5話 空をみると帰ることのさびしさを考える

「白線までおさがり下さい」


 見知らぬ声に胸が騒ぐ。

 線路沿いの路を歩きながら駅のホームに目を向けた。

 ベンチから立つ学生、待合室から出てくる背広姿の人、携帯電話で話中のスーツ姿の人、詰め襟を着た高校生達。電車が来る前の風景はおもしろい。

 横一列に並んで立つ様はいつかテレビで見た不祥事をしでかした大人達が、申し訳ございませんでした、と並んで頭を下げる瞬間に似ていた。


 はじめに「謝る」ことを日常会話のようにしてしまったのは誰なんだろう。


 人に頭を下げるということはどういうことか、手とひざを地面につけ、深々と頭を下げながら周りにいる人達に聞こえるように大声で言い、額を地面にこすりつけ血がにじむまで、ときに割れて真っ赤な血を流すまで何度も何度も額をこすり、叫ぶ。周りのみんなが「よし」と許すまでくり返さなくてはいけない屈辱的な行為だと思う。

 そんなこと誰もしたくない、頭を下げるなんて嫌だから、後で謝ることなどしないような行為をする。隠蔽工作だとか開き直りだとかじゃないやり方で。潔さがないから、頭下げる人達は醜い。電車がホームに入り、醜い人達をどこかへと運んでいく。一番あの電車で運ばれなくてはいけないのは自分だ、とメグミは思った。


「追試はこの前の問題とは違うっていってたじゃない」


 隣を歩いている前田唯が言った。

 学校を出てからひと言も話さないことに心配しての言葉かもしれないと思ったが、追試のない人に言われてもイヤミにしか聞こえなかった。

 唯はメグミより頭がいい。

 テストの結果だけじゃない。

 メグミのいい加減な話につき合うばかりか、理解もしてくれる。


 犬の顔をじっと眺めてるとね、目の上あたりの毛が眉毛にみえてくるんだ、意識を消さないように犬の顔全体を視界に入れる、その犬がとんがる耳の先からしっぽまで鮮やかな、降り積もったばかりの雪のような色をしていたときなんかとくにそう思うんだけど、急に歳をとった老犬にみえてくるんだ、そう思ったらもうおかしくておかしくて笑うしかないんだよね、


 そういう話をメグミがしたとすると、彼女は決まって、わかる、なんとなくだけどわかるよと応えてくれる。

 口癖ではなくて、本当にそう思ったから彼女はそう応えてくれる。

 違うことを思ったら素直に、そうだけど違った見方もあるよと教えてくれる。

 やまびこのように言ったことにすべて賛成してるわけじゃない、メグミの言葉を一度のみこんで、消化して、彼女の言葉で応えてくれるのだ。

 ただ応えてくれるまで少し時間がかかる。

 あごの上下運動をくり返しくり返しておこわを食べるみたいに。

 その時間が長ければ長いほど話を理解しようとしている目安になる。

 頭がいいというより、人の話をじっくり聞く子だ。だから勉強もよくできるのかもしれない。

 メグミは嫉妬しているわけじゃない。

 憧れてるのでもないけど、うらやましいと思うときがあるのは本当だ。


「キンモクセイの匂いがする」

 唯が言った。


 香りが風に運ばれて鼻に届く。いい香りだ。よく芳香剤に使われているこの匂い、私は好きだな、夕焼けの匂いに似ている。

 唯に振り返り、メグミは応えた。


 夕日を浴びる彼女の瞳はメグミをみていた。メグミだけをみているその目に、太陽をいっぱい浴びてふっくらした洗濯物みたいなふんわり暖かさをみつけた。

 キンモクセイは匂いをみつけたと思ったころには花が終わっているほど、散ってしまうのか早い花らしい。まるで流れ星のようにあっという間の出来事、名前もどこか星みたいだ。どこかの家の庭先で、咲いている香りが風に乗せられてきたのだろう。

 辺りに漂うキンモクセイの匂いを掻き集めるように深く息を吸い込む。

 

 キンモクセイって好きなんだ、


「私もです」


 彼女の声は風に運ばれる匂いのように私に届いた。右手を差しだし、唯は軽く握ってくれた。少し冷たい指先を暖めるように握り返した。


「あったかいね、なにか悩み事?」


 そんなんじゃないの、大輝勇君、知ってるでしょ、


「クラスメイトだからもちろん、昼休みに屋上にあがっては両手を空に掲げているのは宇宙人と交信しているからだとか、ただ単に頭がおかしいんじゃないのか、みんないろいろ好きかってな噂を広めてますし」


 その噂よ、どう思う?


「信じてるかどうかということ? それなら信じてはいないとしか応えることはできないです。噂が出るということはなにかあるのかもしれない、でも大概は勘違いのことが多いでしょうね。人の噂はキンモクセイと同じです、あるとき突然どこからか匂いがしてくるのに、いつの間にかその匂いはどこへやら。その匂いが大輝君にとっていいものかどうかは、また別のことだと思います」


 そうだよね、そうなんだよね。唯の言葉はいつも柔らかくシンプルだ。言葉の中にまっすぐ、芯が一本、入っている感じがする。


「メグちゃんはどう思ってるんですか?」


 大輝君に聞いてみたんだ、本当に未来なんかみえるのかって、半分冗談のつもりだったんだけど、大輝君みえるって応えて、どうやってみえるのか教えてくれた、頭のこの辺で映像が浮かぶんだって、意識すると声も聞こえてくるって。頭の上あたりを指さして私は言う。唯は黙って私の話を聞いている。三日ぐらい先までしか未来はみえないって、風が吹くようにいうから疑う気も失せたんだけど、ひとつ私の未来を教えてって頼んだら、放課後に私が大輝君と追試の勉強してるって言ったんだよ、


「それで彼の言ったとおりになったんですか?」


 メグミは、少しためらいながらうなずいた。

 頭の中で先日のことが、ヴィジョンとして浮かび上がる。教室と夕日と机、ノートとテキストと向かいあう彼。一瞬だったかもしれない、もっと長い間だったかもしれない。わからないけど身体の中のなにかが引き締められ、思わず唯とつなぐ手に力が入る。彼の顔がはっきり浮かんだから。


 未来は誰にでもみえる、その途上にいるときにみえるんだって、メグミがそう言うと唯は黙り込んだ。黙りながら彼女は考えていた。

 キンモクセイの香りがいつの間にかなくなっていることに気がついたとき、


「彼は正しいことをいう人ですね」


 唯はそう言った。


「未来はすでに決まっているものではないと思う、変わっていくものだし、自分で作っていくものだと私は思う。言葉は嘘をつかない、言葉はただの言葉、意味はない、けど人は嘘をつく、人の使う言葉も嘘をつく、未来がなくなったとか、未来を捜すとか、明るい未来が待ってるとか、そういう言葉は核廃棄物処理と同じくらい嘘、なにかを目指している人にとってその瞬間が未来で、現実で、すべてなんだよ。彼の言う未来って、そういうことなのね、それなら誰にもみえるはずよ、途上にいればね」


 メグミはよくわからなかった。

 唯の悪いところは簡単に理解できないことを、さらりと言ってしまうところだと思う。メグミの頭の回転が遅いだけかもしれない。未来は未来、まだ来ていない今日のことじゃないの。来てないものがなんでみえるんだ、みえるわけがないじゃない、やっぱりアイツに騙されてるのかな、からかわれてるのかな。


「メグミちゃん、空気って何色だろうね」


 色なんてないじゃない、


「空は何色なんだろうね」


 空は、青だったり赤だったり、青と言っても真っ青もあれば薄い青もあるし、赤と言ってもピンクだったりだいだい色だったり、限定はできない、


「どうしてそんな色になると思う?」

 

 太陽のせいかな、太陽が機嫌がいいときはきれいな青空で、怒ってるときは赤くなるとか、それとも地球の我が儘で青になったり赤くなったりするのかな、


「そうかもしれないね」


 ほんとにそうなの?


「さてどうでしょう、間違ってるといったら間違ってます、テストでそんな答えを書いて許されるのは幼稚園までかもしれません、太陽の光が空気中の水蒸気、酸素や窒素、チリやホコリにぶつかっていろんな方向に反射され波長の短い青い光が空の色として目に映るんです、光の散乱せいです。ぶつかるものがなかったら空は真っ黒になってしまいます。ぶつかるものが大きくなると白くなります。夕日が赤いのは青い光が散乱されてしまい波長の長い赤色が目に届くわけです。未来も同じです、私達は周りに存在している空気、まだ目にみえる色を持っていません、そこにひとつの光、目標を照らしてみると色がつく、その光はいろいろぶつかり合って、長い道のりをかけなくてはみえてこない、その途中に私達はいる、目標さえ失わなければ、未来はみえるはずです」


 唯の話は少し難しくて、ちょっと興味を引かれた。

 自分の未来は何色にみえるのだろう、どんな未来がみえるんだろう、とにかく歩き出さなければ未来は少しもみえないんだ、大輝勇の未来は何色にみえているんだろう、メグミはなんとなく気になった。


「けど私はメグミちゃんのそんな考えの方が愉快ですね、私は好きです」


 そうかな、


「そうですよ、メグミちゃんの考え方はとっても大切だと思います、私も見習わないと」


 なんだか照れるな、照れるとどうして笑顔がでてくるんだろう、不思議だね。

 建物の向こうの赤い空をみながら、電車と街の音に包まれて、メグミは唯と一緒に歩いた。


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