8話 私だけの大気圏の向こう側にあるもの
唯の頬がほんのり火照っている。白地に黒の斑がついた牛を彷彿させるパジャマを着ていた。
「おまたせ」
唯はそう言いながらグラスに注がれたミネラルウォーターを勉強机の椅子に座るメグミに手渡した。唯は自分の分を持ってベットに腰掛ける。
久しぶりにメグミは唯の家に泊まりに来ていた。
夏に来たときにはなかった、北極星を中心とした北天星座と全天星座学名が金箔で表示されている夜光大星座ポスターが壁に貼られていた。部屋の電気を消すと星が光り、星座が浮かび上がるらしい。天体観測するとき、大型星座早見表として使っているそうだ。
ありがとう、と言ってメグミは一口呑んだ。本当は林檎ジュースの方がうれしいんだけどなと思いながら。
一緒に星をみようと言いだしたのはメグミだった。けど、泊まりに来るよう誘ったのは唯だった。
彼女に兄弟はいない。以前は弟がいたけど、小学四年生のときトラックと正面衝突して跳ね飛ばされ電信柱に頭を強くぶつけ二度と目を開けることはなかった。見通しのいい道で、トラックも制限速度で走っていた。弟が飛び出したらしいが、くわしいことは聞いていない。
飲みかけのミネラルウォーターを机の上に置き、メグミは唯の隣に座った。
唯は両手で包むようにグラスを持ち、ゆっくり傾けながら少しずつ飲んでいる。口に入った水が喉の奥へと行き、リズムを刻みながらお腹の中へ入っていく。ときどき息を吐くとグラスのふちが曇る。唯の目がメグミに向く。メグミをみながら一気にグラスを傾け飲み干し、口からグラスを遠ざけると右手の甲でこするように口を拭った。
弟が亡くなってから唯は少し変わった。口数が少なくなったのは当然として、どこか遠くへ行ってしまったような感じがある。
引っ越したとか、月の裏側やアンドロメダ大銀河まで跳んでいったとか、そんなんじゃない。目の前にいる、すぐ側にいるのに存在が希薄に思えるときがあるのだ。影が薄い、という表現とは少し違う。一緒に話をしていても一人で話をしているような感じになる。秋になると魂の抜け殻のような人形、みたいに唯が思えてしまう。
唯本人にも自覚があるみたいで、急に足下の重力が弱くなった気がする、と口にするときがそうらしい。
そんなとき唯は、一人でいるのがたまらなくこわくなるらしい。
誰かに手をつないでいてくれないと安心できなくなる。
親指の爪をかみ始めたら危険信号だ。
「なにか、顔についてますか?」
うん、目と鼻と口が、
「眉毛は?」
ちゃんとついてる、安心して、
「安心しました」
唯は笑った。
メグミは電気を消し、唯と窓際に立った。ブラインドのエッジの角度を変えて、外を見る。ひとつ、ふたつ、と星がみえる。小さい光、小さいけど強い光、あの星がどういう名前でなんという星座に属しているのか、正直言ってわからなかった。
唯はポスターの星座を使っていると言ったが、北極星が中心になっている星図は向きも変えられず、南窓からだと見づらくて仕方がなかった。
夜空の星と星図の星が重ならない。
ひょっとしてあの星は、行き場を忘れた迷い星かもしれないとメグミは妙なことを考えてみた。
星図にも天文学者でさえ、その存在が知られていない迷い星がいくつかあって、そのうちのひとつがあそこに輝く小さな光だ。星は誰かに見付けてもらいたくて、僕はここにいるよ、と言う変わりにまたたいている。観測者と星が向かい合ったとき、その星の存在は認められるんだ。そのためにも観測者は見上げることを忘れてはいけない。
唯に思いつくまま言うと、
「それが本当ならあの光はさびしい光ね」
と呟いた。
学校の宿題とはいえ、面倒な宿題だなと思いながらメグミは唯に相談したいことがあったんだと思い出した。クラスのみんなと一緒になって、大輝勇の悪口を言ったことについてだ。悪口を言ったことに対して自分を責めてはいない。周りの雰囲気のせいにして自分の意見を自分で無視したこと、自分に嘘をついたことが情けなかった。唯はこんな私をどう思うのか聞きたかった。
唯をみると右手の親指を口に付け、爪を噛んでいた。爪を噛むのは自分の存在、自分がここにいるんだと自分に教えるための行為だ。ほっておくと血が出ても噛み続けてしまう。
メグミは、唯のその手を握るように両手で包み、ゆっくり口から離した。
唯は弟が死んだのは自分のせいだと思っているらしい。
以前、彼女の母親から聞いたことがあった。
なくなる数日前、些細なことで喧嘩した。
それはどんな兄弟でも一度や二度はする、兄弟ならではの喧嘩だった。
唯はしばらく弟にかまうことすらせず、無視続けていた。
本当はさっさと謝って仲直りしたいと思っていたのに、そして事故。
弟の死を前にして、弟に言うべきはずの言葉がついに言葉として弟に届けられることはなかった。
くだらない意地の張り合いで、胸の中の言葉は言葉になることもできず、今も唯の胸の中に残っている。
その言葉がときどき記憶として思い出させる。
そして唯が唯自身を責めてしまう。
どうしてあのとき私は素直になれなかったのだろう。
どうしてあのとき私は弟に喧嘩したのだろう。
どうすることもできない行き場のない言葉がひとつひとつ胸の中で生まれては未成熟のまま腐敗していく。
病院に行ってカウンセラーを受けさせた方がいいと思う、メグミは唯の母親に言ったことがあったが、唯本人が大丈夫だから、と言って行くのを断ってしまった。
一時間くらい星をみてから、今日はもう寝ようよ、とメグミが言うと唯は小さくうなずいた。メグミの手をしっかり握りしめて。
唯のベットはセミダブルで二人寝ても充分な大きさだ。その周りには一緒にゲームセンターに行って取ってきた犬や猫のぬいぐるみやアニメやゲームのキャラクターものとかの人形が並んでいる。
「寝るときはいつもこの中からひとつ選んで抱いて寝てるの」
今夜は私が一緒だよ、
メグミはそう言ってベットに入り、唯に向かい合うように横になった。
唯の顔を見たときどうしてだか笑ってしまった。唯の笑顔をみたからかもしれない。
「メグちゃん、いつも迷惑かけて悪いと思ってる、秋になるとモミジが紅葉するようにイチョウが太陽の色に染まるみたいに自分でもどうしてだかわからないくらい弱くなっちゃう。でも数週間過ぎるとケロッといつもの私になるんだから」
「はいはいしかできなかった赤ん坊がね、自分の足で立って歩けるようになるとき、両手をね、上にあげてバンザイの格好で親に向かって一歩いっぽ進んでいく。親元に少しでもはやくたどり着きたい、触りたい、抱きしめてもらいたいから、腕を前につきだして歩くんだよね」
唯は恥ずかしそうに言いながらメグミに小さく手を伸ばす。ゆっくりメグミの背中に腕をまわす。側によってメグミの胸元に頭を埋めた。
「心音が聞こえるよ、メグちゃんも、私と同じ、トクトクトクトク、はやいね」
「そういえば、なにか、話があるんじゃなかったの?」
今日はいい、今度にしよう、
「私が、甘えてばっかりだから」
そういう日もあるよ。そう言ってメグミは唯の頭を軽く抱きしめた。
時の流れが、心を癒すと、誰が言ったんだろう。
時間がすることは、ただ忘れることだけだ。
忘れることはなにもない。
忘れていいこともなに一つない。
忘れようとするからつらくなる。
しっかりと今を憶えておくこと、それしか人にできることはないのかもしれない。
壁に掛かっている時計が刻む秒針の音が、メグミの耳にはやけに大きく聞こえた。
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