第四十譚 麗らかに《春》は産まれる
春だった。
見渡すかぎりの、春だ。
新緑がきらめく。凍りついていた針葉樹の群は重い外套を脱ぐように
視線を落とせば、黄色。
雪を割って、
どこからか、黄色の蝶がやってきた。春に誘われて、さなぎから孵ったのだろうか。
さああと風が渡れば、春の香りが巻きあがり、すそ野一帯が緑に染まる。
麓から緑や黄に彩られる様は、絵筆を持った妖精が飛びまわっているかのようで、その無邪気なる
《春》は新緑にかこまれて、静かにたたずんでいる。
《春》が踏みだすと、そこからまた息吹が産まれる。
長く
どこまでも麗らかな春だった。
「春は、こんなに」
ハルビアが震える声をあげた。
「こんなにも綺麗だったのですね」
濡れた頬を持ちあげ、彼女は晴れやかに笑った。
「綺麗で、暖かくて、優しくて」
言葉を重ねるごとに涙が零れる。彼女は泣き続けていた。
だがこれまでとは違って、その雫は熱を帯びていた。
凍ることのない、歓喜の涙だ。
隣では長が春を臨んでいた。目を細めて、長は感嘆の息をつく。
「春が綺麗なものだったこと、いまさら、想いだすなんてねぇ」
かつて春は、恐れるべきものだった。遠ざけ、できることならば永遠に巡るなと、誰もが望んでいた。けれどこうして春は、また穏やかに巡ってきた。
「春を殺めた者の子孫が、春を甦らせるだなんて」
長は皺を緩めて、ふっと微笑んだ。
緩んだ雪を踏んで、セツが前に踏みだす。
「僕は季節殺しを肯定しません。いかなるわけがあっても、なにを護るためであっても、
「殺されて、あげた……ですか?」
意外だったのか、ハルビアが言葉を繰りかえす。セツは頷いた。
「季節は生きていて、殺される。ですが、彼らはみずからが息絶えれば、理の循環が滞ることを理解しています。殺されまいと抵抗する」
「まして、無能なにんげんごときに殺されるはずがないのだわ」
季節をばかにされていると受け取ったのか、クワイヤが不満げに割り込んできた。
「町の危機だと理解して、殺されてくれたんです」
セツは繰りかえす。無邪気に走りまわる《春》を見つめながら。
「あなたの先祖と一緒だ。あなたの先祖は季節を殺せば、凄惨な死を迎えると分かっていて、それどころか、子孫が春にいのちを
それがどれほどの決断だったのか。生きながら焼かれる絶望か。肺から心臓まで凍りつく恐怖か。他人には想像がつかない。想像できるなんて思いあがってはならないのだ。
「ですが、その、ユラフ・ルゥ・ノルテという者の決意は」
セツは
「無駄ではなかったと」
長が震えた。皺に縁取られた緑の瞳が複雑にゆがむ。
安堵に満ちたかと思えば、瞳が
「ユラフ兄様……リリィ姉様、やっと」
長はなにかを言いかけて、口の端を結んだ。
報われたんだねと、まだ幼い娘の声で、セツには聴こえたような気がした。
樹木の枝にも春は訪れていた。葉の
「他の地域ではみたことがありませんねぇ」
セツが言った。
「
「最後の雪、ですか」
惹かれて、ハルビアが枝に手を伸ばす。
車椅子に乗っている彼女は、もうちょっとのところで枝には届かなかった。見かねて、エンダが手折ってやろうとする。だがハルビアは可哀想だからとそれを断る。諦めきれないのか、ハルビアが枝を眺めていると《春》がハルビアのもとまでやってきた。エンダが身構える。《春》はエンダには構わず、ハルビアの膝に頬をこすりつけた。
それからうながすように、袖をくわえて引っ張る。
「立てと、仰るのですね?」
言わんとすることに気がついて、ハルビアが尋ねた。
理解してもらって嬉しいのか、《春》はきゅうと
エンダが慌てて、声をあげた。
「危ないからやめたほうが」
「いえ、頑張ってみます」
「けど転んだら」
「貴方が助けてくれるでしょう? 昔みたいに」
「そ、そりゃもちろんだ! 怪我なんかさせない!」
ハルビアは微笑みかけ、車椅子のひじ掛けに体重を乗せた。
靴を履いた足の裏を草地につける。地の感触を確かめるようにつまさきを動かす。しっかりと足裏を大地に乗せてから、膝にちからをこめるのが見て取れた。
彼女は、慎重に体重を乗せていく。みずからの脚に。
生まれてからこれまで、ずっと、立ちあがることのできなかった脚に。
親しい者たちの視線を受け、背を押されるように、ハルビアは椅子から腰をあげた。ひじ掛けに頼っていた指をほどき、腕の支えをなくす。体重にたえかねて、膝が震える。エンダが支えようとするのを、彼女は首を横に振ってとめた。
「ま、待ってください。立ちあがれる、ような、気がするのです」
身体の一部だった車椅子から、完璧に切り離され、彼女は背をすくと起こす。
歓喜の声が、わっとあがった。
「立てた……ねえ、みて!」
生まれてはじめて、じぶんの脚をつかい、ハルビアは身体を支えた。
ふらふらとおぼつかないが、彼女は転ばずに踏みとどまっている。そこからひとつ、またひとつと歩を踏みだす。長は喜びのあまりに泣き崩れた。ヨウジュも熱い目頭を押さえている。
「奇跡だ! なぁ、こんなことが……っ」
エンダが叫んだ。声は涙で滲んでいた。溢れてきた涙を腕で乱暴にぬぐい、エンダは瞬きもせずにその光景を瞳に焼きつけている。
《春》の
彼女は枝を握り、側に寄せて、花を確かめる。
ほんとうに雪の結晶のかたちをしていた。
冬からの、最後の贈り物のような。
想像を絶する柔さに、枝をつまむ指が震える。微かな熱でも
さすがに限界がきたのか、ハルビアはくらりと重心を崩してしまった。セツは「あっ」と思ったが、後ろについていたエンダが素早く後ろから支えていた。
「歩けた……私、生まれてはじめて、じぶんで歩け……うっわああ、嬉しい……嬉しくて」
子供のように声をあげて、ハルビアは泣き始めた。彼女は涙もろかったが、セツが知るかぎりでは、こんなふうに泣き崩れることはなかった。幼い頃から溜め続けていたなにもかもを流すように、彼女は泣き続けた。エンダは感極まって、彼女を抱き締める。
「辛い思いをさせてしまって」
詫びる長に頭を振って、ハルビアは涙ながらに微笑んだ。
「いいえ、私はずっと、幸福でしたよ」
愛されていた。恵まれていた。
町から溢れるほどの愛を受けて、育ってきたのだ。
「だから謝らないでください、私にだけは」
みなの様子を遠巻きに眺めながら、セツは彼女が語ってくれた言葉を思いかえしていた。
彼女は、生まれながらに重い宿命を帯びていた。親の死に動かない脚、さだめられた短い寿命。訳を教えてはもらえなかった。けれど、彼女は決して不幸だとは言わなかった。
彼女は強かった。故にただひとり、春を望んだのだ。
親をもとめて涙をこらえた夕暮れがあったはずだ。死を恐れ、眠れなかった晩があっただろう。なぜに立ちあがれないのかと、みずからの脚を責めた朝があったに違いないのに。
彼女はただ、春を望み続けた。
綺麗なものをひとつだけ。
「私は不幸だったことなんてありません。ただ、いまは凄く幸せで。幸せすぎて、涙がとまらないのです。あれだけ待ち続けていた春が、綺麗で。春の大地を、この脚で踏みしめられて。こんなに幸せでいいのかと」
幸福の涙は暖かく、綺麗だった。春と変わらないくらいに。
遠くから遠吠えが響いてきた。長きに渡るそれぞれの辛抱がようやっと終わったのだと、報われたのだと報せるように。町の者には聴こえないものが、されど春の
「どなたかが祝福してくれているのですね」
「聴こえるのですか?」
「ええ、幸福を願ってくださるような」
季節の祝福は響き続ける。産まれたばかりの季節が耳を動かして、頭をあげた。瞳を輝かせ、声が聴こえる方角に走りだす。絶壁にも等しい崖を蹄で踏みしめて《春》は
あざやかな緑が、雪に映える。
望まれて、季節は巡りだす。穏やかに、やすらかに。
産まれたばかりの《春》がきた。
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