四月三日

 オリエント急行は終点のパリへ到着。そこから蒸気船に乗り換えるのはひと苦労でした。船へ乗り込もうにも、満潮か干潮でなければタラップを昇れません。wampyrは流水の上を渡れないのです。魔術で嵐を起こして出港時刻を遅らせ、どうにか事なきを得ました。

 ドーバー海峡を渡り、港からまた鉄道に乗って、いよいよ霧の都ロンドンへ。チャリング・クロス駅に降り立つと、やたらと辻馬車に声をかけられました。でも何があるかわかりませんし、路銀はできるだけ節約しておかないといけませんね。そう思って徒歩を選んだのだけれど、わたしはその決断をすぐ後悔するハメになりました。

 工場排煙がひどいと噂に聞いてはいたけれど、これはさすがに想像以上でした。まず目で見て、空気が黄色っぽくなっているのがわかるのです。もしわたしがwampyrではなかったら、まともに呼吸できたかどうか。これはアレですね。昔、錬金術の実験で失敗したとき発生した瘴気に通じるものがあります。あっという間にカラダじゅうが煤まみれになってしまいました。

 それとテムズ川は濁り切っていて、正直落ちるなら肥溜めのほうがマシでしょう。工場廃液が垂れ流しなせいか、悪臭に鼻が曲がりそう。あとで聞いた話ですけれど、ロンドン市民はこの川の水を飲んでいるらしい。信じられない!

 しかし何より最悪だったのは、地面のあちらこちらに放置された馬糞でした。これだけ辻馬車が行きかっているのですから、道が馬糞だらけになるのも無理はないでしょう。一応、掃除夫が雇われているようだけれど、とても作業が追いつかないようでした。

 わたしはうっかり馬糞を踏んづけてしまわないよう、足元に注意しながら歩いたのですけれど、それがアダになってしまいました。すれ違った馬車が車輪で馬糞を跳ね飛ばし、なんとよりにもよってわたしに命中したのです! 路銀をケチらず馬車に乗っていれば、こんな目には合わなかったでしょう。あるいは夜であったら、そもそもstregoicaのわたしに物理攻撃は通じなかったのだけれど。

 この街はpokolです。地上に顕現したpokolに違いありません。これが最先端の文明国だというのなら、きっと人類は遠からず絶滅するでしょうね。こんな場所に憧れていた伯爵の気が知れません。まあ、彼はまさしくこういう惨状が似合う外道だったのですけれど。

「――あら、まあ大変! もし、大丈夫ですか? シスター」

 わたしの姿があまりにも不憫だったからか、通りがかった妙齢の婦人が声をかけてきました。なんでも下宿を営んでいて、そこの浴室を貸してくださるそうです。わたしは一分一秒でも早く身を清めたかったので、彼女の厚意に甘えました。

「ごめんなさいね。下宿まで距離があるし、本当は馬車で行ったほうがいいけれど……さすがにその恰好では乗せてくれないから……」

「いえ、そんな。浴室を貸していただけるだけでもありがたいです」

「そういえば自己紹介がまだでしたね。私はハドソンと言います」

「イロナ・コルヴァンです」

「ところでシスター・イロナ、さっきから気になっていたのだけど、あなたが背負っているのって棺桶よね?」

「ご心配なく。遺体は入っていませんよ。からっぽですから」

「そうなの? けど中身がなくたって、けっこうな重さでしょう? すごいわ。私なんかシチュー鍋より重いものは持てないのに」

「ああ、そっちでしたか……えっと、修道院では力仕事もしないといけないので……男手もありませんし……」

 てっきり死体におびえているのかと思いましたが、見当違いだったようです。それにしても、長年wampyrの怪力に慣れてすっかり失念していたけれど、普通の乙女は棺桶など軽々と背負って運べないのでした。しかし今さらほかの運搬方法を考えるのも手間ですし、さっさと拠点を用意して設置してしまったほうがよさそうですね。

 二十分ほどハドソン夫人について歩き、下宿へとたどり着きました。扉には「221B」という刻印が――何か見覚えがあるような。あともう少しで思い出せそうな気がするのですけれど。この日記を書きながら、今も頭をひねっています。

「よかった。うちの下宿人たちはちょうど留守みたい。いえね、べつに不埒なことをするひとたちではないのだけれど、いないほうがシスターも気兼ねなく入浴できるでしょう」

 わたしがカラダを洗っているあいだに、なんとハドソン夫人はわたしの服を洗ってくれていました。恐縮するわたしに彼女は冗談めかして、「気にしないで。だってシスターに親切をすれば、きっと神も私に天国の門を開いてくださるのだし」

 こういうすばらしい女性が一人でも住んでいるなら、きっとロンドンはpokolではないのでしょう。しいて言えば、せめてあと十年早く出会いたかった。そのころのハドソン夫人は、おそらくわたし好みの乙女だったに違いありません。

 まだ洗濯した服が乾燥していないからと、彼女はお古の服をプレゼントしてくれました。「こんなボロでよろしければ、どうそ」わざわざ返しにこなくていいという気づかいです。さすがに何もお返しできないのは心苦しかったので、せめてものお礼にdoinaを唄いました。すると彼女はとてもよろこんでくれました。

 今度はケチらず辻馬車に乗り、わたしは伯爵の隠れ家のひとつであった、カーファックス屋敷へと向かいました。ひとまず仮の拠点にするためです。伯爵が敗走してから、そのままになっているはず。伯爵の関係者がふたたび潜んでいるとは、さすがに敵も盲点でしょう。とはいえ油断はできないので、あくまで一時的に利用するだけ。正式な拠点を用意できたら、即座に引き払うつもりでした。

 けれど、わたしは自分の見通しが甘かったことを思い知りました。本来なら住人が不在のまま空き家になっているはずのカーファックス屋敷が、どういうわけか孤児院になっていたのです。

「すみません。この孤児院はいつからこちらに?」

「今から三年ほど前ですよ。ありがたいことに、ゴダルミング卿の慈善事業で開業されました」

「ゴダルミング卿?」

「ええ。ゴダルミング卿アーサー・ホルムウッド様です。何でも空き家の増加は治安の悪化につながるとかで、ロンドンじゅうの空き家を借り上げて、私設の孤児院や救貧院を次々設立しているんですよ。その気高い志に、ドリンコート伯爵をはじめ、多くのかたがたが賛同されて、徐々に規模が拡大しているそうです」

 空き家を借り上げたと言うけれど、当然ながら名義はまだ伯爵のままだったはずです。屋敷のあるじがもはやこの世にないと知っていて、強引に事業を推し進めたとすると、そのホルムウッドという男は、伯爵を仕留めた一味の可能性が濃厚です。

 それからわたしは、伯爵の手紙に書いてあった残り二ヶ所の拠点を回ってみました。すると、こちらもくだんの慈善事業で孤児院と救貧院になっていました。いくら慈善事業が順調に進んでいると言っても、ロンドンの空き家すべてを借り上げるのは不可能でしょう。にもかかわらず、伯爵の隠れ家三軒とも奪われているのは偶然でしょうか。やはりホルムウッドは疑わしいと言わざるをえません。

 しかし、そこで手がかりは途切れてしまいました。ホルムウッドがどこに住んでいて、どこへ行けば会えるのか、そういったことをどうやって調べればいいのか、わたしには見当もつきませんでした。やはり素人探偵では限界があるのかもしれません。

 今夜はとりあえず、ホワイトチャペルの安宿で一夜を明かすことにしました。狭くて何だかかび臭いです。なるべく早いうちに、棺桶を安置できる安全な拠点を構築しなくてはなりませんね。

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