08 その声に惹かれて
「全く、根も葉もないことだわ。わたくしが保証します、パリシア夫人」
「殿下がそう仰るのでしたらなら、間違いありませんわね。安心する姫君も多いですわ」
そう言い残すと夫人は退いたが、振り向いたシュアラの顔は忘れられない。
「聞いた? エイル――エイラ。お前が、ファドックの」
(や・め・ろ!)
エイルは笑いを堪えすぎて涙を流しそうなシュアラの肩を押さえつけて、口に出さずに叫んだ。
(ファドック様が聞いたら何て思うか)
エイルが心配したところで、この噂が護衛騎士の耳にも入ることは間違いない。もちろんファドックは上手に否定するだろうが。
(いや)
(そうした方がシュアラの護衛に都合がいいと思ったら、肯定しないまでも、黙ってるかもしれないぞ)
むしろその考えの方が合っている気がして、エイルは天を仰ぐ。
「お放しなさい、無礼よ」
そんなふうに言いながらも、シュアラの肩は笑いに震えたままだ。「気後れしている」田舎の姫が殿下を捕まえているのも奇妙な話だったので、エイルは渋々と命令に応じる。
「ああ……可笑しい! こんなに可笑しいのは、初めてだわ!」
(ちぇっ、好きに笑ってろよ)
「なあに、不服そうね?」
(当たり前だろっ)
声を出せないのが恨めしい。
「こんなに楽しい気分になれるなんて。あなたがいてくれてよかったわ」
エイル、と耳元で囁かれる。少年は奇妙なうなり声を発した。エイラ、と呼ばれて馬鹿にされた方がましだ。
「ずいぶんと、楽しそうですな王女殿下?」
「ええ、人生でいちばん楽しい時間を過ごしておりますわ」
エイルの身体が一
「リャカラーダ殿下」
シュアラは素早く「王女殿下」に戻ると、優雅に振り返った。その立ち居振る舞いは、「無知」なエイルが見ても美しいと思えるほどだ。
「ああ、シュアラ王女殿下。我が名はいささか呼びづらいでしょう」
王子はふっと笑った。
「リア、或いはラーダと呼ぶ者もいます。どうぞ、如何ようにでも」
「まあ、わたくし、殿下のお名前を素敵だと思いますわ」
王女は艶やかに微笑み、王子はこれまた優美に礼の仕草をした。下町のそれと似たところはあるが、ほんの少し指先に気を使うだけで全く品が違ってみるものだ。エイルがこの瞬間にそんなことに気づいた訳ではなかったが。
「殿方からは解放されましたの?」
「どうやら殿様方のご興味は、東方の政治や武術にあるようでして。私は継承位も低ければ、武術も堪能ではありません。諸侯方には飽きられたようですな」
「まあ、それではわたくしにお話しくださいな。殿下の街の人々、暮らし、ご覧になっていらしたビナレスの街の数々を」
「おや、そのような話は退屈ではありませんか?」
「とんでもない。わたくし、とても興味がありますの」
「それでは」
リャカラーダはすっとその右手をシュアラに差し出した。
「一曲、ご一緒していただけませんか? 踊りながら語らうというのも一興」
「光栄なお申し出ですけれど、殿下。わたくし、この子を放っておく訳にはいきませんの」
「それなら」
王子はその視線をエイラに向ける。息がとまった。決して鋭いとか冷たいとか言う目つきではないのに、どこかとても――強い。シュアラはそれを感じないのだろうか。
「そちらの姫君もご一緒に。彼女に適切な踊りの相手はおりませんかな?」
「そうね。……ひとり、いるわ」
シュアラの視線の先を見なくても、エイルは気が遠くなるのを感じる。いい加減にしろ、この馬鹿姫、おかしな噂に拍車を掛けてどうする――とはもちろん、叫べなかった。
宴の主役は、もちろんリャカラーダだ。
客人でもあれば、年齢も血筋も容姿も、全てがシュアラに釣り合う男。
そういう意味もあって、もう一人の主役はシュアラだった。
だが唐突に、宮廷に蔓延したらしいその噂も、いまではすっかり主役のひとつとなっている。
シュアラがリャカラーダと踊る、となればそれだけで注目の的なのに、この王女と王子の気紛れで駆り出された「エイラ」とファドックもまた、注視を浴びることになる。
レイジュに知られれば――知られないなどと言うことがあろうか?――泣きながら殴られでもするに違いない。ファドック様と踊るなんてずるい、と。
「肩の力を抜け」
ファドックは苦笑して言った。
「何度も言っているだろう」
(これは、体術の訓練じゃないでしょうがっ)
(だいたいファドック様、俺、舞踏なんてやったことないですよっ)
「慌てるな。足さばきは体術と似たようなものだ。リズム感はあるのだから、私に合わせていればいい」
(簡単に言いますけどねっ、いいんですかっ、すっかり俺が――エイラ姫がファドック様の嫁候補ってことになっちまいますよっ)
「これで私とお前がふたりして姫の近くにいられるのだから、都合がいいだろう」
がっくり、と力が抜けた。嬉しくない予測が当たっている。
踊りが下手くそで「エイラ」が恥をかくのは構わない。その正体がエイルであるとばれるよりは――貴族たちは彼のことなど知らぬから、ばれる相手は給仕の少年や侍女たち、ということになるが――何百倍もましどころか、どうでもいいことだ。
しかし、ファドックに恥をかかせることになるのではないか、というのは心配だった。踊りの相手としてはもちろん、結婚の相手などという馬鹿げた噂の前で醜態を披露すればそれはファドックとキド伯爵の恥にはなるまいか。
「何を下らぬ心配をしている?」
全て、見抜かれている。
「お前のやるべきことは何だ」
(――シュアラを守ることです)
「判っているなら、いい」
華やかな舞踏曲が流れはじめた。王子と王女は華麗かつ完璧なるステップで踊りの輪の中央に進む。ファドックのそれも貴族たちのなかで引けを取らなかったが、無論、エイルはそうはいかない。
「慌てるなと言っているだろう。――そう、後ろにさばいた足にもう片方を持っていく。横に行くときも同じだ。教えたろう」
地面に足を擦るように素早く動かして、まっすぐな姿勢を保つ。確かに、体術の足さばきの基礎だ。それに気づくと少し余裕が出る。
「――砂、ばかりですよ、シャムレイは」
隣で話しながら踊っているリャカラーダの声も聞けるようになってきた。
「北方陸線からの距離はここアーレイドとそう変わらないでしょう。しかし、シャムレイは熱砂の街です。
大河を挟めばすぐその先です、と王子は言った。
「まあ。……こんなことを言ったら殿下は笑われるかもしれませんけれど」
「笑うものですか」
「わたくし……
「ここは、遠いですからね。砂漠からの熱風の代わりに、潮風が吹き込む。私は旅をはじめるまで海を知りませんでした。王女殿下にしてみれば、馬鹿げた話でしょう?」
「そんなことはございませんわ。そうね、そうなのだわ。異国というのは……異なるから異国というのですもの」
「殿下は理解がお早い。海岸線に暮らす人々はたいてい、私の話を笑います」
「笑うなんて、いたしませんわ。わたくし、生活が違えば持っている知識も違うと……最近、判りましたの」
ちらりとエイルの方に視線がきた。少年はにやりとするのを堪える。
「ここはいいところですね」
リャカラーダは何気ないように言った。
「街の名も美しい。――
心臓が、跳ねた。
「――平気か?」
(だ……大丈夫、です)
そっと尋ねるファドックに必死でうなずく。
「王子殿下は魔術の言葉にもご堪能でいらっしゃるのね。ええ、アーレイドは翡翠」
「不思議ですね、このあたりで翡翠が採れるとは聞きませんが、かつてはあったのですか?」
「いいえ、ありませんわ。ただ、美しい玉が伝わっていますの。南方からそれを持ちきたものがアーレイドを作ったと言われております」
「建都の礎という訳ですね」
エイルは深呼吸をした。ただの、世間話だ。シュアラもそのような話をエイルにしたではないか。
「美しいのでしょうな」
「ええ、それはもう。儀式のときにだけ取り出すのですけれど、アーレイド王家の者以外には見せられぬしきたりなのが残念ですわ。見せたいと思うこともありますもの」
「私も」
呼吸がとまった。
「……セリ?」
「見てみたいものですな、その――」
「どうした、顔色が――」
「
閃光が走った。目の前が見えなくなる。
(これは何だ?)
ファドックに触れられたときの比ではない。
全身の力が脱ける。踊りを続けるどころか、立っていられない。
(これは何だ?)
世界が真っ白になる。
(俺だけか? 誰も感じていないのか? これを――)
(ファドック様も、この王子殿下も!)
(翡翠は)
(呼ぶ)
(その声に惹かれて――集まってくるものが)
「――エイル!」
その名は、周囲には聞こえないように小さく、だがはっきりと囁かれた。すうっと彼の世界は豪奢な大広間に戻ってくる。
「す」
(すみません、俺)
そのまま座り込みそうになったエイル少年をファドックがしっかりと支えた。それでも強烈な
「――ファドック?……まあ……エイラ、どうしたの。真っ青だわ」
「何でも……」
掠れた声は、少女のものにしては低くても、不自然ではなかった。
(何でもありません)
「悪かったわ、お前は慣れていないのに、私が無茶をさせたのね。それとも体調が悪かったの? それなら、言ってくれればよかったのに」
シュアラの声がおろおろとしているのが――こんな状況なのに可笑しかった。
「まあ……どうしましょう。……リャカラーダ殿下、私を無調法とお思いにならないでくださいましね。ファドック、エイラを休ませて。わたくしも参ります」
震える足で何とか立ちながら、エイルは願ったりだ、と思った。
ファドックはシュアラをリャカラーダの腕に預けたままで傍を去る気はないだろうし、かと言ってエイルを放り出しておけるほどには薄情――かもしれないが、この状態の彼を抱え続ける訳にもいくまい。
(どうやら……『遊び』はおしまいってことに……なりそうだな)
(有難い――こった)
居並ぶ面々の好奇に満ちた視線など全く気にならなかった。震える足で歩みを進めることが精一杯の彼は、それどころではなかったのだから。
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