昼休み、いつもと同じように屋上でフレデリカと過ごす。こちらが彼女の正体に気づいているコトを悟られてはいけない。辰子は努めてふだんどおり接するように心がける。

 今まで意識していなかったが、太陽の下にいるフレデリカには、影がなかった。吸血鬼は鏡に映らないし、影も出来ないのだ。こんなあからさまな証拠を見逃していたコトに、ショックを感じた。これまで自分がいかに無防備な生きかたをしていたか、思い知らされた。しかし、そんな感情はおくびにも出さない。

 けれど、やはり本心では不安でしかたなく、空はそれを見透かしたかのように、徐々に雲が分厚く垂れこめてきた。

「せっかく日本に来たんだからさ。今度の連休にでも出かけない? アタシが東京案内してあげる」

「ねえ辰子」

「なに?」

「わたしが血を吸ってるトコ、見てたでしょう」

「ヒッ――」不意打ちの指摘に、辰子はつい声が引きつった。ごまかすにはもはや手遅れだ。

「上手く隠していたつもりだろうけど、内心ビクついてるのがミエミエだったわ。バカね。そんなに怖いなら、さっさと逃げればよかったのに。日中はまだ猶予があると思った? 吸血鬼が日光を浴びると灰になるなんて間違いってコトは、まァ今さらでしょう? 現代の伝承だと混同しがちだけど、魔女と吸血鬼は本来別物なの。わたしは吸血鬼なだけであって、もともと魔術を使えないから、わざわざ夜を待つ必要なんてないわ」

 フレデリカが辰子の首筋を撫でる。そこから手が下がってきて、胸をやさしく愛撫する。しなだれかかって顔をよせ、息を吐きかけてくる。蜂蜜に似た匂いで包まれる。けれどその甘い香りの奥に、ハラワタをぶちまけたような血生臭さが混じっている。

「悪い子ね辰子。ホントに悪い子。のぞきなんて趣味が悪いわ。しかも同級生が襲われてるのに、何もせずだまって逃げたなんて」

「ち、違っ、見捨てたワケじゃ――」

「ウソ。あなたは見捨てたのよ。自分が巻き込まれたくない一心で」

 フレデリカは顔をそらそうとする辰子の頭をつかみ、ムリヤリ自分のほうを向かせた。蛇ににらまれたカエルのように、辰子は恐怖で身動きできなくなる。

「かわいいわね辰子。あなた、とォてもかわいい。キスしてあげる」

 くちづけされて、舌をねじ込まれる。唾液を流し込まされ、徹底的に蹂躙される。息ができない。

「――ぷはぁ! ハァ、ハァ――」

「ルームメイトが真っ先に倒れたら目立つだろうし、どうせなら最後まで取っておくつもりだったけど、この際バレちゃアしかたないわね。寮をニンニク臭くされたらたまらないもの」

 ほほ笑むフレデリカの口から、異常に発達した犬歯がのぞく。あの牙で噛みつかれて、血を啜られるのだ。そして自分も吸血鬼にされてしまうのだ。

「じゃ、いっただっきま――」「そこまでだ。彼女から離れたまえ」

 屋上の出入り口がいきおいよく開け放たれ、現れたのは白衣を身にまとった少女――烏丸だった。彼女はトレードマークの伊達メガネを外して、フレデリカをにらみつける。

 その顔を見たフレデリカは困惑した様子で、「あなたは――まさか、イロナ・コルヴァン!」

 その名を聞いて辰子はおどろいた。図書室から借りたあの本の主人公、ドラキュラ伯爵夫人ではないか。

「今は烏丸イロナと名乗っている。そういうキミこそ、ずいぶん様変わりしたものじゃアないか。女らしい装いもよく似合っているぞ、フレッド・ポーロック。いや、フレデリカ・P・オルロック。むしろこっちが本名かな。そういえばドラキュラ伯爵が追い落としたザクセン人有力貴族のなかに、オルロックという名があった気がするよ。まさか一族に生き残りがいたとはね」

「へえ、そうなの? 期せずしてご先祖様の話が聞けてうれしいわ。それにしても、まさかこんなところであなたに再会できるとは思いもしなかったけれど」

「いやいや、それはこっちのセリフだとも。一八九一年、シャーロック・ホームズの計画でモリアーティ教授の組織が壊滅させられたとき、逮捕者リストにキミの名はなかった。なにせキミはホームズと裏で通じていたワケだからね。あとになって『恐怖の谷』を読んだときは、それはもうおどろいたものさ。だが同時に、合点もいった。ダートムーアでヘンリー・バスカヴィル暗殺を失敗するように仕向けたのは、モリアーティ教授の指示ではなく、キミの独断だったワケだ。ジャマなボクを始末するなら、計画を成功させたあとでも問題なかったのだし」

「ええ。べつにわたしはそんなつもりなかったのだけれど、ホームズのヤツめ、協力しないとわたしが内通者だって教授にバラすとか言い出すものだから、ホントまいっちゃったわ。そこでムリしたせいで、結局モリアーティ教授にはバレるし」

 辰子はスッカリ置いてけぼりになっていた。急展開についていけない。いや、彼女たちが何を話しているのかは何となくわかる。辰子はイロナ・コルヴァンの日記を読んだのだから。ついていけないのはそこではなく、物語の登場人物だと思っていた者たちが、こうして目の前に存在しているという現実にだ。

「しかし、キミはどうやって吸血鬼になって生きながらえているんだ? ボクは確かにキミの血を吸ったが、あの程度では吸血鬼にはならないハズだ」

「ああ、そのコト? プラハにローウェンシュタインって血清学の権威がいて、ソイツにモリアーティ教授が吸血鬼化薬を作らせたのよ。スコロマンスの生徒たちの死体から採取した血液サンプルをもとにね。一度でも吸血されれば、その血液中に吸血鬼の因子が残されているそうよ。ドラキュラ伯爵とミナ・ハーカーとのあいだに通じていたパスがそうだったように。で、わたしは試作品第一号の実験台にされたというワケ。裏切りの制裁ついでにね。でも、おかげで不死身にしてもらえたんだから、教授には感謝しないと」

「どうやら変わったのは、装いだけじゃないらしい……キミも苦労したようだな。今となってはべつに恨みもない。どちらかというと、キミには感謝すべきだろうな。キミがホームズに情報を流したおかげで、結果的に元凶のモリアーティが追い詰められたワケだから」

「それはよかった。なら、これからは仲よくやってきましょう」

「いや、それはダメだ」イロナは首を横に振った。「過去は水に流そう。だが、現在のコトまでそういうワケにはいかないね。ボクのナワバリを侵した罪は、その命であがなってもらおう」

「アラ、残念ね。あなたとは友達になれると思ったのに」

 そう言ってフレデリカはスカートのなかに隠し持っていた、グルカナイフを抜き放った。あのドラキュラ伯爵の首をはねたものと同じナイフだ。

「あなたはトランシルヴァニアの土をこの国へ持ち込んで、魔術が使えるようにしているんでしょうね。だからもしこれが夜だったら、魔女じゃないわたしに勝ち目はなかったわ。でもあいにく今は昼間、吸血鬼同士条件はフィフティ・フィフティよ。いいえ、しょせんはかよわいお姫サマにすぎないあなたと違って、わたしはモラン大佐から軍隊格闘をたたき込まれているわ。モリアーティ教授の工作員として、数々の修羅場をくぐり抜けてきたのよ。そのわたしに、どうやって勝つ気でいるのかしら?」

「おお、ソイツは怖いな。まいった」

「先、輩?」

 イロナはやさしくほほ笑んで、「安心したまえ。かわいい後輩にこれ以上手出しはさせない」

 その言葉を素直に受け取ってよいのか、辰子にはわからなかった。たとえイロナが勝ったところで、彼女もまた吸血鬼なのだ。襲われる相手が代わるだけではないか。

「オルロック。勝ち目があるかと訊いたな? 実に愚問だ。勝ち負け以前に、そもそも戦いにならないのだから」

「あら、ずいぶん弱気なのね」

「いいや、逆だよ。犯罪の皇帝ナポレオンならいざ知らず、一雑兵ふぜいがこのボクに歯向かおうとは」

 その言葉にフレデリカはスッカリあっけにとられた様子だ。

「身のほどを知れ。わが名はイロナ・コルヴァン。トランシルヴァニア公ヤーノシュの娘、ハンガリー王にしてボヘミア王マーチャーシュの妹、そしてトランシルヴァニア公ドラキュラ伯爵の妻だぞ」

 そう豪語するや、イロナは口笛を吹いた。

 すると、どこからともなく、ネズミの大群が屋上へと現れた。これだけの数が校舎に潜んでいたと思うと、辰子の背筋に怖気が走った。それはフレデリカも同様で、顔を驚愕で引きつらせている。

「日中に魔術は使えない、その認識は確かに間違っていないとも。ただし、べつに魔術だけが魔女のすべてじゃアない。このかわいいネズミたちは、魔力でボクに操られているのではなくて、言葉を交わして従えたのさ。スコロマンスで悪魔から教わるのは、天候の操作、さまざまな姿への変身、死者の魂を使った占い――そして、動物の言葉だ」

 ネズミたちがフレデリカへいっせいに襲いかかる。フレデリカはカラダに群がるネズミを引きはがし、払いのけ、踏みつぶすが、数が多すぎて追いつかない。

「やめ――来ないで! このッ、あっち行って! イヤ――もがッ」

 一匹のネズミがフレデリカの口へと飛び込んだ。

「おっと、あまり大声を出してもらっては困る。ほかの生徒たちに気づかれたらどうするつもりだね?」

 フレデリカはネズミを吐き出そうと必死でもがき苦しむも、さらに二匹三匹と続いて、ノドの奥へと突き進もうとする。また、ネズミたちは服のなかまで潜り込み、穴という穴から彼女の体内へ押し入ろうとしてくる。辰子は恐怖で失禁した。

 やがてフレデリカは屋上に倒れ伏し、カラダが完全にネズミの山で覆われてしまった。肉と骨をかじる生々しい音が聞こえ巣穴へ帰っていくと、あとにはフレデリカの制服だけが残された。

 あまりのおぞましい光景を目にして、呆然自失とする辰子に、イロナは濃厚なキスをした。そのショックでわれに返った辰子は、反射的にイロナを突き飛ばした。「イキナリ何をするんですかッ!」

「ひどいな。危ういところを助けてあげたのだから、感謝のキスくらいあってしかるべきだと思うがね」

 辰子は腰が抜けたままあとずさりする。「そんなコト言って、どうせ烏丸先輩もアタシのカラダが狙いなんでしょ? 一滴残らず血を吸いつくすつもりなんだ」

「それは誤解だ。むろん許してもらえるなら、よろこんで血を吸わせてもらうが、キミを殺すつもりはないし、ましてや吸血鬼にするつもりもない。キミがみずから望まないかぎりね。ただし、助けてあげた見返りと言っては何だが、キミにひとつ頼みがある」

「頼み?」

 昼休み終了を告げる予鈴が鳴り響く。創立当時からある鐘なのでかなりやかましかったが、イロナの声はハッキリと聞こえていた。

「ボクの――の生徒になってくれ」

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