ベビーシッターは我輩

きりもみねこ

1:引退の我輩

 ――――――





 厚い黒雲がまばらに散る空は毒々しい赤紫に染まり、薄暗い雰囲気が漂っている。飛ぶ鳥は眼球が大きくせり出しており、口から唾液を垂れさせたまま地上の獲物を探している。その化け物の見張りを潜り抜けた先、萎びた草木がカサカサと音を立てる森の奥に、その城はあった。


 見上げても上が見えぬ程の巨大さでそそり立つ石造りのその城は所謂「魔王城」というやつである。






「魔王様!魔王よ!お待ち下さい!!」



 凛とした声は少し高い。カツカツと荒く速い足音と共に背に受けた82代魔王 ミロ・シュ・ガオゼータはゆったりした動作で振り返る。回廊を足早に追いかけて来たのは魔王補佐のミモラであった。


 彼女は悲しそうに狼の耳をぺたりと下げる。


「…ミロ様、先程のお言葉…魔王の座から退くだなんて、どうしてそのようなことを、」


 その目は寂しさに揺れ、魔王が引退することへの不安の色が濃く浮かんでいる。よく見れば自慢の鼻も乾いてしまっているようだ。

 走ってきたのかぴすぴすと鳴るその黒い鼻を見つめ、魔王は少し考えてから口を開いた。


「…我輩が魔王となってからは何故か勇者が挑みに来ず、迎え撃つ必要がない。民らの生活も安定している。魔王となってもう300年近くなるし、ここらでそろそろ次の者にと思ったのだが、」



 だめだろうかとは聞けなかった。話すうち段々と開いていくミモラの下顎がそろそろ外れそうだったからである。






 ――――――






「…うむ」


 後日、ミロは執務室で羽根ペンを走らせながら思案していた。内容はもちろん引退についてである。


 結局「ご自身のお力をわかっていない」だの「適わない相手には挑まない」だの吠える様子のおかしいミモラを帰したあの後、部屋に部下達が一人また一人と訪れた。皆引退を考え直すよう言いに来たのだ。ついには城下町の子供達からも引退を惜しむ手紙が届いた。

 これは間違いなく部下が出向いて書かせたものだろうが、内容は、――読む限りこれは子供たちの本心なのだろう。(『まおうおじちゃんしなないで』と書いてある)



 ミロは手を止めると、老眼鏡を外し眉間を押さえる。何も部下や子供たちを不安にさせたくて引退を決意したわけではない。ミロなりに彼らや国のことを考えての決断なのだ。



 ミロは300年と長い間魔王を務めてきたが、これは長寿の魔族の中でも長い方である。大抵は100年ほどで勇者に討たれ世代を交代する。

 討たれ滅ぶことは決して良いとは言えないが、世代交代こそが王国の発展を支えてきたと言っても過言ではない。古き王の築いた基礎をもとに、新たな思想や発想を持つ若き王が国を導きより良い繁栄をもたらす。このループが繰り返されることこそが我が国の歴史の歩みであり、輝かしい栄華の軌跡なのである。


 しかし今、そのループは断たれている。他でもない、このミロ・シュ・ガオゼータによって。


「…昔から怪我や病には強かったのだ…」


 死ぬような怪我というのが殆ど無いぞとヒゲを撫でる。小さい頃はどうだったかを思い出すが、生命力だけは有り余っていたような気がする。そもそも魔王就任の際はこの生命力を活かして勇者防衛に努めようと意気込んだものだったが…




 ――そういえば何故勇者は来ないのだ?



 はたと思い当たって眉を寄せる。こうしてミロが悩んでいるのも勇者が魔王討伐に動かない為である。


 人間国は大体100年の周期で作物の不作に悩まされる。伝説では初代魔王が死ぬ間際にかけた呪いによるものだと言われているが、事実人間たちは食糧不足に陥る。しかし人間の国同士で争う訳にはいかず、されどやはり飢える訳にもいかず、なんだかんだと理由をつけ魔王国の資源を狙いに来るのだ。女神フロニティと勇者の力を借りて。

 魔王国も当然迎え撃つのだが、女神の力を受け継ぐ勇者の強さは絶大で多くの魔王が散った。


 ミロも当然その覚悟で魔王となったのだが、どうしてか勇者がぱったりと来なくなった。おかげで国の平穏は保たれているが、気付いてしまえば怪しさばかりが募る。書類の署名を再開しつつ、一度人里へ様子を見に行けないものか、と考えて、閃いた。





 引退がいけないのなら、しばしの長期休暇を貰うというのはどうだろうか!








 その日の書類作業はとても捗った。



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