04 塔へ

 守ろう、と意識して考えたことはなかったように思う。

 彼は〈守護者〉ではないのだし、男が男を守るというのはあまり彼の考えにそぐわなかった。

 もちろん〈守護者〉が守るのは翡翠であるから、彼が〈守護者〉だったならばなおさら、その男を守る謂われなどなかった。だが、彼はその考え――自分は〈守護者〉ではない――に固執して、男の守りを怠ったのだ。

 彼自身には、それを怠ったつもりなどなかった。

 何故なら、意識しようとするまいと、それは当然なのだ。リ・ガンが〈鍵〉を守るのは。

 〈鍵〉がなければリ・ガンは無防備で、翡翠の力を得ようとするものがリ・ガンを所有すれば、簡単にそれを解放してしまう。自分自身のためにも、リ・ガンが〈鍵〉を守るのは、当然なのだ。

 なのに――。

 彼はそれをしくじった。

 翡翠の目覚める〈時〉の月がくる前のことだった。

 だから――翡翠は目覚めなかった。

 歯車は狂った。彼のせいで。

 彼はもはやリ・ガンではなく、男でも女でもなく、人でもなかった。

 だがそんなことはどうでもよかった。

 〈鍵〉を失った世界は、花の咲かぬ庭であり、風のない草原であり、潮の香りがしない海であり、楽器のない吟遊詩人フィエテだった。

 それを知っていれば、彼は〈鍵〉を守っただろうか。

 彼自身のために――?

 どうだろう。判らない。

 ただ、彼は彼の〈鍵〉を失った世界で生きることを――生きているとさえ言えぬままで放浪し続けることを定められた。


 そこは、どこだっただろう。

 判るはずもない。

 見渡す限りの大砂漠ロン・ディバルンに、何の目印を見つければいいと言うのか。

 砂の丘はひとたび嵐がくれば簡単に姿を変えるのだし、点在するとされる湧き水の憩い地もまた、目に見えるところにはない。

 いったいどうやって、ここまでやってきたものか、彼には判らなかった。

 こられるはずがないのだ。

 手にする荷袋には砂漠の旅に最低限必要なものが整っていたが、それはミロンの集落で荷を詰め直したときから何も変わっていない。食料ひとつ、水一滴、減っていない。スラッセンまではソーレインの糧食を分けてもらったから、それは不思議ではない。

 それはつまり、彼はここまで旅をしてきたのに突然その記憶を失ってしまった訳では、ないと言うことだ。

 ならば、彼は感じた通りのことを体験したのだ、と思わざるを得なかった。

 スラッセンと言われる不可思議な町で白い視界に包まれ、閉ざされた世界に戸惑う間もなく砂漠の風を感じ――ゆっくりと戻ってきたものに目を凝らせば、そこは――ここだった。

(さて)

(魔術か、それとも妖術か?)

 シーヴは、何度見ても変わらぬ景色をもうひとたび、眺め回した。

「あのクソガキめ……俺にどうしろと言うんだ」

 王子らしからぬ悪態をひとしきりつくと、彼は荷袋を落とし、その上に座り込んだ。

(ランド……無事でいるといいが)

(「道標」の言葉を信じるしかないか)

 数日の連れだった男の身を心配したところでいまの彼に出来ることはないし、それよりも――自身が放り出された状況の方を案ずるべきだった。

(手持ちの装備でどこまで行ける)

(何日、保つ)

 彼は慌てなかった。慌てても仕方がないことも確かだが、感じるのは戸惑いや怖れよりも奇妙な確信のみ。

(大河を離れるつもりはなかったから、水が少ない。切りつめて、二日保てば幸運と言うところか)

(……いいだろう。乗せられてやる)

(いや、この言い方は「公正じゃない」な)

 ふと、妹の言葉を思い出して彼は笑った。

(ランドは道標だった。あの子供への。そして子供は道標だった)

(――俺の翡翠ヴィエル……〈翡翠の娘〉への)

(ならば、道は)

「東だ」

 誰にともなく呟くとシーヴは立ち上がった。荷を抱えると北にぎらつく太陽から目を逸らすようにして、砂を踏みしめた。

 〈東国〉の衣装は、陽射しから身を守るのに適した作りをしている。まして、旅の拵えをしたものはその効果も大きければ、彼は砂漠には慣れている。

 と言っても、それは砂漠の〈西端〉、大砂漠ロン・ディバルンで最も気候の穏やかな地域でのことだ。ウーレやミロンを〈砂漠の民〉と言っても、彼らが本当に大河から離れて砂漠の奥地に行くことはなく、冒険を望んだ無謀な若者が――砂漠の民であろうと、大河の西の民であろうと――それを試みれば、ただ帰ってこないだけだ。

 もちろんシーヴ自身、そのようなことをするつもりはかけらもなかった。

 そんなことをすれば一年でシャムレイに戻ると言った約束は世界の終わりがきたとて果たせまい。

 そう思っていた。

 だが運命は、クア=ニルドという形を取って彼にそれを強要し、彼もまた、それを受け入れた。

 ならば、進むしかない。

 進むしかないのだが――現実と太陽は決して彼に親切ではなかった。

 遮るもののないその地で、たとえ季節は真冬を迎えようとしていても、太陽神の投げつける刃が弱まることなどない。

 こんな陽射しの強い時間帯に砂漠を歩くなど自殺行為であり、どうしても砂の上を旅せねばならぬのだとしたら、陽射しを避けうる厚い布地の天幕を張るか、砂に身を隠す穴でも掘って日除けをするべきだ。

 だが彼はそのような天幕を持たないし、ひとりで道具もなく穴を掘ることもできない。そんなことをすれば、一カイとかからずに太陽に負けるだろう。

 だから彼は歩くしかない。

 視界が、白い世界ではなく熱で揺れ、一刻、いや、半刻と経たぬうちに足がふらつきだしても、彼にできることはほかにない。

 彼を支えるのは、東へ――という思いだけ。

 東へ。

 その、塔へ。

(塔、とはな)

 浮かんだ思いに首をひねる――実際には首などひねっている余裕はなく、内心でおかしく感じた、だけだったが。

(町で聞いたお伽話。ソーレインに聞いた伝説。そんなものが俺に関わりがあるというのか)

 砂漠のどこかにある隠された塔。

 守り手たる魔術師が住んでいた。

 塔の主は去って、怪物が現れた。

(それらが――本当ならば)

 シーヴは考えた。ともすればぼうっとする頭をそのままにしておくと、倒れてしまいそうだった。彼は無理にでも、何かを考え続けた。

(ここは……まだ、砂漠の中心地って訳じゃない)

(ミロンの伝説に関わることのできる範囲だ)

(砂漠の塔――隠された)

(隠されたものをどうやって見つける?)

(第一、この何もない場所でどうやったら隠れることができると?)

(決まってる、塔に住んでいたのは魔術師だ)

 伝説を全て信じる訳ではなかったが、材料はそれしかない。

(魔術など、ろくに知らないな)

(学んでおけばよかったか)

 そんなふうに考えると苦笑が浮かんだ。第一侍従と妹姫の、そら見たことか――とでも言うような呆れた顔が簡単に想像できたからだ。

(必ず帰ると、誓った。こんな中途半端なところで倒れてなるものか)

(だが)

(いかんな……目が霞む)

 陽射しはとうに、熱い、という段階を通り越している。痛い。そして、苦しい。

 いつしか、息が弾んでいるのが感じられた。こうなってしまうと、拙い。シーヴは歩きながら――足を止めると、二度と動かせないような気がした――水筒に手をやる。

 水を浪費することはできない。水がなくなれば、終わりだ。だが同時に、水分を補給しなければ終わりは目の前だ。

 青年は精一杯自制をし、中身を飲み干したくなる衝動と戦って、口を湿らすだけに留めた。――そのつもりだったが、理性が許した以上に命の水は彼の体内へと入っていく。

(……これじゃ二日どころか)

(今日の日暮れまでだって保たん)

 彼は丁寧にその蓋を閉め――こぼしたり、蒸発させたりするような愚かな真似はできない――水分を口にしたことで却って渇きを覚えるという悪循環に悩まされた。

(負けるものか)

(大丈夫だ)

(どうにか……なるさ)

 本当は、さすがにそんな楽観的な思考は持てなかったが、無理にでもそう考えることにする。

(大丈夫だ)

(予言が真実なら、道標もまた同じ)

(もし、俺が間違った道標を進んだのなら)

(いや)

(間違ってなど、いない)

 その確信は、彼の運命が見せるものか、それともそう信じたいという希望だけだっただろうか? 彼には掴めぬ。

 ただ、無理矢理に足を動かす。東へ。――〈砂漠の塔〉へ。

(そんなものが、俺に何の関わりがある)

 繰り返す疑問。答えは出ない。

(判るものか、だが関わりがあるのだ。あの子供が道標ならば)

(ならば、じゃない。あれは道標だ)

 そう感じるのか。そう願うだけなのか。判りはしない。

(道標を見落とさず……ここへきたんだ)

(だから、糸は繋がる)

(〈翡翠の娘〉へと)

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