07 〈鍵〉とリ・ガン

 それでは、いまでも歯車は狂っているのだ。

 リ・ガンが〈鍵〉と出会っても。

 だが彼は知らぬ。彼らはまだ知らぬ。

 シーヴはただ呆然とその場に立ちつくし、起きたことを考えてみようと思いつくまでかなりの時間がかかった。

 主のいなくなった塔のなか、相手のいない卓の上の冷めた茶をすする。

(その手を――放してはならぬ)

 占い師の言葉が思い出される。

 彼は、その手を放してしまった。

 放す気など彼にはなく、向こうから振り払われたのだ。だがそういった直接的な意味に限らぬ。彼はその手を放してしまった。彼の〈翡翠の娘〉はアーレイドで彼の前から気配を消したときと同じように、それとももっと完璧に、痕跡ひとつ残さず、かき消えた。

 ならば、彼が次にするべきことは?

(追う)

 答えは明瞭だ。

(これまでも追い続けてきた。変わらない)

(いや、これまでとは違う)

 彼は出会ったのだ。〈翡翠の娘〉に。そして行く先も、判っている。

(見える)

(感じる、と言うのか?)

 あの呼び声。

 彼らふたりを――包んだというのはあまりにも激しい、あの叫び。ここへきたれと呼んだのは。

(翡翠、なのか)

 その考えは、「奇妙なこと」を体験し続けているシーヴにも可笑しく感じられた。

 だが、見える。

 彼の行く先は。

「判る」

 呟いた。

「翡翠の――宮殿」

 ヴィエル・エクス、という言葉をシーヴが口にしたのはこれが初めてだった。

(行かなくては)

(だが)

「どうやって?」

 そのとき声を出したのは、彼ではなかった。

「どうやってここから出ていく? その装備では、一日と歩けまいだろうに」

 シーヴは辺りを見回すが、声の主の姿は見えない。どこから声が響いてくるのかさえ判らない。だが、それは先ほど頭に響いた音とは異なり、うつつの、声だった。

「誰だ」

 シーヴは声を出した。

「どこに隠れている。出てこい」

「隠れてなど」

 声は傷ついたように言った。

「黙っていたのは謝るが、それはあなたと主が話したいのだと思ったから。しかし」

 声は一リア黙ってから続けた。

「……彼女は行ってしまった。残念なことだ」

「誰だ」

 シーヴは同じ問いを繰り返した。

「どこにいる」

「ここに」

 声は答えた。

「あなたはずっと私を見ている。主が私に話しかけたのも、見ていただろう」

「まさかお前は」

 青年は、自身の内に浮かんだ考えに、またも可笑しく思った。

「――〈塔〉なのか?」

正解だアレイス

 声はあっさりとその「馬鹿げたこと」を肯定した。シーヴは、笑う。

「可笑しいか、王子」

「その呼び方はやめろ」

「では、私を笑うのもやめてもらおう」

「お前を笑ったんじゃない」

 言いながら、〈塔〉に言い訳する自分がやはり、可笑しかった。

「ここが砂漠でなかったら、俺は首を振ってお前の言葉なんて聞かなかったことにするだろうに……簡単に認めている自分を笑ったのさ」

 誰かが隠れて声を出しているとでも考える方が自然なのに、どうしてか彼はこれが塔の声であると感じ、それにあっさりと納得してしまっていた。

 これは砂漠という土地が持つ魔力のせいか、それともやはりこれは人の声であり、彼は何かの魔術にでもかけられているのか。もし後者であったとしても、シーヴはこれが〈塔〉であると思ってしまっており、それを相手に話をすることに違和感は覚えなかった。

「ややこしいな、人間は」

 自称〈塔〉は、そうできるのならばため息でもついたことだろう。

「主も初めは、信じなかった。誰かが隠れているはずだと、あちこち探し回ったものだ」

「その主とは、エイラか」

「そうだ」

「前の主は、どうしたんだ」

「……行ってしまった」

 〈塔〉の声は哀しげだった。

「私を造った偉大なる術師。彼はどこか遠くへ旅立ってしまって、生きているのやら死んだのやらも判らない。私は彼を探しに行くことはできない。私は砂風に晒されて朽ち果てるまで、ここにいる」

 誰かが〈塔〉のふりなどして彼を騙しているというのなら、その人間は大層芸達者だと言わなければならないだろう。

「――長いこと、こうしているのか」

 シーヴはつい、同情するかのように問うた。

「人間の数え方は知らない。だが、永いこと、なのだろう」

 声は簡単にそう答える。

「私はお前が羨ましい、シーヴ。私がこうしてここに立ったままでいるのに、お前はここを出て、去った主を探しに行くことができるのだから」

「俺は」

 シーヴは何となく反論したくなった。

「探しに行くなんて言っていないだろう。何故そう思うんだ」

「お前が探しに行かないはずがないからだ。〈鍵〉と――リ・ガン」

「何だと?」

 鍵――その言葉は、スラッセンで〈子供〉からも聞いた。

「知らぬのだな。主も判らないと言っていた。知識として教わったが、意味は判らないと。ただ、リ・ガンは〈鍵〉を見つけ、〈鍵〉はリ・ガンを手放してはならぬものなのだと私は聞いた」

「リ・ガン」

 シーヴは繰り返す。

「それは、何だ」

「私は知らぬ」

 声は言った。

「私は、主にそう聞いた。そして主もそれが何なのか、真の意味では知らない。彼自身のことであるのに」

 〈塔〉が「彼」と言ったことにはシーヴは気づかなかった。

「リ・ガン」

 再び、口にする。

「俺はその言葉を知っている気がする。だが知らない。エイラがそれで、俺が鍵だというのなら、ではそれが俺の運命だというのだな」

「私は知らぬ」

 声はまた言った。

「運命を決めるのは、その道の上を行く者のみ」

「俺がそれを決めるのだと?」

「選ぶのだ、シーヴ」

 〈塔〉は言った。

「何も見ず、何も聞かなかったことにして、ぬしの街に帰ることもできよう。だがぬしは主を追うのだな。ならば、選ぶのだ」

「何を選べと言う」

「ぬしは、我が主を護れるか?」

 シーヴの脳裏にエイラの姿が浮かんだ。

 振り返った視線の先にあった、生身とは思えなかった姿。

 彼に茶を出す、ごく普通の娘のような姿。

 「何か」におののき、彼の手を振り払った姿。

 燃えるような瞳で、彼に術をかけようとした、その姿。

「――エイラは、俺を殺そうとしたと思うか」

「おそらく」

 声は認めた。

「正しく言えば、殺そうとした、と言うのとは違うかもしれない。主は自分の身を守ろうとした。自身を守ってくれるはずのものから。リ・ガンはまだ目覚めないのだ。最初に目覚めなければならないのに、と主は何度も言っていた」

「リ・ガンがどうとかは判らないが」

 シーヴは呟いた。

「そうだな。あれは、怒りのようでそうではなかった。殺意によく似ていたように思う。だが……違うな。あれは」

 青年は顔を上げる。

「怖れ――だ」

「そうだ」

 声は言った。

「ぬしは正しい目を持っているな、シーヴ。そう、彼女は怖れたのだと私も思う。彼女の師は、再三、彼女の警告した。彼女がリ・ガンであると知り、翡翠の力を得ようと近づいてくるものにくれぐれも気をつけるように、と。だから彼女はぬしを怖れた。ぬしを〈鍵〉だとは思わなかった。何故だろうな」

「判らない」

 からだ、とは思う。だがそれでは答えにならない。

「……エイラは俺を見知っていた。シャムレイの第三王子であるということが何か――権力を欲するとでも、思われたのか」

 シーヴは目をうろつかせた。〈塔〉に語りかけようとしても、どこを見ていいものか判らない。

「リ・ガンの力とは何だ。翡翠の、力とは」

「私は知らぬ」

 〈塔〉は三度みたび言った。

「だが、それを欲する者は、その力について知っているであろう」

「……そうだな」

 シーヴは、壁の一点を〈塔〉に語りかける視線の行く末に定めると、そこをじっと見た。

「俺は彼女を探し、護る。答えはこれでいいか、〈塔〉」

「いいだろう」

 声は言った。

「主に伝えてくれ。あなたはいまでも我が主だと。それを放棄したければ、再びここへきて私にそう告げなければならないと」

「そうしよう」

 言って、シーヴはふと思った。

「――お前が……お前の前の主が砂漠を護っていた、と言う話を聞いたが、真実か」

「砂漠を?……ああ、ミロンの民を。もちろんだ。主はミロンに恩があった。そして私も」

「お前が?」

「そう。主が私を造った。ミロンはその手助けをした。彼らはもう、忘れてしまったのか」

「そう言った伝承は聞かなかった」

「人の子の生は儚い。寂しいが、仕方のないことだな」

 塔に目があるなら、彼――という言い方も奇妙だが――は西のかたに目をやったに違いない。

「主のいる間は、私に力が戻る。だからいま、ミロンは守られているはずだ。エイラはいまだに私の主なのだから」

「そうか。そりゃ……よかった」

 ソーレインを思い出してシーヴは言った。

「風が変われば、ぬしを送ろう。シーヴよ」

「何だって?」

 シーヴは聞き返した。

「力が戻る、と言っただろう。エイラが街へ行くことができたのは彼女の力と私の力を合わせたから。彼女は行ったしまったから、私が送ることのできる範囲は限られる。だがぬしが徒歩で旅をするよりは、ずっと楽だろう」

「楽どころか」

 シーヴは肩をすくめる。いささかの自嘲も入った。

「徒歩で行けば、一日で死ぬと言ったのはお前だぞ」

「仕方がない。本当のことだ」

 人の子の命は儚い、などと〈塔〉は言った。

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