが、頭がぐらりとする。

(――…なに? なんなの?)

 状況が飲み込めないまま、耳の奥でキーンと鳴る不快な音にうんざりした。

 あの少女はいったい何処の誰で、何者だ。ここはいったい何処なのだ。


「兄さあぁ――」

「よしなさい」

 再び張り上げる少女の大音声に身を縮めると同時に、別の声が割り込んできてやめさせた。今度は若い男の声だ。


「寝込んでいる人のすぐ傍で、そんな大きな声を出すもんじゃないよ」

 呆れたような口調で話す声がだんだんと近づいて来て、さっきの少女と同じように上から覗き込むようにこちらを見下ろしてきたのは、やはり若い男だった。

「具合はどうだい? 痛むところはないかな?」

 尋ねてくるのも先程と同じ柔らかい声音で、それを口にしているのも細面の柔和な優男だ。年齢は、青甄せいしんと同じくらいだろうか。


 月香げっかは頷きながら様子を窺い、そろりと起き上がる。

 凝った細工の彫られた支柱の寝台に、美しい紗の天蓋がかかっている。布団も上等な絹のようで、月香が着ているのも滑らかな肌触りの絹の寝間着だ。

「勝手に着替えさせてごめんね。汚れてたから」

「着替えさせたのは兄さんじゃないから大丈夫よ!」

 さっきの少女が話に割り込んでくる。月香は一瞬身を竦めたが、悪意は感じられなかったのですぐに居住まいを正した。


「自分が、行き倒れていたのは覚えている?」

 青年は妹らしき少女を押しやり、窺うようにして尋ねてくる。

「はい。どなたか存じ上げませんが、ありがとうございます」

 礼儀正しいきちんとした娘だと思わせなければ、と月香は丁寧に頭を下げて見せた。

 そう、と青年はホッとしたように頷く。

「じゃあ、自分のことはわかるかな? 倒れたときに頭を打って、自分のことを忘れてしまう人がいるんだけれど」

「はい。名前は、月香です。はく月香」

「僕はじょ潤啓じゅんけい。こっちは妹で――」

虹児こうじよ。よろしくね!」

 また言葉を遮って入って来た。月香は思わず呆気に取られたが、気を取り直して笑みを浮かべる。

「助けてくださり、本当にありがとうございます。お陰でこうして生きております」

 感謝の言葉を口にしてもう一度深々と頭を下げると、うん、と潤啓は頷いた。

「言葉に少し訛りがあるね。何処から来たの?」

 その言い方にどきりとした。自分では普通に喋っていたつもりなのだが、田舎から出て来た者だとわかってしまうものなのか。


 月香は僅かに答えに躊躇ったが、この出会いはどうせ一期一会になる。素性を名乗ったところでなにも面倒にはなるまい、と素早く考えを巡らせる。

「西の……杷倫はりんという山をご存知ですか?」

「ああ、狩りが好きな人はよく行かれるところだね。有名だ。麓の街も、櫛作りで有名じゃなかったかな」

「その街から参りました」

 潤啓は驚いたような顔になる。

「杷倫から?」

 素直に頷くと、更に驚いたようだ。

「そんなに遠くないといっても、結構距離があるよ。そこから歩いて来たの?」

「はい」

「へえ! 二、三日では済まなかっただろうに、あんな軽装で……」

 その言い方から、やはり着替えを持っているくらいでは旅支度とは言えなかったのだろう、と思い至る。道中なにがあるかわからないのだから、干した肉などの携帯食くらいは持ち歩くべきだったのだ。


 月香は黙って俯き、小さく溜め息を零した。

 そんな様子に、やはり道中はとても苦労を得たのだろう、と潤啓は同情したようだった。こちらも小さく息をつく。

「取り敢えずね、お医生いしゃに見せたところ、怪我はなにも見当たらないし、病でもなさそうだから、目を覚ましたら飯を食わせろって言われたんだけど……なにか食べられそうかな?」

 言われ、自分が相当腹が減っていることに思い至る月香だ。自覚すると胃が音を立てた。

 その音を聞いた安心したように潤啓は笑い、立ち上がる。

「お粥炊いてもらって来るよ。杷倫から何日食べてなかったのかわからないけど、少なくとも寝込んでいた三日は食べてないから」

 三日も寝込んでいたのか、と何気なく零された潤啓の言葉に驚きつつ、身軽く出て行く後ろ姿を見送った。


 そこでハッとする。

(私の荷物……母さんの簪! 手紙!)

 慌ててあたりを見回していると、いつの間にか出て行っていたらしい虹児が盆を抱えて戻って来た。

「あ、あの、私の荷物は……っ」

「荷物? 袋はそこで、胸のとこに入ってたのはそこ」

 虹児はさっさっと寝台の足許と枕の隣の小棚を指し示した。

 小棚の上に草臥くたびれた手紙と簪が置かれているのを見て、月香は慌てて飛びつく。なにも変わったところがないのを確認してから、胸に抱え込んで安心した。失くしていたら大変なところだった。


 そんな月香の様子を見ながら、虹児は茶碗を差し出す。

「はい、これ。胃の調子を整える薬湯だから、ご飯の前に飲んでおこう?」

 わざわざ薬湯だなんて、と月香は驚いた。少し絶食したくらいでそんな高価なものをいちいち飲んだりしない。

 いいから、と言われて茶碗を受け取り、飲んでみるが――なんとも言えない味だ。どちらかというと、確実に不味い。

 うえっ、と顔を顰めた月香に、虹児はけらけらと明るい笑い声を零す。


「ねえ、月香って年は幾つ? 私は十五!」

 身軽く寝台の端に腰掛け、虹児は親しげに話しかけてくる。そんな気安い様子に、幼馴染みの夕鈴の姿を思い出した。

「……同じ、十五」

「本当!? 嬉しいな。……あ、兄さんはね、二十なの」

 ふうん、と頷きながら、確か青甄は二十だったな、と思い出す。やはり印象通りに同じくらいだったか。

「なんか変に落ち着いてて、お爺ちゃんみたいでしょう?」

「そう? 大人っぽくていいんじゃない」

「駄目よ。石頭だし、口煩いしさ」

 そう言って大きく溜め息を吐き出し、唇を尖らせるので、月香は思い出し笑いをしてしまう。その様子に虹児は首を傾げた。


 急に思い出し笑いなんて失礼だったか、と月香は謝り、理由を口にした。

「私にも姉さんがいて……あれしろこれしろ、あれは駄目これは駄目ってうるさかったな、と思って」

「そうなの!」

 虹児は拳を握って身を乗り出す。

「いっつもね、細かいことまでいちいち本当にうるさいの。好き嫌いせずに食べろとか、手習いを怠けるなとか、木に登るなとか」

 後半の部分は虹児がいけないのではなかろうか、と一瞬思うが、口にはしないでおく。


 そんな話を楽しくしていると、足音が近づいて来て、振り返れば潤啓の姿があった。

「楽しそうだね。笑い声が聞こえていたよ」

 微笑みながら粥の乗った膳を月香の前に置き、お食べ、と勧めてきた。

 目の前に美味しそうな匂いが漂って来たら堪らなくなったが、月香はお行儀よくちびりと粥を掬い、少しずつ口に運んだ。はしたなくがっつくわけにはいかない。

「月香にも姉さんがいるんだって」

 ちびちびとお上品に振る舞いながら粥を口に運んでいると、虹児が聞いた話を兄に報告している。へえ、と潤啓は頷いた。

「じゃあ、姉さんとはぐれたのかい?」

 その言葉にハッとする。

 姉がいるのに遠方への一人旅だと怪しまれるのだ。抜かった。


 月香は顔を俯けて表情を悲しげに整えてから、匙を下ろし、改めて顔を上げた。

「姉は……亡くなりました」

 その言葉に虹児がすぐさま「えっ」と声を上げ、困惑気な表情を浮かべる。

「それは……悪いことを訊いてしまって」

 潤啓も気不味そうだ。

 いいえ、と月香は首を振る。都合よく涙も浮かんできてくれた。

「姉といっても本当の姉ではなくて、幼い頃に引き取ってくださったお家のお姉さんだったのですけれど……とても優しくて、実の妹のように可愛がってくださいました。とても好きなお姉さんだったんです」

「お気の毒に」

 痛ましげな顔になった虹児は、心中察する、と告げて肩を抱いて来た。

 目許を抑えながら、月香も「ありがとう」と呟いて額を寄せる。虹児が更に強く抱き寄せてくれるので、同情は得られた、と心中で笑ってしまう。


「では、こちらには、親戚を頼って来たのかな?」

 気不味そうな表情のまま尋ねる潤啓の言葉に頷き、手許に置いておいた簪と手紙を手にする。

「これは、母の形見と、生き別れた父が、母に宛てていた手紙なのです」

 瞳を潤ませて潤啓を見つめ、月香は簪を握り締めた。

「母は、都の貴人の娘だったのですが、事情があって杷倫へ辿り着いたらしくて……私は、父の顔も知りません」

 涙を頬に伝わせながら、月香は潤啓に縋るような視線を投げかける。


「父を――鴛祈えんきという方を、ご存知ではあられませんか?」



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