退鬼師の花剣

村瀬香

第0話 予言と救世主


 一九九九年七月。

 『ノストラダムスの大予言』により、人類は滅亡すると言われた月。

 しかし、現実は何事も起こらず平穏に過ぎていった。

 誰もが予言は外れたと思っていた矢先。

 日本のとある小さな町に、未知の物体が突如として現れた。

 地表から少し浮いて漂う“それ”は、一見するとただの黒い煙の塊だった。

 だが、辺りに火気はなく、火事の類で起こったものではない。さらに、煙は薄れることなく、赤ん坊が隠れるほどの大きさを維持している。

 町の中でも比較的人通り、車通りの多い場所で、異質なそれは小さいながらも圧倒的な存在感を放っていた。


「なんだこれ?」


 勇敢なのか、それとも単なる好奇心からなのか、遠巻きに眺めていた人の輪から、一人の男が煙が何かを確かめようと近づく。

 その瞬間、黒い煙の中に赤い二つの光が灯った。


「ひっ……!」


 驚きと恐怖で尻餅をついた男の前で、煙は瞬く間に広がっていく。

 中で宙に亀裂が入り、真っ暗な隙間からはさらに色濃い煙が溢れ出した。

 当然ながら、周囲にいた人々にも異変は伝わった。

 未知の現象に危機感を覚えた彼らは、一斉に煙や亀裂から離れようと下がる。人の輪が崩れ、何人かが転倒して押し潰された。

 そんな喧噪などお構いなしに、赤い光を宿した煙は宙を滑り、座り込んだままの男に触れそうなほどに近づく。


「あっ、ああ……っ!」


 恐怖に支配された体は動かせなかった。全身が震え、力がうまく入らない。

 ただただ怯えた声を上げる男を見て、赤い光はゆっくりと離れる。

 ――これは何だ?

 ――何もしてこないのか?

 ――助かるのか?

 様々な疑問が脳内を駆け巡った。

 しかし、煙が拡大するだけで何もしてこない様子を見ると、冷静さを僅かに取り戻した頭の中に、周りへの苛立ちが生まれてくる。

 ――何で俺がこんな恥ずかしい目に遭ってるんだ……!

 ――何で誰も助けてくれないんだ!

 直後、動かなかったはずの赤い光が上を向き、低い雄叫びを上げて男に襲いかかった。


「うっ……うわあぁぁ!! っが――!!」


 叫んだ男の口に赤い光と煙が飛び込む。

 流れ込む苦しさに首を押さえて倒れた男を見て、ただでさえ緊迫していた周囲は一瞬にして恐怖と混乱に包まれた。

 同時に、亀裂から溢れていた煙にも、それぞれ赤や黄、青、緑といった光が灯り、周りの人々に襲いかかった。

 煙が男の体に収まる。息苦しさから、男の意識はぼんやりとしていた。だが、全身を貫く激しい痛みに覚醒し、喉を掻きむしりながら地面をのたうち回った。

 男の体が、内側から突き上げられているかのように変形する。腕や足があらぬ方向へと曲がり、骨が砕ける音がした。やがて、額からは二本の角が突き出し、虹彩は赤く、白目は黒く変色していく。曲がっていた腕と足が元の位置に戻ったかと思いきや、筋肉が膨張して袖が破れた。

 異変が収まる頃、そこにいたのは一人の平凡な成人男性ではなく――


「お、鬼……!」


 物語の中でしか存在しないはずの怪物だった。



   □■□■□



 二〇〇一年一月。

 約二年前、世界各地に出現した「鬼」の影響により、世界人口はあっという間におよそ三分の二にまで減っていた。

 鬼のどれもが、元は空間に出来た亀裂から滲み出た黒い煙から変異したものだった。

 あるものは時間を掛けて物語で語られたような鬼へと実体化し、あるものは人に、あるものは木や岩などの自然の物質に憑依して異形の化け物と化したのだ。

 当然ながら、人間もただ鬼に翻弄されるわけではない。軍隊が持つ最新鋭の武器などを使用して対抗した。

 しかし、どの武器でも鬼には掠り傷一つ負わせることは叶わなかった。

 このまま人類は――すべての生命は滅んでしまうのかと思われた矢先、一筋の光が差し込んだ。

 鬼を前に戦車はなす術なく後退する。そして、鬼が逃げ遅れた人間に向かって、握り締めた拳を振り下ろそうとしたときだった。


「――――!!」


 鬼の出現で淀んでいた空。そこから落ちた一つの光が、鬼の腕を直撃した。

 落雷にも似た光景だったが轟音はなく、切り落とされた鬼の腕が地面を数度跳ねて転がる。切断面からは黒い煙を立ち上らせて。

 鬼は地面さえ震わせる悲鳴を上げ、自身の腕を切り落とした主を探す。今まで、鬼を傷つけられるものはいなかった。鬼としても異常事態だろう。

 それがいたのは、切り落とされた腕の側だった。


「『頭の狂った人』と後ろ指を指されていたからなぁ。そう易々と表には立つまいと思っていたが、これ以上は見ていられないな」


 軍隊と鬼の激しい攻防戦が繰り広げられる戦場に、突然、現れた一人の青年。腰には黒い鞘に収まった刀を携行しており、先ほどの一閃が刀によるものだと想像がついた。

 彼は、低い唸り声を上げる鬼に対し、少しも動じることなく刀を抜く。刀身が太陽の光を反射して眩く輝いた。


「――退鬼たいき火刃かじん


 短く唱えた直後、刀身が火を噴く。どんな武器を前にしても平然としていた鬼が、火を見るなり初めて怯んだ。

 青年には熱が伝わっていないのか、熱がる素振りも見せず炎を纏う刃で鬼を

 それまで鬼を傷つけることができなかった人類にとって、この青年の一撃は大きな反撃の狼煙に見えた。


「力なき者は下がっているといい」


 青年はゆったりと言いながら、炎を収めていく刀を鞘に戻す。

 その後ろで鬼がぐらりと巨体を揺らし、地面に倒れた。衝撃で地面が僅かに揺れる。

 斬られた箇所から黒い塵へと風化していき、やがて跡形もなく消え去った。


「鬼は、我ら『退鬼師たいきし』が相手となろう!」


 愕然と青年を見る人々を見て、彼は声高々に宣言した。

 “退鬼師”

 遙か千年以上も昔の日本に存在していた、悪霊や妖怪を祓う『陰陽師』とよく似た生業を行っていた者達のことだ。

 彼らは特殊な職業柄上、陽の当たらぬ陰で生きていたが、鬼の出現により表舞台に立たざるを得なくなってしまった。

 この退鬼師の出現により、人類の――地球上に存在するすべての生き物の鬼への反撃が始まった。




 二二一七年十月。

 退鬼師が表舞台に立つようになり、鬼への対策は次々と立てられ、さらには鬼についての解析も進んだ。

 鬼は現世とは別の世界である『“彼岸ひがん”』に棲んでおり、“彼岸”と人間達の住む世界は『境界川きょうかいせん』という不可視の川で分けられている。

 この川に近い位置に町があったからこそ、鬼は生気につられて出現していたのだ。

 そのため、退鬼師が持つ霊力で境界川のある程度の位置を把握し、川に重ならないか、もしくは川から離れた位置に町を作った。

 また、鬼を討つ退鬼師達の育成にも力を入れ、退鬼師達をまとめるための組織、『黎明れいめい』ができた。

 黎明は日本の各町に支部を置き、本部は今や日本の主要都市の一つであり、鬼が最初に現れた地である『あかつき』にあった。


 暁は、鬼の出現により、荒れ果てた平野にぽつりと形成された町だ。中心に行くにつれて土地が高くなっているため、小高い丘に作られているようにも見える。

 黎明本部は、町全体を見渡せるよう、町の中心に建てられていた。

 初の鬼の出現以降、境界川は細くなっているとの見解だが、決してなくなってはいない。

 それでもこの町に本部を置いたのは、鬼の脅威を忘れないため。黎明本部があることにより、鬼がいつ出現しても対抗するという意志を込めてだった。




 夕暮れ時。穏やかな時間が流れる暁の町だったが、突如としてそれは崩された。

 町全体に響き渡るほどの大きな破砕音と危険を知らせる電子的なサイレン。そして、音の発生源である西の端から上がった灰色の煙。

 町に住む誰もが、鬼が出たのだと気づいた。

 それは、偶然にも隣の区画にいた一人の退鬼師も例に漏れず。


《暁西、二十一にて鬼の発生を確認。至急、現場に向かってください》

「了解」


 左耳に着けたインカムに、本部からの指示が飛んでくる。

 まだ十代半ばに見える黒いショートヘアーの少年は、中性的な顔立ちのせいで少女にも間違えられそうだ。顎のラインまで伸びた長い前髪は、センターで左右に分けている。

 首もとで銀色の金具で留めた黒いケープを翻しながら、少年は現場へと急いだ。左の胸元に金糸で施された紋章は、小さく幾重にも花弁が重なった桃の花を象っている。外套の下には黒と白を基調とした軍服に似た意匠の制服を着ており、腰には少年の身長の半分を超える野太刀がその存在感を主張していた。


「数と五蓋ごがいは?」

《現在、二体の出現が確認されています。五蓋は「赤」です》

「そう」


 鬼は「五蓋」と呼ぶ種類によって五つに分けられる。オペレーターから伝えられた五蓋は、よく出没するものだ。

 返事をすると同時に零れた溜め息に、何かを言おうとしていたオペレーターに緊張が走った。


「何? まだ何かあるなら早く言って。面倒だから」

《す、すみません。……鬼が襲撃したのは、現場にあった児童養護施設とのことです。もし、負傷者がいれば――》

「あー、はいはい。治療班を呼べ、でしょ? 分かってる。じゃ」

《待て》

「げ」


 現場に急ごうとした少年だったが、次に聞こえてきた声に嫌悪感を露わにした。

 やや低めながらも凛とした女性の声。それが誰のものかは、いちいち聞かなくても分かった。


《治療班と共に、念のため退鬼師も一人送っておく。くれぐれも無茶はするな》

「……了解」


 怪我人の治療は少年一人では追いつかない上、道具もない。そのため、治療班が送られるのはいいのだが、一緒に来るという退鬼師に嫌な予感しかしなかった。

 通信を切った後、少年は深い溜め息を吐いた。


「はぁ……。俺、これでも一応、『最強』の退鬼師なんだけどなぁ。めんどくさ」


 野太刀の柄を握った後、少年は僅かに体を屈めると、膝を伸ばす反動で地を蹴って跳躍。

 近くの民家の屋根に上がると、屋根を伝って現場へと向かった。




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