「坂下総合病院」
その病院は廃病院でありながらも落書きの類は見つからず、
内部を荒らされた形跡もほとんど内容だった。
「気をつけてくれ、今は沈静化している状態だが、
またいずれ空間が動いて地盤沈下が起こらないとも限らない。
足元をよく見て、なるべく固まって動くように。」
曽根崎は15年前の土地勘を頼りに、
危険箇所を避けて歩いていく。
この場所は地盤沈下の中心地ということもあり、
なんらかの刺激で空間に穴が開くとも限らないと曽根崎は言った。
スミ子は安全靴で歩きながら、
ガラスのすべて割れた院内の玄関を見渡す。
「最盛期には250人以上が入院できる医療機関だったんだが、
老人病棟の落下とともに医者、患者はともに街へと避難した。
残されたのは、被害に遭い行方不明になった老人たちだけだ。」
壁にかろうじて残っていた地図を見ると、
院内はかなりの広さらしく、
全体的にかなり複雑な作りとなっていることがわかる。
長い廊下を進み、中央棟までたどり着くと、
北と東に伸びた病棟から、
かろうじて読める「←老人病棟」の文字の通り、
曽根崎を先頭に一行は北へと進む。
その廊下の突き当たりでスミ子たちは足を止めた。
…それは、物理的な行き止まり。
向こうにあるはずの廊下。
そこから先が無くなっていた。
スミ子たちの顔に風が当たる。
あるのは巨大な陥没した穴。
すり鉢状になった巨大な穴。
割れたコンクリートの間から緑の草が茂り、
どこか人工的に作られたいびつなモニュメントを思わせる。
かろうじて草のあいだから見えるのは、
元あった建物の屋根と病棟の一部と思しき
コンクリートの残骸だけ。
…老人病棟の陥没。
それが、どれほどの規模のものだったのか、
スミ子は実感せざるおえなかった。
「この下にいた老人の大部分は空間で見つかった。
他にも何人かいるかもしれないが、
未だこの地面の下にいるのかどうかは私にもわからない。」
曽根崎は巨大な陥没跡を見つめながら、
そう言った。
その時、スミ子の背後で物音がした。
パタン
とっさにスミ子は後ろを見る。
「え。なんか、音しなかった。」
ユウキも聞こえていたのか、
あたりをキョロキョロと見渡す。
だが、音のした廊下には誰もいない。
…そうだ、この病院に人はいないはず。
ユウキもスミ子も曽根崎も、
この廊下の先から誰も一歩も動いていない。
なのに聞こえた音。
ドアを閉めるような音。
「あ、ユウキくん。」
曽根崎はとっさにユウキを止めようとする。
しかし、ユウキはスタスタと廊下を歩き、
一枚のドア、上に「院長室」と表記された扉の前まで行くと、
閉じたままの扉のドアノブを握りしめた。
ドアはケヤキでできており、
重厚な面持ちはいかにも高級品という感じがした。
ただ、スミ子はドアの前に行くと
奇妙なことに気がついた。
ドアに、歪みが一切ない。
建物の中は所どころ地盤沈下によるものか、
ドアや窓枠のほとんどに歪みが見られたが、
ここにはそれがない。
まるで、そのドアだけが地盤沈下の影響を受けておらず、
この場所から切り離されているようにも見える。
「…鍵がかかっている。なあ、スミ子さん。
手に入れた鍵でここ開かない?」
気づけば、ユウキがスミ子の方を向いて、
ドアの鍵穴を指差していた。
その形を見て、スミ子は慌ててポケットを探る。
…そうだ、マザー・ヴンダーからもらった鍵。
穴に差し込んで見れば、
鍵は鍵穴にピタリとはまった。
「お、ここの鍵だったのか。」
曽根崎はどこか嬉しそうに声を出す。
そうして鍵はカチャリと回り、
ノブを回せばドアは音を立て内側へと開いていく。
「…へえ、思ったより綺麗だな。
マジでここも廃墟の一部なのか?」
ユウキがそう言ってしまうのも無理はない。
それほどまでに、
そこは整理整頓された書斎だった。
窓には白いカーテンが引かれ、
本棚には大量の医学書や英語の本が並んでいる。
輸入物であろうマホガニーの机の上には、
アンティークのランプと整頓されたバインダーが並び、
毛氈の絨毯は安全靴で入るのがためらわれるほど
綺麗に掃除が行き届いていた。
「…だが、ここが天城院長の部屋であることは、
間違いないようだね。」
そう言うと、曽根崎は左右にソファが置かれた壁を
懐中電灯で照らし出す。
…そこには、スミ子の持つ鍵の文様を
何十倍にも拡大した『牛』の姿があった。
「これと、一緒ですね。」
スミ子はそう言いつつ、
牛の文様が入った鍵についた
プレートを持ち上げようとする。
チュンッ
その時、何かがスミ子と鍵のあいだをかすめていった。
金属製の輪が外れ二枚のプレートが
赤いカーペットの上へと落ちた。
毛足の長い絨毯の上に落ちるプレート。
だが、次の瞬間、
スミ子の耳に乾いた金属音が
聞こえたような気がした。
「本棚だ、本棚の裏に誰かいる!」
曽根崎が叫び、
スミ子はとっさに本棚の方を向く。
その瞬間、スミ子の頬を
再び何かがかすめていった。
それは一発の弾丸。
硝煙の残る銃口から発射された弾丸。
「…やっぱり上手く当たらないなあ。
アメリカにいた頃より銃の腕は鈍ったかな?」
銃を持つ男性は白いひげを口元に蓄え、
唇を舌で舐めながら本棚の裏から出てくる。
「子ネズミ三匹が儂の部屋に何の用だ?
ここを院長室と知っての狼藉か。」
時代がかった口調でそう言うと、
老齢の男性はスミ子たちに銃口を向けた。
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