プラスティック メンター
魚倉 温
放射線状に広がる記憶
日付はいらない。私の名前もいらない。この手記は私のためだけにあり、読者もまた、恐らくは私だけだろう。
もし後世に人間という種が蘇り、この手記が読まれるようなことがあったとしたって、その頃に私はもういないし、私が誰であったのか、何をし、何を思い、何を求めたのだかということはきっと伝わってなどいない。ストレージはもう飽和状態。きっとあと数年を数十人の人間が生きたそれだけで、私の人生などはきっと他人に上書きされる。
とすると、この手記の筆者たる私を見つけられる人間はきっとおらず、もし私がここに手がかりのひとつも残そうものなら私は、「私の人生」を伴わないこの「手記の筆者」としての概念だけが残るのだろう。そう考えると、やはり恐ろしい。
今、空が見えている。それは数年前に見た空とまったく同じに思える。
この空というものの微細な表情の変化を読み取れる人間は、今やひとりもいない。
今、私の隣には大気がある。窒素、酸素、二酸化炭素。汚染される前の環境に近づけるべく稼働するエアーコンディショナーの排出する人工物。この大気にも、エアーコンディショナーにも、シナプスひとつありはしない。
思考し、電気信号で筋肉を動かし、喉の奥から大気を震わせる愛しい肉の器も、もうここにはいない。
特別だった彼がこの世界を後にしたのは、もうずいぶん前のことだ。
彼は、社会的には何ら特別なところのない、平凡な人生を送った労働者だった。労働者の家庭に生まれ、労働者として生きた。彼が特別だったのは、あくまでも私にとっては、という、きわめて限定的な条件下においてのことだった。
学生時分。私は研究者として第四学位への進学が決まっていた。彼は労働者として、第三学位を修了後は彼の両親と同じシェルターで畜産に携わることになっていた。研究者と労働者は、将来的に相互扶助の立場になることを理解するため、学科をちょうど二分するように配置される。私と彼は、近づく別れを惜しんだり、将来の夢を語りあったりで見事に混ざり合った部屋の中から逃げだして、植物園に駆け込んだ。そこにいてはまるで自分たちも混ざり、違和感のひとつもなく溶け込むように呑み込まれてしまいそうだ、と、彼が言ったのだ。
「ここには、プランターがあるだろ」
「整形セラミックだ」
「そういう話じゃない。いいか、ぼくが良いって言うまでは何も言わないでくれ。こんなことを頼むのはきっと今日だけだから」
そんなやりとりを、した。彼はそれまで私の話すのを遮ることはなかったし、きっと今日だけだ、と言ったことばの通りにそれからもずっと、私が話しだすと決まって笑って、私の言動があちらこちらへ寄り道をしながら走り続けるのを眺めていた。彼は非常な夢想家で、私のことばが「どうしてそう紡がれたのか」ということに考えを巡らせるのが好きだったのだと、それを聞いたのは、彼と過ごした最後の日の、三日前のことだった。
こと彼との会話、すごした日々に関しては、私の記録に誤りはない。
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