02 影響

 ぞくり、と悪寒が走った。

 寒気がする。

 頭はがんがんと鳴るし、視界は回りっぱなしで目を開けていられない。

 まるで本当に酷い風邪でも引いたフォイルに憑かれたかのようだ。

 ファドックは侍女を呼び、エイラのドレスを緩めさせた。親しい侍女ではなかったが、見覚えのある顔だ。しかし、気づかれるかどうかなどということはいまはどうでもよかった。

(気持ちが悪い)

 幼い頃に高熱を出してうなされたときでも、ここまで酷くなかった。エイル少年は見かけによらず頑丈なところがあり、どんなに疲れたときでもひと晩眠れば回復したし、気分が悪くて立っていられないとことなどはこれまでの人生で一度もなかった。

 だがいまは、とても自分の足で立つことはできない。

 翡翠を「呼び起こす」という行為は、これほどリ・ガンの体力を消耗するものか?

 いや――違う。

 正しい方法で翡翠を正しく目覚めさせることは、むしろリ・ガンに快復をもたらす。そのはずだ。

 ならば、彼女の安定感をごっそりと奪ったのは、あの闇。

 見ていた。何の感情も差し挟まないままで、ただ、見ていた。

 そして、いまはもう気づいたのではないだろうか。彼女がリ・ガンであること。彼女がその務めを果たすことは――その存在の本意ではないこと。

「ラクア、どうだ」

 扉が開く音がして、目を閉じたままでもファドックが戻ってきたのが判った。もちろん、音がしなくても判ったことだろう。

「まだ……震えておいでです。ファドック様、ランスハル様を呼んで参りましょうか」

 ラクアと呼ばれた侍女は、城内に常駐する医師の名を護衛騎士コーレスに告げた。

「……いや」

 ファドックは少し間をおいてからその提案を退け、ラクアに礼を言うと仕事に戻るよう指示した。侍女が出ていく気配がする。

「いまの貴女に、医師が助けになるとは思えぬ」

 ファドックの気配が近くなった。少し、楽になる。

「大丈夫、です。少し休めば……多分」

「……リャカラーダ殿下カナン・リャカラーダをお呼びした方が、よいか」

 それが、リティアエラの連れである男を呼んできた方がよいか、という問いなのか、リ・ガンには〈鍵〉の助けが要るのではないか、という問いなのかは判らなかった。エイラが薄目を開けると、傍らにひざまずくようにしていたファドックがすっと立つのが見える。

「ファ……ソレス様」

 おそらくは自身の言葉を実行しにいこうとしたであろう護衛騎士をエイラはどうにか呼び止める。

「待ってください。お願いです。あなたに傍にいてほしいんです」

 言って、その言葉の持つ違う意味にも思い当たる。

「あの、そうじゃなくて……ええと、あなたの存在が――守り手の力が助けになります。離れられるとまた、世界が回るんです」

 そう言ってエイラは、目を開けていられる自分に気づいた。

「ずっと、楽だ」

 倒れ込むように寄りかかっていた椅子から身を起こし、肩までかけられていた掛布をひざかけにする。と、ファドックが少し困った顔をした。エイラは内心で首をかしげ、はたとその理由に気づくと掛布を引き上げる。

 後ろの飾り紐をゆるめられた薄茶のドレスの胸元は大きく開いている。エイラの身体は女性らしいふくよかさはあまりなかったが、それでも見た目が女性であることに変わりはない。このような姿の女と男が一室でふたりきり――しかも女は賓客である王子の連れ――というのは、どうにもよろしくない状況だ。

「あ、あの、すみません。お仕事が、あるのに」

 慌てて胸元を直しながらエイラは言った。

「いや」

 ファドックは首を振った。

「貴女を守ることが翡翠を守り、アーレイドを守り、姫を守ることになる。ならばこうしていることは立派に私の務めだ」

「……翡翠ヴィエルは」

 エイラは思い出すように言った。

「目覚めました。レンもすぐに気づくと思います。私は行かなくちゃならない」

 翡翠の傍にリ・ガンがいると判れば、彼らは何かしら企むだろう。捕らえたいのか、消したいのか、どちらにしてもリ・ガンを狙うだろう。だが、どちらもされる訳にはいかないのだ。

「行くと。――何処へ」

「別の翡翠の、呼び声に応じて」

 全てを終えて、そのときにアーレイドに帰ってくるのだと思っていた。

 だが、この使命はまだ半ばだ。いや、半ばまでも行っていない。〈時〉は迫りこようとしているのに。

「有難うございます……ソレス様。私を信じてくれて。正直なところ、レンがどう出るかは判りませんけれど、アーレイドとシュアラ様を手にすることは、もう彼らには意味がないと思います」

「レンとアーレイドのことは気にするな」

 エイラの躊躇いがちな言葉にファドックは言った。

「レンは不可思議な都市だが、これまでのところ、何ら不穏な行動は取っておらぬ。レンのことを多少、調べた。目的が叶わなかったからと怒りの矛先をアーレイドに向けるよりは、冬至祭フィロンドに名乗りを上げたことなどなかったように、再び沈黙してしまうことの方が有り得そうだ」

「ええ。私もそう思います。レンが怒りの矛先を向けるのならばその先は……私、ですから」

「セリ・リティアエラ」

 ファドックがひざまずいた。それは、椅子に座り込んだままのエイラに目線を合わせるためと言うよりは――。

「どうかご無事で」

 それは、騎士の礼だった。

 彼が、シュアラ以外にはどんな姫君にも、したことのない。

「リティアエラ!」

 がちゃり、といささか乱暴に扉が開かれた。エイラは大きく息を吐く。何も、邪魔をされたなどと思うのではない。――身体が、一気に楽になったのだ。

「シーヴ」

「どうした。何があった。無事だな?」

 まっすぐにエイラのもとに、ほとんど駆け寄るようにして寄ってきた青年は、彼女の前に立つとその横にひざまずく騎士の姿を認め、何と言っていいのか判らぬ奇妙な表情をした。

「大丈夫。あとで……話す。もう、大丈夫なんだ」

 エイラはシーヴに笑いかけた。シーヴはどきりとする。

 その笑みは朝の陽射しのように暖かく、眩しかった。晴れやかで、満ち足りていた。

 当人は何も意識していないながら、それはどんなに恋の手管に長けた女でも作り出すことのできぬ、天上の笑み。シーヴは思わず息を呑み、ファドックでさえはっとなったほどだった。

「リティアエラ様、落ち着かれましたの?」

 シュアラの声に今度は「エイル」がどきりとした。忙しいことだ、と自分で考えて苦笑する。

 ファドックはそれ以上エイラに何も言わず、すっと立つと自身の位置――シュアラを「守る」位置へと戻る。王女はそれを当然のこととばかりに――もちろん、当然なのだ――受け止め、ファドックに何か言うことはなく、ただリティアエラに心配そうな視線を送っていた。

「ああ……シュアラ王女殿下。私は、たいへん失礼な……真似を」

 怖々と立ち上がったが、目眩は覚えなかった。足元ももうしっかりとしている。ほんの数ティム前まで頭のなかで鳴り響いていた鐘も完全に治まっていることに気づき、実に驚いた。

 これだけ、違うのだ。これだけ――影響を受けるのだ。エイラは少し呆然とした。

 〈鍵〉がリ・ガンに及ぼす力ときたら、有難いを通して、いっそ腹立たしいくらいである!

 だが、もちろんそんな怒りは理不尽であることは知っている。〈鍵〉はいつでもリ・ガンを助ける。――あの黒い世界のなかで彼女に呼びかけ、救い出した光は間違いなく、シーヴの声であった。

「まあ、気になさらないで。無理にご招待したわたくしが悪いんですもの」

 シュアラは言うが、実際には「リティアエラ」は招待された訳ではない。リャカラーダ殿下に連れがいるのならご一緒にどうぞ、と言われた程度だ。

「それに、リャカラーダ様とはとても……」

 シュアラはにっこりと笑った。

「有意義なお話ができましたわ」

 その言葉を聞き、「リャカラーダ様」に対してむっとする思いを覚えるのはやはり「エイル」だ。こうして、これらの三人の近くにいれば、エイルとエイラと──リ・ガンと、何が何やら判らなくなりそうだった。

 ただそれは錯覚で、エイルもエイラもなく、自分はリ・ガンであると判っていた。同時に、そうではない、決してそうではなく、自分はエイルなのだという叫びもまた、その内から消えてはいない。

 ファドックはエイルを時に動じさせ、時に安心させ、リ・ガンを安定させる。シーヴはエイラを形成させ、多くにおいて安心感と、リ・ガンへの絶大なる安定をもたらす。そしてシュアラ王女はと言えば、エイル少年を動じさせるばかりだ!

シュアラ殿下ラナン・シュアラ

 エイラは美しくなった王女を見やった。

「私は」

 言葉が、とまる。

 何を言うつもりなのだろう。内から出てくる台詞は、何なのだろう?

 エイラの言葉の続きを王女が待っているのが判る。

「私は」

(守ります、アーレイドを――あなたを)

(必ず帰ってきます)

(たとえ、そのときにはシュアラ王妃殿下になってても)

(シュアラ)

(いつかまた、あの厨房の裏で話したみたいに話せるかな?)

(無理だろうな……判ってるよ)

(でも俺はきっと)

(シュアラとアーレイドを守るから)

 浮かぶ言葉は――エイル少年のものだ。

 リティアエラは何でもないと言うように首を振ると口をつぐんだ。

 何でもない。

 こんなことは。

 自分には、もっと重大なことがあるではないか?

 そうだ、こんなことより――重要なことが。

 エイラは自身に言い聞かせるようにして無理に笑みを作ると、それが唯一の拠りどころであるとでもいうように、彼女の〈鍵〉の傍らに寄った。

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