07 他言無用

 どうしたものか、と彼は考えた。

 この状態で城内を行けば、何ごとかと問われることは避けられない。真実を語ることはできぬのだし、かと言って巧い理由を見つけることもできなかった。

 宮廷医師のランスハルに頼めば、彼は事情も問わず、誰にも言わないことを約束し、手当てを施してくれるだろう。だがここから医務室へ行く間に誰にも会わずに済むとも思えない。

 そう思って、ふと気づいた。

 いくらここが人通りの少ない廊下であっても、いまは誰しもが忙しく立ち働く昼日中だ。この会合の間に誰も通らなかったというのは――奇妙ではないか?

 だがすぐに、奇妙でも何でもないと考え直した。〈魔術都市〉の王子が人に見られたくないと思えば、それくらいのことはやってのけるのだろう。

 自身の知らぬ魔術についてあれこれ思い悩んでも仕方のないことだった。それよりも問題なのはこの格好である。血を拭おうと顔に手をやれば、袖口が簡単に赤く染まった。見れば、肩口や膝頭にも赤いものが落ちている。

 傷の痛みなどはどうとでも耐えられるが、この状態で城内の人間と出会えば騒ぎになることは考えてみるまでもない。まずは顔を洗って血を落とすが先決か――と思って角を曲がったファドックは――そこで悲鳴と出会う。

「ファ……ファドック様っ!? どど、ど、どうされたんですかっ」

「レイジュか」

 侍女の叫びに、ファドックは思わず笑った。そうすると切れた唇が痛んだが――ここで出会ったのがレイジュであるというのは、先程まで全くなかった運が彼に味方し出した、ということかもしれなかった。

 アスレンの訪問自体は運不運の問題ではないかもしれない。リティアエラはレンの怒りがアーレイドには向かないだろうと考え、ファドックもそれに同意したが――アーレイドにでもシュアラにでもなく、ファドックに対して反応をしてくるとは驚いた。これに関しては運がないとはファドックは思わず、むしろリティアエラに向かわなかったのなら彼女のために安心だ、と考えた。

 アスレンが「守り手」という言葉を使ったことを思い出す。

 リティアエラは彼を〈守護者〉であると言い、その真の意味――意味の芯にあること――はいまでも掴みかねていたが、とにかく彼はそう言うもので、アスレンが求めているのはそれなのだろう。

 不運だと思ったのは、彼のなしたことが何故だかレンの第一王子を楽しませ、より彼に興味を持たせたということだ。

 〈守護者〉とやらでなければ、かの王子の興を買うようなことにはならなかったのだろうが――などとファドックはそんなふうに思っていた。イージェンあたりが前後の事情を知ったら、ファドック様は自身を過小評価しすぎです、と天を仰ぐに違いない。

「あのっ、怪我っ、そうだ私、手当てします!」

「待て、レイジュ」

 そのまま医療箱でも取りに行こうとしたのだろうか、走り去りかけるレイジュをファドックは引き止める。

「何でもない、気にするな。大したことはない」

「なっ、何でもなくなんかないですよっ。いったい、何があったん」

「レイジュ」

 諭すように声を出したファドックは、レイジュの喚声を留めることに成功する。

「そんなに、酷く見えるか」

 レイジュはこくこくとうなずいた。傷自体は浅いと感じていたが、頭部の傷は目立つ上に血も多く出やすい。見た目にはかなり派手なことになっているのだとファドックは思い至った。もとより、少量であろうと出血しているだけで十二分に目立つとも言える。

「あの、ファドック様……?」

 レイジュは心配そうに――事実、心臓が止まるほどに心配だろう――声を出す。

「……時間はあるか、レイジュ」

「はいっ」

 侍女は即答した。たとえシュアラに何か緊急の用を命じられていたとしても、ファドックにこんなことを問われたら同じように答えるに違いないのだが、レイジュにもファドックにも幸いなことに、ほかに急ぎの用は実際になかった。

 ファドックはすぐ近くの小さな用具置き部屋に侍女を連れると――もちろん状況でないとは判っていたが、レイジュの心臓は大きく音を立てた――医療箱と、二、三、用立ててほしいものを彼女に伝えた。レイジュはそれを不審に思ったとしても何も言わず、真剣な顔で、すぐに持ってきますと答えると部屋をあとにし、事実、どうやって揃えたのだろうと訝しむほどの早さで戻ってきた。

 濡らした布でそっとその傷口に触れようとすると、ファドックは礼を言って彼女の手からそれを取り、自身で血を拭った。レイジュは一瞬残念に思ったが、自分では手が震えてしまってファドックに痛い思いをさせるだけではないか、と考え直した。

 ファドックは傷の具合を確かめながら手早く必要な処置をし、レイジュはじっとその手つきを――惚れ惚れと――見守ることとなる。

「こんなところか」

 医療箱についている小さな鏡で治療のできばえを確認しながら、ファドックは呟いた。他者の治療ならばともかく、自分で自分の傷――それも鏡を使わねば見られぬところの処置をするのは難しいものだ。

 こうして鏡をのぞけば、思っていた以上に傷は目立つ。彼は、数日間の登城を控えることも考えた。転んだ、などと言っても納得されそうにない怪我の仕方であるし、酒場の喧嘩に巻き込まれた、などと言ってもいいが、それに伴う細かい状況まで作り上げてしゃあしゃあと語るなど、どこぞの第三王子でもあればともかく、この護衛騎士の性分にはないことだった。

 不自然な沈黙をするよりは、数日ばかり酷い風邪を引いた方がよいかもしれない。そんなことを考えながらファドックは次の行動に移った。

「女性の前で、失礼だが」

 苦笑して言いながら、ファドックは制服の留め具を外しはじめた。レイジュが持ってきたのは替えの衣服であったから、当然ファドックがそうすることは判っていたものの、実際にそうされればまたも彼女の心臓は跳ね上がる。、とレイジュは恋の女神ピルア・ルーに感謝の祈りを捧げ――しかし喜んでいてはいけない状況なのだろうと思い返して、それは見せないようにした。

 血で汚れた騎士の制服を脱ぎ――侍女は、見ていませんというふりをしながら垣間見ていた――レイジュが持ってきた木綿の簡素な服を着用したファドックは、整えていた髪――アスレンの行為のせいでいささか乱れてはいたが――に手を入れると大きくばらつかせる。唇の傷はどうしようもないが、額の方は少し隠せた。

「どうだ。この格好でも兵士や――に見えるか」

 ファドック・ソレスに見えるか、と言うのだろう。

「あの、それでしたら、これなんかどうです」

 レイジュは、ふと思いついて持ってきた男物の眼鏡をファドックに差し出す。不思議そうに、ファドックの眉が少し上がった。

「ターレンがときどき眼鏡をかけてるの、ご存知でしょう。あれ、伊達なんですよ。あの人なりのお洒落なんです。かけてないときは洗面所に置いてあるのを知っていたから……」

 黙って借りてきました、とレイジュ。ファドックは薄く笑った。普段のように笑うには、傷口が張る。

「気が利くな」

 そんなことを言われたレイジュは、頭がくらくらしそうになるのを覚える。彼女はこんなことは何でもないとばかりに首を振った。

 ファドックは、その使用人の眼鏡を借り受けると慣れない様子でかけた。印象は、だいぶ変わる。

「これならどうだ、レイジュ? 私だと判りそうか?」

「あの」

 レイジュは声を出した。

「私は、ファドック様がどんなお姿をしていても判りますけど、その、ぱっと見には判らないと思います。あっ、でも侍女のなかには同じように気づく娘がいるかもっ」

 ファドック様は人気がありますから、などと言うと護衛騎士はまた苦笑した。

「制服はお任せ下さいね。ちゃんと、私が、きれいにしてお届けします」

 レイジュは「私が」を強調した。

「助かった、レイジュ。礼を言う」

 ファドックは外した手袋をレイジュに渡すとそう言った。侍女はまた、ふるふると首を振る。

「このことは他言無用で頼む」

「もっ、もちろんです!」

 レイジュは力強く言った。こんなこと、もったいなくて誰にも言えやしない、と心で叫ぶ。言われなくても黙っているし、できる女は、ここで説明されない事情についてぐだぐだと尋ねてもいけないのだ。ファドックに、レイジュは頼れる――とまではいかなくとも、使える、という印象でも与えられれば万々歳である。何があったのかはもちろん知りたいが、ぐっと堪えた。

 と言うのも、これでもやっぱりレイジュはシュアラの侍女であるから――シュアラの護衛騎士である彼がこうして口をつぐむのなら、それは何かしらシュアラに関することである、との推測もできていた。

 もしかしたらアーレイドにも関わる、重要事があったのだ。となれば、一介の侍女が口を挟める問題ではない。

「あっ……ファドック様!」

 部屋を出ようとするファドックをレイジュは慌ててとめた。

「この時間帯だと、西棟の方は人が多いです。東棟の方にある裏門の兵士は、その、内緒ですけど、いま頃はよく勝手に休憩をしてます」

 ファドックは振り向くと、ふっと笑ってレイジュの肩にぽん、と手を乗せることで謝意を表し、今度こそ、扉を開けて出ていった。

 一方でレイジュは今度こそ――その場に倒れ込むかと、思ったものである。

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