第2章

01 ちょっとした意趣返し

 何だか、不思議な夢を見たような気がする。

 エイル少年はぼんやりと寝台から身を起こした。

 まるで人形師トラントが見せる冒険活劇のような、同時に吟遊詩人フィエテの歌う伝承のような。彼は胸をどきどきさせ、同時に切なくなり、何かとても大切なものに出会ったような気がする。

 だが判らない。何も覚えていなかった。

(何だったにしても)

(ただの夢だ)

 大きく伸びをすると高さのある寝台から勢いをつけて飛び降りる。眠る前に心に決めたことがあった。それを実行するために、約束の場所へ行かなくてはならない。

「――あら」

 驚いたような声があがった。

「珍しい。早いじゃない」

「おはようさん、レイジュ」

「おはよう。いっつも、シュアラ様への礼儀を習うのなんかご免だとばかりに、ぎりぎりにくるくせに。まだカラン茶が入らないわよ」

「それそれ」

 エイルは勢い込んだ。

「頼みがあるんだ」

「何よ」

 侍女は警戒するように言う。

「後ろ指さされるようなことはしませんからね、私は」

 少年が何をさせると思ったのか、レイジュはつんと顔を逸らす。

「違うさ、それどころか褒め称えられることだと思うね」

 エイルは真顔で言った。

「もう一度、きっちり教えてくれ。礼を失さない程度の最小限のやつじゃなくて、徹底的に、王女殿下がぐうの音も出ないほどの礼儀作法ってやつを」

「……あら」

 また驚いたように、レイジュは言う。

「どうしたの? どういう風の吹き回し?」

「ちょっと、シュアラに腹が立って」

「いつものことじゃないの」

「そうなんだけどさ」

 エイルは肩をすくめた。

「ささやかな抵抗っての? 敬意の念とかじゃなくて、姫さんをへこませたくて完璧にしてやろうって思ったのさ」

「それってエイル」

 レイジュは呆れたような顔をした。

「ちょっと歪んでるわよ」

「何でもいいから、頼むよ。言葉遣いも、これは完璧とはいかないだろうけどさ、シュアラが文句を言う箇所を探さないといけない程度に」

 元気のいい、下町の、荒れた言葉を使う少年を王女が――怒りながらも――気に入っているらしいと言うのなら、そうでなくなればいい。そうすればシュアラもエイルに「飽きる」かもしれない。

 だが少年は、そんなふうに計算して考えたのではなかった。レイジュに言った通りに、ちょっとした意趣返しのつもりだ。エイルが入室の礼から見事にこなしてみせたなら、シュアラは何と言うだろう? 単純に、よくできるようになったわ、と喜ぶだろうか? それならそれでもかまわない。エイルが腹を立てていると言うことに王女が気づかずに喜びなどするなら、その「素直さ」にこっちは胸がすく。

「いいわ、ちょっと面白そうだものね。それじゃエイル。ううん、エイル殿セル・エイル

 レイジュは「侍女」の顔をしてみせた。

「よろしければ少しお話をいたしませんこと?」

 シュアラの子供じみた言動に腹を立てるなど、それこそ子供じみている。エイル自身ファドックにそう言ったその気持ちに変わりはなかったが、それでも腹が立つのは抑えられなかった。

 あんな母が彼は好きだし、見たことのない父も同様だ。シュアラが彼らを馬鹿にしたのではないことは判っているつもりだが、それでも許し難い一線というのがある。彼にとっては、これがそれだった。

「ええと、それでですね」

「ええと、は要りませんわ、エイル殿」

 レイジュは手を口に当ててくすくす笑った。笑い方は普段と同じでも、ちょっとした仕草でより上品に見えるものだと、エイルは感嘆する。

「ええと、ああ、いや、その」

「焦ることはありませんわ、一両日中に身に付くものではありませんもの。これまでも、エイル殿なりに丁寧にお話になっていらしたのでしょう、それをお続けになればよろしいのではございません?」

「そうかも……しれませんけど、レイジュ……レイジュ殿セル・レイジュ

「女性には、セリと言われるといいかもしれませんわ」

レイジュ嬢セリ・レイジュ

 エイルは笑いを堪えて咳払いをした。

「俺……」

「私、と言ってみられるのはいかがかしら」

「わ」

 今度こそエイルは笑いそうになって、だか何とかとどめる。

「いいでしょう。やってみます」

「そう、その意気ですわ」

 こんな調子で過ごした朝は、昨夜の対ファドックよりも疲れてしまった。

 エイルは肩を凝らした人間がよくするように腕や首をもみほぐしながら「昼の戦場」に向かう。

「ようエイル、聞いたぜ」

「昨日は、派手にやらかしたってな?」

「何だよ、別に派手なことなんて何も」

 厨房の面子に開口一番そんなことを言われ、エイルは言い返した。

「そうかあ?」

「姫さん怒鳴りつけて城をおん出て」

「んでファドック様に抱え上げられてここまで運ばれたんだろ」

「それ、変な誇張が入ってるぞ」

 エイルは顔をしかめた。

「これまで以上に声を荒らげた記憶はないし、第一、俺はちゃんと俺の足で帰ってきたよ」

 一度、抱え上げられたことは事実だが、そんな話をするつもりはない。彼の誇りにも関わるが、思い出したくないと言う方が大きい。それは誇りに関わると言うより、思い出せば奇妙な動悸が伴うに決まっているからだ。

「今日は必死で働けよ、お前がいなくたって厨房は回るけど」

「一言もなしにさぼる奴がいると、トルスの機嫌が悪くなるんだよ」

「調理場で機嫌の悪い彼は、怖いよ。下手をすると包丁を振り回しかねないからね」

「ああ、一度あったなあ」

「あんときゃ、騒ぎだった」

 調理人たちは口々に笑って厨房へと向かう。エイルも慌てて支度をするとそれに続いた。今日は遅れる訳にはいかない。

 どうやらトルスからはじろりと睨まれただけで終わり、だがエイルは謝罪と昨夜の礼を兼ねて懸命に動いた。これは、何もちょこまかと動き回るのでなく、一度も注意を受けぬような働きぶりをしてみせる、ということだが。

「おい、エイル」

「はいよっ」

 てきぱきと動いていると、トルスの声がかかる。

「何? 何か足りない? 倉庫から取ってくっか?」

「いや、大丈夫だ。元気だな」

「昨日の分を取り返さないとね」

「いい心がけだが、ほどほどにしておけ」

「平気さ」

「ふむ。ひとついいことを教えてやる」

 大柄な料理長は少年の顔の高さまで少し身をかがめた。

「こっちが一段落ついたら、お前はその白い調理着を脱いで、ヴァリンのとこに行くことになってんだ」

「げっ」

「だろ? ここで体力使い果たすと、次が困る。お前のやる気は判ったから、いつもの調子に戻れ」

「……そうする」

 料理長はそう言うと、火から目を離すな、とウィーディーを怒鳴りつけて少年のもとを離れる。

 今日は長い日に、なりそうだ。

 エイルはそう思うと同時に少し安堵した。

 昼飯のあとでヴァリンの説教、そうして今度は夕飯の支度、となれば、ファドックに遭遇する間は――あるまい。

「きたね、やんちゃ坊ず」

 ヴァリンは、エイルにすっかりお馴染みとなった、両手を腰に当てた姿勢で少年を出迎えた。

 これはどうやら、いい実践の機会だ。少年は生唾を飲んだ。

「姫様に、ずいぶんと無礼な口を利いたらしいね、このひよっ子は!」

「申し訳ございません」

 この第一声は、明らかにヴァリンの勢いを削いだ。このような応答は、ヴァリンの希望にはともかく、予測にはかけらもなかったはずだ。がっしりとした女中頭は振り上げた指の先をエイルに突きつける手前で、とどめた。

「……ふん、今日はやけに殊勝じゃないかい?」

「私が」

 言いながら、笑うな、笑うな、と自分に言い聞かせる。

「間違っておりました。あのような子供じみた振る舞いをするなど、心から恥ずかしく思っております。どうか……寛大なご処置をお願いしたく」

 レイジュの言葉が耳に蘇る。

(よろしいですか、エイル殿)

(もし、貴方が『言ってはならぬこと』『言うべきではないこと』を口にされたくなりましたら、正反対のことをお考えなさいな)

(まあ、嘘をおつきなさいなんて、申していませんことよ)

(〈気紛れ妖怪シャック・ハック〉の真似でもしていると思えば、ご自身の舌先三寸に呆れずに済みますわ)

 どうやら侍女はそうやってシュアラの仕事をこなしているようだが、この助言は役に立った。つまりエイルとしては、自分は何も悪いことはしておらず、子供じみているのはシュアラの方で、自分が嫌ならクビにしてくれて結構だ、と思っていることになる。

 こんな調子でヴァリンに対して見せたところ、小言は思ったよりも早く終わった。ただの練習のつもりだったが、それはどうにも予想以上の効果を呼んだようだ。

 ヴァリンは大人しいエイルに拍子抜けしたような顔をしたあと、いい心がけだとばかりにうなずいた。本当ならばまだまだ姫様の前に出られるほどではないけれど、というようなことはつけ加えられたが、エイルが前向きに努力していると知って――思って――褒めることこそしないものの、その怒りは和らいだのだろう。

 おかげで夕刻前に時間ができた。さて、どうしよう、とエイルは迷う。

 これまでならばファドックかイージェンが剣を教えてくれないかと中庭でもふらりとするところだが――いまの彼はファドックを避けたい気持ちになっていた。

 ファドック・ソレスを慕わしく思う。

 恋情の類ではない。少なくとも彼自身にはそのようなつもりはない。だがそれでもこの気持ちは奇妙で、頭で考えるとどうしても「クジナの恋なのでは」という方向にしか行かない。

 そうではないと彼の心――それとも魂――は知っているのに、それは頭には伝わらないのだ。エイル少年は、その身体の――それとも、やはり魂の――内に抱くものをまだ何も知らないのだから。

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