05 ――必ず

「うむ、魔術師殿に時間があるのならば、かまわぬだろう」

「――エイル」

 シュアラの声は細い。このような静かな場所でなければ、叫んだところで通らないだろう。近くで聞いているときには、こんなことは判らなかった。

「そうね。お前はもう使用人ではないのだから……私が命令する訳にはいかないのね」

「何を……仰います」

 エイルの声も掠れかけた。

「たとえ城から離れても、俺――私はアーレイドの民である以上、殿下ラナンのお言葉に従いたく……思います」

 王の御前である故の儀礼的な言葉では、なかった。城を離れても、シュアラを守りたいという気持ちに変わりはない。そのために、彼はこんな格好をし、旅に出ようとしている。

「エイル」

 少女は豪華な拵えの椅子からぱっと立ち上がると、ファドックの止める間もなく――護衛騎士は止めようとしなかったが――長い段を駆け下りてきた。

「本当に、エイルなのね。心配したのよ、私……突然いなくなってしまって」

「シュアラ……殿下」

 エイルは戸惑った。

「旅立つと言ったわね? この街を離れるの? ああ、でももう、お話しなさいと命じることはできないのだわ」

「――殿下。ひとつだけ」

 エイルはどうにか、声を出した。

「俺が……あなたに話をしたのは、命じられたからじゃない。全部……俺が話したかったから話したんです。それだけは」

 深く――礼をした。王女への礼儀もへったくれもない、それはそんなものを知らぬ下町の少年が精一杯で表す敬意。

「それだけは、覚えておいてください」

 言うと、背を向けた。無礼よ、と声が飛んでくるかと思った。いや――本当は、思っていなかった。シュアラもまた戸惑っていることが彼には判ったのだから。


 太陽リィキアが高く昇る。

 アーレイドの夏は終わりに向かっているが、昼はまだ暑い。まして、魔術師を表す黒いローブは熱を保つに最適ときている。

 だが少年は、敢えてそれを身につけたままだった。この場所でこれを脱げば、せっかく「調整」したものが全て壊れてしまう気がしたからだ。彼はこれから「最終試験」を迎えようとしているのに、そんな危険は犯せない。

 小さな中庭には誰もいない。

 けれど、剣を交える音が聞こえるような気がした。

 もしかしたらそれは、少し離れた別の中庭で行われている兵士の訓練の剣戟が風に乗って届いているだけだっただろうか。

 エイルは縁石に腰掛けて、足をぶらぶらさせた。リックはほかにも用事があると言って少年を解放し、の用事が終わったら呼ぶように、と言った。

(俺の用事、か)

 師匠の言った意味など考えるまでもない。

「――待たせたか」

「ああ……それじゃ聞こえたんですね。ファドック様」

 中庭の入り口に護衛騎士が姿を現す前から、彼がここに向かっていることは判っていた。それでもエイルはそんなふうに言う。

「聞こえてたんなら少しくらい、反応してくださいよ。護衛の最中は表情も変えちゃいけないなんてこと、ないでしょう」

「驚いたさ。あれは魔術か?――いや、違うな」

「……判るんですか」

 とん、と腰掛け石から飛び降りた。短めに作ってあるローブの裾は踏まずに済む。

「お前が魔術師リートなど、私は信じないぞ――エイル」

「何でですか」

 何故か、むっとした。

「俺には似合わないとか、そんな理由じゃないでしょうね」

「似合うとは思わんが、そんな理由ではないな」

「……やっぱ似合いませんか、これ」

「似合わんな」

 きっぱりと護衛騎士は言った。

「まるで借り物だ。お前がはじめて使用人の制服を着たときよりもそう見える。お前には調理着の方が余程、似合うぞ」

「トルス……怒ってます?」

「ああ」

 返答は短い。エイルは息をついた。

「でも……仕方なかったんです」

「気にするな。トルスも判っている。あいつはお前に怒っている訳ではない」

「じゃあ、誰に怒ってるんです」

「さてな。相手は運命というやつかも、しれんな」

 ほかの者に口にされれば、その単語はエイル少年の反感を買ったろう。彼の行く先を二転三転させる、その運命という目に見えぬ糸に彼がどれだけ翻弄され、それに憤っているかも知らぬくせに、と。

 だがファドックは、それを知っている。

 実際に彼を城に連れてきて彼と関わりと持った、そのことではない。

 エイルとファドックと翡翠。彼らにまだ、その自覚はなくとも。

「ファドック様。何で判るのか知りませんけど、確かに俺……正確に言えば魔術師じゃありません。それに似た術は使えるようになったし、ならどうして魔術師じゃないのか、実を言うと俺にはよく判んねえんだけど、リック導師が言うには違うらしいです」

「そうか」

 やはりな、などとひとりで得心するようなことはファドックはせず、エイルの言葉を促すように一語だけ、言った。

「うまく言えねえんだけど、俺、アーレイドを出ます。ここを出て、探さなけりゃならないもんがあるんです。何かって言われると……うまく、言えねえんだけど……」

 少年は繰り返し、頭をかいた。それを数トーア見つめて、ファドックが口を開く。

「――〈翡翠の宮殿ヴィエル・エクス〉」

「何……」

 エイルは顔を上げた。ファドックと視線が合う。

「お前はお前の翡翠の宮殿を見つけに行くのだろう」

 それはある種、比喩的な表現のようにも――聞こえた。だが知っている。彼らのどちらも。

 殿

 彼らは言葉にしてそう思うのではなかった。ただ、感じるだけだ。翡翠の――呼び声を。

「あの……東国の王子は、あのあとどうしたんです」

「翌朝には姿を消していた。お前と一緒だな」

「何だって?」

「それも奇妙な話だった。船は置き去り。陸路で旅立ったらしい。シャムレイへの照会はまだ済まぬが……あれは第三王子リャカラーダに相違なかったのだと私は思う。だがいったい――何のためにここへやってきたのか」

「――翡翠の宮殿ヴィエル・エクス

 今度はエイルがそう呟いた。

「判るでしょう、翡翠が、呼ぶんだ」

「あの男が、翡翠を求めたと?」

「そうだと思う。でもそのまま引き返した。ってことは」

「彼もまだ――知らない」

 彼らはまだ誰も知らない。

 だが、何を――?

 沈黙が降りた。

「エイル」

 それを破ったのはファドックの方だった。

「街を出る前に、母上に声をかけていくようにな」

「言われなくたってそうしますや。……何を言われるか、判ったもんじゃありませんけどね」

 魔術師になったこと。街を出ること。おそらくは怒るだろう。だが笑ってくれればいいと、思う。

「それから」

 ファドックはゆっくりと続けた。

「ここに、戻ってくるな?」

「――必ず」

「よし」

 騎士はうなずいた。

「ならば私に言うことはない。お前が戻るときまで――我らが守るべきものを必ず、守っていよう」

 シュアラを。

 翡翠を――?

「信じてます。その、ファドック様」

 エイルは少し言いづらそうにした。ファドックは促す。

「俺、こんな格好していますけど……剣が嫌になった訳じゃないです」

「判っている、気にするな」

「魔術師だって、別に剣を持っちゃいけないってんじゃないんです。その、つまり……」

 少年が言い淀むと、ファドックはうなずいて腰に差していた小さな短剣を外した。

「守りになるか判らぬが、持っていけ」

「――有難うございます」

 少年はそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。それはまるで、剣の誓いをたてた騎士がその返礼を受ける姿のようにも見えた。

(大丈夫だ)

(ファドック様と言葉を交わせば、どうなるかと思ったけれど……)

(最後の試験も、通過した。これで俺はこの街を出る準備ができた)

 別れの言葉は済んだ。

 エイルはもう何も言わず、中庭の出口へと向けて足を進める。その少年の背中を男がじっと見ていることは、振り返らなくても感じていた。

「エイル」

 かけられた声に足を止める。

「〈鍵〉を──探せ」

「……はい」

 もしエイルが振り返れば、困惑した表情を見せるファドック・ソレスの珍しい顔が見られたことだろう。彼は彼自身が何を口にしたのか、判らないのだ。エイルもまた、同様だ。翡翠。守護者。〈鍵〉。リ・ガン。これらに何の意味があるというのか。知識としてリックに教わったところで、何も──判らない。

 エイル少年は、こうして、アーレイドの城を去った。

 その日シュアラ王女殿下は、その護衛騎士にも秘密で、街の門を守る兵にひとつの命令を下していた。エイルという名の少年が通ったら、必ずこれを渡すようにと──小さな玉のついた守り飾りと、一通の手紙を預けたのだ。

 兵士はエイル少年を知っていた。だが、兵士はその命令を果たせぬままとなる。

 エイルは、その日もその次の日も、アーレイドの門をくぐりはしなかったのだ。

 しかし誰も気づかぬうちに、その夕、その街から、エイルという名の少年は姿を消していた。

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