05 新たなる主

 そして、それは――唐突だった。

 あまりにも突然すぎて、シーヴは自身が足を止めたことにすら、気づかなかった。

 夢か、と思う。ついに自身は砂の上に倒れ、夢の世界に迷い込んだのか。

 それとも、彼は死んだのだろうか。目にしたものが信じられない。

 そこには、あるはずのないものがあった。

 もしそれが実在するというのならば、もうずっと前から見えていなくてはならないのだ。

 砂の上に鎮座する、それは石の塔。

 突如としてそれが現れた。いや、現れたのではない。そこにずっとあったのだ。ただ、それは「隠されて」いた。

 シーヴは、この上なく正確に、この場所へと歩みを進めていたことになる。

 この、砂漠の塔の正面に向けて。

「何……」

 声を出そうとして、むせた。渇ききったのどは、音を発することを拒絶したのだ。

 砂漠の塔。

 魔術師が住んでいたと言う。

 それは、スラッセンに似ていた。まるでビナレスからそのまま運び込んだかのような石造り。何もない砂上にあるのがあまりにも不似合いな。

 決して巨大なものではなく、ちょっとした町で見られる見張りの塔よりも低いくらいだ。しかし、いきなりその真下に立たされたシーヴには、それは天まで届くほどの尖塔に見えた。

 彼は呆然とそれを見上げることしかできない。

 まだ、起きたことが把握できないのだ。

 普段の彼ならば詮索は後回しにして、理由は判らないが塔が見つかったことに満足し、その入り口に近づいて戸を叩くなりして――どうせ返事はなかろうが――さっさとそこに入り込み、陽射しを避けてひと息ついてから、何が起きたのか考えようとするだろう。

 だが太陽の熱に浮かされた頭はそこまで思い至るのに時間がかかる。シーヴはそのまま何ティムか、太陽の熱に晒され続けていた。

 そこに変化が起きなければ、彼はとうとう砂の上に倒れ込んだか、或いはようやく考え至って塔に入ろうとしたか、どちらかだっただろう。

 だが、彼が塔の戸を叩く前に、運命が彼の戸を叩いた。

「これは……驚いたな」

 背後から、声がした。彼はびくりとして――そんな元気があったことは意外だった――いまの彼にできうる限り素早く振り向いた。

 誰もいなかった。そのはずだ。いくらぼんやりとしていたと言っても、この何もない空間で背後に動くものがあれば気づかないはずもない。

 と言うことは、声の主はたったいま、この瞬間に、この場に現れたのだ。

 いまのシーヴがすぐにそこまで考えることができた訳ではなかったが、とにかく彼は振り向き、そこにその姿を見た。

 月の女神ヴィリア・ルーが――舞い降りたのかと思った。

 そのたとえが大仰すぎるのならば、砂漠の女神ル=エイ・ルーでも、砂漠の憧れたる水の精霊ウユ=ルーでも、砂の魔精霊サラニーでも、どう言ってもかまわない。

 とにかく、そこに現れた存在はうつつのものに思えなかった。

 日にきらめく金の髪、すらりとした体躯は無駄な肉ひとつついていないようだ。いささか痩せすぎのようにも見え、女性らしい丸みには欠けた。

 それが却って彼女を生身ではないように見せるのだろうか。彼を食い入るように――視線で彼を消し去れるならそうしてしまおうとでも言うように、まっすぐねめつける瞳はどこか緑がかって見えた。

 いったい何故なのか、それに見覚えが、あるようで。

「何者、だ」

 ようやくシーヴは声を出した。いや、本当のところは声は出なかった。掠れたようなうめきがひとつ、もれただけ。

「こっちの台詞だ」

 それを聞き取ったように声は返ってきた。そこでシーヴの夢想は破られた。それは間違いなく生身の人間が発する声であり、魔妖めいたところは少しもない。

 幻のような、絵姿のような、そんな表現がぴたりとくるその女にはいささか似合わぬ低めの声。だがその響きに耳障りなところはなく、それどころか不思議と安心感さえもたらした。

「何でこんなところにいる? わざわざきたのか、こんな、何もないところまで? そりゃあ、確かに、ご覧の通り伝承の塔はあるけど……あんたは〈失われたうた〉を求める吟遊詩人フィエテには、見えないな」

 女は言葉を切り、彼の方へ、それとも塔へ向けて数歩を進めた。シーヴは一歩、退く。怖れや躊躇いから女を避けようとしたのではなく、儀礼的に道を空けた。女はそれを見て笑った。

「砂漠の魔物かもしれない相手に礼儀正しいもんだね。さすがは殿だ」

「何だと――?」

 相変わらずろくに声は出ないが、警戒心はさっと蘇る。

(馬鹿な――何を)

(見惚れていた――?)

 そんな思いを打ち消すように首を振る。

魔術師リートなのか」

「何だって? ああ、否定はしない。でも、いきなり初対面の相手の頭を勝手にのぞき込むのは」

 女はふっと笑った。

「『失礼』だと思ってる。安心しろよ、あんたの心を読んだ訳じゃなくて、あんたを知ってるんだ」

「何だと?」

 シーヴは掠れた声のままで繰り返した。

「俺を知っていると言うのか?」

「そう。だいぶ太陽リィキアにやられてふらついてるみたいだけど、見間違えないよ。リャカラーダ第三王子殿下だろう。本当に驚いたな。いったい何で、あんたがこんなとこに」

「……シャムレイの民には、見えんが」

「何だって?……ああ、聞き取りづらくて仕方ない。ほら」

 女は何か投げて寄越した。シーヴは反射的にそれを受け止め――足元は覚束なかった――掠れる目でその瓶を見る。

「飲めよ。渇きが癒せる。毒なんか、入ってないから」

 心を読まなくても、彼の警戒は見て取れるだろう。女はそう言うとすたすたと彼の横を通り過ぎる。

「客人があるならちゃんと言ってほしいもんだ。驚くじゃないか」

 塔の方に向けて声を発し、何の返答もないのに肩を落とした。それを見ながらシーヴは慎重に瓶の蓋を開けると、その香りを嗅ぐ。清涼な香りがした。

 彼は引き込まれるように、そのままそれを飲む。すると、これまでの苦痛が嘘のように身体がすうっと楽になった。口にしたのはほんの一口だというのに、それは身体の隅々、指の先まで瞬時に行き渡り、彼は回復を覚えた。

「魔術薬か」

「そう。砂漠の民は魔術が嫌いなのか? 別にいいだろ、死なずに済んだんだし」

「助かった。礼を言う」

「どうやら、声は戻ったな」

 女はそう言うと、迷うように塔とシーヴを順番に見た。

「これを目指してやってきたのか? 普通の人間には見えないはずだが……まあ、いい。せっかくここまできたんだ、入れよ。とにかく、この中であんたの話でも聞かせてもらうことにしよう」

 こうしてシーヴは、伝説の〈砂漠の塔〉にたどり着き、その新たなる主の招待を受けたのだ。

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