08 彼女

 風が変われば、とのことだった。

 それは、風神イル・スーンがもたらす大気の流れという意味ではないらしい。

 言うなればそれは魔力の風であり、〈塔〉はそれについて語ることは避けた。隠そうとしたというのではなく、魔術師でない者に語っても何の意味もない戯言だからだという。

「待つのだ、シーヴ」

 〈塔〉はそう言った。

「時がくれば、ぬしはここから出ていくことができる」

「まさか、一年かかるとか戯けたことは言わないだろうな?」

 念のためにシーヴは尋ねた。〈塔〉は笑う。そんなことまでできるとは、驚いた。

「一両日中だ、安心したか。それまで、このなかは好きに使え。主のことを探りたいのだったら、それも好きにしていい。いまの主についてでも、前の主でもな」

 〈塔〉の許可を得たから、という訳ではなかったが、ほかにやることもなかったので、シーヴはそのなかを見て回ることにする。

 それはちょっとした、小さな城と言ったところだった。

 地上階には広間と調理場、上がっていくとシーヴが通された応接の間、客用らしい寝室、書棚の部屋、書き物をするためらしい場所、主の寝室、私室、彼には判らない魔術の部屋、などが続き、いちばん上まで行けば見晴らしの小部屋があった。

 彼の興味をいちばん引いたのはやはり、主の部屋であった。

 当人の留守にその自室に入り込み、じろじろと眺め渡したり、ましてや探ったりするような真似は躊躇われる。それも相手は女性だ。しかしシーヴはしばし迷ったのちに、部屋へと足を踏み入れることにする。何か知るべきことがあれば、知っておきたい。

 室内は、世辞にも片づいているとは言い難かったが、もしシーヴが同じように一人で過ごせばもっと酷いことになるのは目に見えている。ここには王子の散らかしたものを丁寧にしまう召使いもいなければ、小言を言いながら片づける母親もいない。もしかしたら〈塔〉は小言を言うかもしれないが、片づける腕はないだろう。

 とは言っても煩雑な雰囲気はなかった。もの自体が少ないのだ、と彼は気づく。突然ここを留守にした女主には聞こえぬ謝罪の言葉を口に述べてから彼は棚の引き戸や引き出しを開けてざっとのぞいた。

 だが面白いくらい、何もない。いささかの衣服があるくらいだ。それも必要最低限のものばかりで、また、女性らしい小物などもなかった。判ったのは、どうやらエイラ嬢は少年ふうの衣装をお好みらしい、ということくらいだ。

 彼は次に書き物の部屋に行ったが、そこにはこれまた世辞にも上手いとは言えない字で何やら彼には判らない、魔術のことが書かれていただけだった。

 書棚も似たようなもので、ほとんどの書は魔術について書かれているか、〈魔術書〉そのものだった。魔術師以外が触れれば危険であるという程度の知識は彼にもあったから、そうと気づけば手を伸ばすこともしなかった。ほとんどの書はほこりをかぶっており、どうやらこれらは前の主の揃えたものらしいことが判る。

 魔術の部屋にはもとからあったものか彼女が作ったものか、魔術薬らしいいくつかの瓶があった。だが当然、魔術師協会リート・ディルで一般の街びとに向けて売られるもののような札などついていないのだから、どれが何の薬やらも判らない。

 〈塔〉に訊けば答えが返ってくるかもしれなかったが、シーヴは特にそうしなかった。エイラが指摘したように魔術が嫌いだと言うこともなかったが――〈予言〉を信じているくらいなのだから――どうにも胡散臭い、という感は拭えない。

 ひと通り部屋を巡るとシーヴは地上に降り、足が疲れていることを思い出す。調理場に行けば小鉢には縁までなみなみと水がたたえられており、彼は感謝の気持ちで、手近にあった杯でそれをすくい、飲んだ。〈塔〉の言った一両日中はこれでどうにか保つだろうか、と考えて鉢を見たシーヴは、それがいささかも減っていないことに気づく。

(魔術、か)

 やはり胡散臭いが、これは有難い。食糧がなくても少しばかりはどうにかなるが、水だけはいかんともし難いのだから。

 水の心配がなくなると、空腹を覚えた。

 シーヴは荷袋に入っている、保存や旅には適しているが味気のない乾燥食を思いだし――いい匂いがしていることに気づく。見回すと、砂漠に不似合いな茶色い紙袋が目についた。がさりと音を立ててそれを開けば、街の屋台で見かけるような蒸し饅頭が入っている。

(街へ行ったと言っていたな)

 昼飯か、夕飯の予定だったのか判らないが、これを取りに彼女が戻ってくるとも思えない。シーヴは有難く、その思いがけない「味のある」食事を譲り受けることにする。すっかり冷めてはいたが皮はまだ充分に柔らかく、コットの詰め物は濃いめに味付けてあって、今度は世辞でなくても美味いと言えた。

 こうして人心地つけば、次に覚えるのが眠気であることは自然だ。

 太陽リィキアがようやく西の方にその――砂漠では――極悪な姿を隠そうとしているくらいの時間であったが、気づけば彼は疲れ切っている。今日は多くのことがありすぎた。〈翡翠の娘〉に出会った興奮も、すぐさま見失った衝撃も、本能的な欲求の前に薄れていった。

 彼は頭布ソルゥを外しながら、足を引きずるようにしてまた階段を上り、寝台のほこり臭さを気にすることなく、そこにばたりと倒れ込んだ。


 吟遊詩人フィエテの歌だったか、人形師トラントの芝居だったか、それとも酒場できた戯言だったのかも覚えていない。

 そんな〈砂漠の塔〉に寝泊まりすることがあるなど、もちろん想像してみたこともなかった。

 半日近くもぐっすりと眠り込んだシーヴは――エイラの魔術薬のおかげもあっただろうが――、すっかりその体力を取り戻していた。

 眠りというのは、体験した物事を整理させる働きがあると言う。いつもより多く休んだ彼は、いつもより多かった出来事を筋道立てて考え直すことができそうだった。

 調理場に行くと、昨日は気づかなかったことを思いつく。鍋に水を張り、置かれている干し茸やしなびかけた菜草、彼の手持ちの干し肉などを放り込んで火を入れれば、簡単な汁物くらいはできそうではないか。鍋を手にしたシーヴは、ふと違和感に気づく。この塔にあるものはどれもみな古びているのに、これは新しい。

「エイラは料理をするのか」

 顔を上げて〈塔〉に話しかけてみた。

 通常、街びとは豊かな家庭を除いては、自宅に調理場など持たない。そんな広さはないし、材料を日々揃えて料理をするような時間もないものだ。第一、自宅などと言うものががあるだけでも立派なもので、多くは安宿の大部屋か小さな小さな空間を長期的に借りる。そして薄汚い食事処や屋台で飯を済ませるのだ。贅沢なものを望まなければその方が安価な上に早いし、美味い。

 となれば、調理の技術を覚える機会もまた、少なかった。

 シーヴなどは砂漠の民と暮らしていたから野営やら料理やらにも慣れ親しんでいるが、魔術師が鍋を持つというのはいささか奇妙な考えである。

「簡単なものならば、作れるようだ」

 それが〈塔〉の答えだった。

「厨房で働いていたと言っていた。だが複雑な調理をしたことはないので、ほとんど見よう見まねだと」

「魔術師と厨房とは、何とも似合わない組み合わせだな」

「彼女は特殊なのだ、シーヴ」

 〈塔〉は言った。

「魔術師となるまで、様々な仕事をしていたらしい」

 その「仕事」のうちのひとつで「リャカラーダ」を見たのだ、などとはシーヴはもちろん、〈塔〉も知らぬ。

「特殊、と言うのは?」

「魔力の発現が遅かった」

「ふん?」

 魔術師というものに縁がなかったシーヴにはよく判らない。

「あの独特の黒いローブを着るようになったのは、今年に入ってからだと言っていた」

「〈変異〉の年、だからかな」

 シーヴは、自身の体験と結びつけることはしなかった。今年に入って、起きた出来事と。

 煮立った鍋にきつめに塩を足し――砂漠では、必要だ――転がっている木皿にそれを入れ、〈塔〉から教えられた棚を開けて固くなりかけた麺麭を添え、思い出して「前の主人」の酒瓶から一杯もらい受けてくれば、何とも立派な食卓のできあがりだ。

 一緒に食事をする相手がいないのは少し寂しく思えたが――煮炊きのあとは、ウーレたちと語り合う時間である、というのが彼の内に染みついていた――、語り相手にならば〈塔〉がいた。シーヴはエイラのことよりも、〈塔〉自身、自体、のことや砂漠の民のこと、ここを造ったという魔術師について様々なことを〈塔〉に尋ね、答えをもらったり、もらわなかったりしながら食事を進めた。

「前の主は、名をオルエンと言った」

 〈塔〉はそんなふうに語った。

「彼がこの地を訪れたのは、初めは目的があったためだ。彼は〈赤い砂〉を求めていた」

 その伝説はシーヴも知っていた。ファンランシア地方の大砂漠ロン・ディバルンに関する様々な伝説のなかでいちばん有名だと言っていい。それは一握りの、文字通り赤色をした砂であり、広い砂漠の「どこか」にある。

 これだけでも探すのは不可能だと思われるのに、その砂は動くのだ。月が生まれ変わるときにすっとその姿を消し、またどこかに現れる。たとえ砂漠を隅から隅まで歩いたとしても、それをひと月以内に終わらせない限り、出会うことはできない。〈赤い砂〉を探すような、というのは不可能ごとを表現するのに日常的に使われる言葉だった。

 ただ、その赤い砂がなんなのか、という段になるとそれを話せるものは滅多にいなかった。それは魔術師たちが求めるものだと言われ、平凡な暮らしを送っている街びとには関わりのないものだ、ということだけは誰しもが知っていたが。

「本当にあるのか、その砂は」

「ある、ということになっている。私は見たことがないが」

 どうやって「見る」のだ──とは思ったが、敢えて訊かなかった。

「それで、その砂は何なんだ? 寝物語に言うように、魔術師の力を強くするのか?」

「そうではない。そんなものがあるのなら、ロン・ディバルンはそれを探す魔術師がひきも切らず訪れる場所になるだろう。だが、それが何なのかを説明したところで、魔術師でない者には判らない。伝説にそう言われるのなら、そう思っておけばいい」

「ご親切に」

 シーヴは杯を掲げて見せた。〈塔〉に「見える」のなら、だが。

「とにかく、オルエンはそれを求めて砂漠へとやってきた。私を造ろうと考えたのも、最初はそのためだ。ここに居を構えて、何年かけてでも砂を探すため。しかし、彼の予想しないことが起きた。彼は砂を必要としなくなった。彼は哀しみに打たれて、そして私を造ることにしたのだ」

 いささか説明の足りないそれをシーヴは黙って受け入れた。〈塔〉はその足りない部分を語り忘れたのではなく、語る気がないのだ。

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