10 導く手

 青年に瓏草カァジを嗜む習慣はなかったが、このときばかりはそれがあったら楽ではないかと思った。〈タニアの鏡〉亭の卓から去った友の話を反復するには、ため息の変わりに煙を吐き出しながらでもしないと、やっていられない。

 聞かされた話はあまりにも突飛で、信じ難かった。

 いや、突飛だというのならば彼がこの一年弱の月日に経験した出来事の方がよほど突飛だ。そして、実直そうな友が数月の間に雄弁な詐欺師になったとも思えない。だいたい、そんな話で彼を騙して何になると言うのだ?

 ランド青年が追いかけ、スラッセンで追いついた女の名はクラーナだという。

 ミロンの集落で彼にランドの無事を告げた吟遊詩人――彼の道標と同じ名であることがただの偶然なら、彼は二度と砂漠に戻れなくたっていい。それくらい、有り得ないことだ。

 彼の知るクラーナも、スラッセンを訪れたことは否定しなかった。

 偶然であるはずがない。

 だがそれが何を意味するのか。

 魔術と関わりなく健全に生きてきた青年は、まさかそれがであるとは思わない。そんな考えがふと脳裏をかすめても、一蹴するだけだ。

 クラーナが「人ではない」ということ。

 リ・ガンが「人ではない」ということ。

 それらが彼の内で繋がるには、彼は「人」でありすぎた。

 そして、ランドが語ったもうひとつの話。

 戦士がシーヴに報酬として手渡すと約束した翡翠ヴィエルのことである。

 友人はそれを失ったと言い、彼に詫びた。もちろんシーヴはランドから報酬など受け取る気はなかったが、それを失ったという経緯がまた、奇妙だった。

 ランドは、〈魔術都市〉が魔法の翡翠を探しているという例の噂を聞いていた。ランド自身はそれが魔法の翡翠などではないと考えていたが、どうやら関わりがあるかもしれないという話になって――ある男に託したのだと、言う。

 その辺りのことをランドはあまり詳しく話さなかった。

 だが、シーヴが気になるのはひとつの名である。

(レン)

 またも〈魔術都市〉だ。

 彼が直接にその気配を感じたのは、あの夜の「風」だけ――いまやあれが、かの都市の仕業であることは疑っていない――だったが、それだけで十二分だった。

 彼を「見」、あのときは逃れたエイラをもいまは「見た」というレンが、どんな「魔法の翡翠」を探しているのか判らない。エイラの言う、ふたつの翡翠以外にも彼らが求めるものがあるのかどうかなど、青年にどうして判ろうか。

 そしてふと思った。

 「ランド」と「ランドヴァルン」というのもふたつの名なのだろうか?――翡翠に関わりがあると、言う。

 シーヴは首を振った。

 浮かぶのは、ややこしいな、とでもいう感想ばかりだ。

 厄介だとか怖ろしいとか、そう言う方向には考えは働かなかったが、たくさんの糸が絡まり合っているという印象がある。

 進まないアスト酒の杯をいたずらにもてあそびながら、シーヴはその糸をほぐそうとし、だが解き目をつかめずに余計にこじらせては、ため息をついた。

 はっと顔を上げると、〈タニアの鏡〉亭の扉が開く。どうしてここが判ったのかなどとは訊く必要もないだろう。リ・ガンには〈鍵〉の居所くらい判るのだ。

「シーヴ、支度を」

 開口一番、エイラはそう言った。

「支度だって?」

 青年は繰り返す。これは、街を出よう、という意味以外には取れなかったが、彼らは今日ここに着いたばかりである。今夜は寝台で眠ることに、彼女も異議を唱えなかったではないか。

「何があった。レンか」

「いや」

 エイラは首を振った。

「日暮れに南門へくるよう、言われたんだ」

「誰に」

 当然の疑問。エイラは息を吐く。

「あんたの、道標だそうだよ。――クラーナがこの街にいるんだ」

「……そりゃ、また」

 シーヴは皮肉げに笑った。

「予測してしかるべきだったな」

 ランドは彼の「クラーナ」を見つけたと言い、青年を動揺させた。ひとつ目の道標としてランドと彼の翡翠が示され、その次にクラーナが現れるのは、前回の流れと同じだ。

「あいつが現れたのか。何と言った」

「その……」

 彼もまたリ・ガンなのだ──だったのだ、と言うことは躊躇われた。それをシーヴに告げるべきならば、クラーナ自身が告げているはずなのだ。

「少し、話をした。私が感じ取っている翡翠はふたつの『不動玉』で、『動玉』というものもあるんだって」

「何だ、それは?」

 シーヴは胡乱そうな目つきをした。

「翡翠が動くのか?」

「あまり訊けなかった。制約があって答えられないと」

「それは俺も、聞いたな」

 人ならぬ力を持つ代わりに、制限も抱えるのだと言った吟遊詩人。彼が人外であるというような印象は、本当を言えばシーヴには何もなかった。少し不思議な力を持つような、との感覚はあったが、それを言うならエイラも同じで──。

(人ではない)

 彼はふと、彼の〈翡翠の娘〉を見た。

(エイラにも、そんな印象を抱くことはないが)

 かの女王陛下がそんな言葉で〈鍵〉を脅かして──別に怖れてはいないが──も仕方がないだろう。ならば、それは真実なのだ。人の子ではなく、翡翠の子。

「ただ、日暮れに南門までこいって。もしあんたが嫌がったら、道標を信じろと言えってさ」

「ふん」

 砂漠の民ミロンの長の言葉をシーヴは忘れていないし、クラーナが彼を翡翠の宮殿と、それからエイラに導いたことは確かだ。

「あいつがいまさら俺を……俺たちを騙すつもりだとは思わないが、何のつもりだろうとは、思うな」

「罪を償うとか、言ってた」

 そう言ったクラーナの目はずいぶんとつらそうに──見えた。

「罪を」

 どこかで聞いたことがある、とシーヴは思った。

 〈南の仔馬〉座──罪を犯し、地平線下で休むことを許されぬ星座の話をしたときに、同じ印象を抱いたことも思い出した。そう言ったのはクラーナだったろうかと思い、違うと思い直した。

(──そうだ)

(それは……だ)

 ランドの追った女と、彼の道標だと言った男が重なる。吟遊詩人クラーナ。〈テアル〉。それもまた、ふたつの名ではないか?

 まさか、と思う。

 しかしそう考えた方が自然だった。

 ふたりのクラーナは、同じ人物である、と。

 だがシーヴに考えつくのは、あのクラーナが「魔術のような力」で自身の外見を女に見せたのだろうかというくらいのことだった。

 しかし、そうしてランドを「彼女」に惚れさせたのだとしたらそれはずいぶん悪趣味で、あの吟遊詩人フィエテがやりそうなこととは思えず、シーヴの疑問は中途半端なままでぶら下がることになる。


 門へこい、と言うからにはクラーナが示唆するのは旅立ちなのであろう。

 彼らは急いで支度を整え、先払いした宿賃を交渉して少しばかり返させ――通常ならば、どんな事情であれラルが戻ってくることはまず有り得なかったが、シーヴと「エイル」の連携はなかなか高威力を発揮した――軽くひと休みすれば、もう日も翳るところだ。

 冬祭りフィロンドが終わり、日は少しずつ長くなっていくとは言え、ビナレスはまだ冬である。どちらかと言えば北方のアイメアであっても、日は短い。

「南門と言ったんだな?」

 シーヴは周囲をぐるりと見回す。エイラはうなずいた。

「日暮れに、この時計塔のところまでこいって」

「ふん」

 空は次第に赤くなってくる。しかし吟遊詩人の姿は見えなかった。

「何をする気だか知らないけど、準備に時間がかかるとか言ってた」

 エイラもまたきょろきょろと周辺を見るが、覚えのある姿が目に入ることはない。

「待つ、か」

 青年は自身のケルクの手綱を握りながら、壁の向こうに沈んでいく太陽リィキアを眺めた。

 こうして夕陽を眺めるのは久しぶりのような気がする。

 あれは――いつだったか。

 そうだ、〈砂漠の塔〉の最上階から夕暮れ時の風と熱を感じた。

 魔術に慣れぬ青年に大きな労力を強いた、〈塔〉からあの移動を思い出すと、もうひとつの「移動」も思い出した。

(スラッセンからあの塔付近までの移動には……あんな負担は覚えなかったな)

 「その子供クア=ニルド」。

 かの存在がシーヴ青年に課したのは〈塔〉のそれとは全く異なっていた。どちらが、「魔力」と呼ばれるものに近いのかなど彼には知識がないが、彼が経験した〈翡翠〉に関する力はどれも真白い世界の訪れによって表わされ、その術によって体力が消費されるようなことはなかったように思う。

(ならば、あの「子供」もまた、翡翠に――関わりが?)

 そんな思いをふと浮かべたシーヴの目の前に、突然現れた姿があった。

 青年は白昼夢でも見たかというように目をしばたかせ、「それ」が幻のように消えないことに気づくと却って仰天をした。

 まるで、彼が思い出したことでその思い出が目前に蘇ったかのようではないか?

!」

「やあ、久しぶりだね、シーヴ。それに……はじめまして、エイラ」

 十歳にも満たない子供、どうということのない「男の子」にしか見えない存在は、年齢に不似合いの落ち着いた微笑を浮かべてそう言った。

「誰だ?」

 エイラが首をひねる。シーヴは、あとで説明するとばかりにエイラに向かって片手をあげると、じっと子供を見た。

「スラッセンに閉じこもってるんじゃないかと……思ったが」

「そんな、嘘ばっかり。君は、僕があの街に属していないことを気づいたと思ったけれど」

 子供は肩をすくめるとそう答え、まるで「子供を安心させるように」彼らに笑いかける。

「準備はできたの?……ああ、ケルクは連れて行けないよ。ここに残していくといい。また、君の手元に戻るようにしてあげるから心配はしないで」

「何だって?」

「クラーナは」

 シーヴが聞き返し、エイラが問うた。子供はまた、肩をすくめる。

「誰が道標だとしたって、結果は同じだよ、エイラ。君たちを導く手が吟遊詩人フィエテのものであろうと子供ニルドのものであろうと」

 エイラはじっとクア=ニルドの瞳を見つめた。

「……判った」

 エイラの返答にシーヴは片眉をあげる。

「信じるのか」

「こいつが何者だか知らないけど、これを企んだのはクラーナに間違いないだろう。私は彼を信頼することにしたんだ」

「そう言えば……こいつも俺の〈道標〉だと言っていたな」

 シーヴは思い返した。〈テアル〉――クラーナが彼の道標ではないのか、とスラッセンでこの子供に尋ねたとき、彼は言ったのだ。道標はたくさんの姿を持つ、と。

「また、砂漠に飛ばしてくれようってんじゃないだろうな?」

 シーヴはじろりと子供を見る。子供は苦笑した。

「似たようなものさ。行き先は、砂漠じゃないけれどね。本当は――力を貸すのはあのとき一度と思ったけれど、こうなっては仕方がない。あのときはシーヴに、今日はエイラに協力するのだと言うことにしておこうか」

「おい……よせ」

 シーヴははっとなって――クア=ニルドをとどめようとした。

 だが子供はすうっとその細い手を持ち上げると南門の向こうを指差す。

 話を聞かせろ、と言ったところで、満足のいく回答があるとは思えない。

 しかし、それでもやはり、こうして一方的に進路を決められることは面白くなかった。

「俺たちは」

 シーヴは口を開いた。

(お前の――それとも、あの「女王陛下」の駒じゃないんだぞ!)

 声は出せなかった。世界は瞬時に、白く包まれたのだ。シーヴは内心で舌打ちし、だがそんな叫びは無意味であることは判っていた。

 

 エイラもまた、突然放り投げられた白い空間に警戒をしたが――そんな警戒こそ無意味であると、すぐに知った。

 この力は、エイラに近しい。

 いや、だ。

(まさか)

 すっと血の気が引く思いだった。

(まさかこの子供は……!?)

 エイルとエイラどころではない、それほど自在な姿変えを可能とするのか、リ・ガンは?

 魔術の幻影とは違う。こんなことができるとすれば、それは確かに――人ではない。

(大丈夫)

 子供のものではない、声がした。吟遊詩人の言葉だろうか。

(心配しなくていい。これもまた、君の定めとは異なるのだから)

 それに問い返すことはできなかった。声を出すことなどできなかったのだが、出せたところで問わなかっただろう。

 それは、答えなど得られないと、シーヴと同じように考えたからだったろうか。それとも、答えなどは知っていたからだろうか?

 そう、彼女の定めは誰とも似ていない。

 それは、彼女だけのものだ。

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