ワトソン博士の手記

四月四日

 ミナという名を聞いて、私はふとアフガンの戦友を思い出した。私が肩を撃たれてしまったとき、命懸けで私を救ってくれたマーレイのことを。彼がよく自慢していた姪も、確かミナという名前だったはずだ。マーレイは元気でやっているだろうか。

 さて、シスター・イロナが捜していた赤毛のヘルシングなる人物に、私は心当たりがあった。というよりエイブラハム・ヴァン・ヘルシングを知らないとしたら、断言してもいいがその医者は間違いなくモグリだ。彼は脳の連続的進化の発見にともない革命的治療法の先駆となり、医学博士にかぎらず文学博士、哲学博士など多くの肩書きを持つ。ただしシスターはどうやら彼を英国人と勘違いをしていたようだが、ヴァン・ヘルシングという姓からわかるとおり、実際にはアムステルダム大学教授を務めるオランダ人だ。さすがのホームズも、オランダへ人捜しに出かけるほど暇ではないだろう。

 ホームズにその事実を伝えると、彼は失笑した。「どうやら偽修道女だけあって、神には見放されているらしい」

「なんだって? ホームズ、きみはあのシスター・イロナが偽物だというのか。いったい何を根拠に」

「十字架も着けず、おのれの家名を声高に誇る者が修道女なものか」

「……確かに。だが、なぜそんな嘘を」

「まあ彼女が修道女を騙っていたのは、単に女の一人旅には好都合という程度の理由だろうな。ただしそのせいで、さらによけいな嘘をつくハメになったようだが。おそらくドラキュラ伯爵夫人は亡き姉などではなく、彼女自身だ。修道女が結婚していてはおかしいからな。われわれと話すまでそのあたりの設定を深く考えていなかったので、とっさに存在しない姉をでっち上げたわけだ」

「待て。それなら後妻云々はどうなる? あれも嘘か」

「嘘というより出まかせと言うべきだな。彼女は生来、行き当たりばったりの性質なのだろう。辻褄の合わない言動はそのせいだ。とはいえ、そもそもこれらの嘘はさして重要ではない。彼女の隠された目的と、本質的には無関係だ。仇討ちという目的とはね」

「仇討ち? なら、ドラキュラ伯爵はすでに殺されていると?」

「ワトソン、きみは彼女の話を聞いていて、奇妙だとは思わなかったか? 夫が行方不明だから、事情を知っている人物を捜してほしいだって? 普通ならそういうときは、行方不明の夫を捜してほしいと頼むべきところだろう」

 言われてみれば確かにそのとおりだった。その程度のことに疑問をいだかないとは、やはり私は探偵に向いていないらしい。

「彼女がそう依頼しなかったのは、わざわざ見つける必要がないからだ。なぜなら、すでに伯爵は死亡しているから。そして事情を隠して人捜しをさせるのは、うしろ暗い目的があるからだ」

「なるほど。しかし、それならどうする? 依頼を受けるということは、復讐に協力する気なのか?」

「もちろん、彼女の企てを助けるつもりはない。すでに終わってしまった復讐劇ならばともかく、たとえそこにどんな正当性があろうと、殺人が起こるのをむざむざ見過ごしはしないさ。むろん捜査の結果、ヴァン・ヘルシング教授たちに非があると判明した場合は、英国法に則って対処することになるだろう」

 その後、私とホームズはアムステルダム大学へヴァン・ヘルシング教授宛てに電報を送ったあと、ディオゲネス・クラブへ赴いた。ホームズの兄マイクロフトを訪ねるためだ。政府の役人である彼ならば、ゴダルミング卿が主導している大規模な慈善事業について、何か知っていそうだったからだ。

 マイクロフト・ホームズは肥満体の巨漢で、七歳下の弟シャーロックとは似ても似つかない。しかしその脂肪と頭蓋骨に包まれた脳髄は、名探偵である弟を上回っている。ただし惜しいことに、彼には探偵に必要な活動力が欠如しているのだった。

「ゴダルミング卿の慈善事業は、いたって健全そのものだ。私もはじめのうちはてっきり、空き家を革命運動家や同性愛者たちの隠れ家にするつもりかと疑っていたのだが」

「だが兄さん、妙だとは思わないか? 空き家が犯罪の温床になりやすいのは確かだ。清潔で資金の潤沢な孤児院と救貧院が、ロンドンにもっと必要なのも確かだ。しかしだからと言って、ロンドンじゅうの空き家を借り上げるようというのは度が過ぎている。ゴダルミング卿は恋人を空き家に殺されでもしたのか?」

「当たらずも遠からずといったところだ、弟よ。ゴダルミング卿は四年前に婚約者を病気で亡くしている。その二ヶ月後、ひさしぶりに出席した社交界で、くだんの慈善事業を手がけると発表した。まあ因果関係がないとは言いがたいな」

「ちなみに、病死した婚約者の名は?」

「ルーシーだ。ルーシー・ウェステンラ」

 邪魔をしないようふたりの会話にひたすら耳を傾けていた私だったが、その名を聞いて割り込んだ。「ルーシーだって? それはドラキュラ伯爵の手紙にあったという女性の名と同じだ」

「さすがに偶然とは思えないな」とホームズ。「これはゴダルミング卿に直接話を聞く必要がありそうだ」

「あいにくそれは無理だ、弟よ。少なくとも今すぐには」

「なぜ?」

「彼は先月新たな女性と結婚して、現在ハネムーンで世界一周中だ」

「間が悪いシスターだ。ならロンドン在住で、ゴダルミング卿と親しい人物を知らないか? 四年前の事情に通じていそうな友人は」

「ならば、ジョン・セワード医師だな。ゴダルミング卿ともうひとりの友人の三人でルーシーを奪い合った恋敵であり、彼女の主治医でもあった男だ。パーフリートで精神病院を開業している。場所はちょうど、ゴダルミング卿の私設孤児院がある裏だ」

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