後朝(きぬぎぬ)
その週末が明けた、月曜の早朝。
俺は、テーブルにランチボックスを二つ並べ、出来上がったおかずを詰めていた。
金曜、五十嵐さんに焼肉屋へ連れて行ってもらった分のお礼である。
調理そのものは、今のところ滞りなく進んでいる。
だが——俺の脳は、ふわふわと地面に足が着かないような浮遊感の中を漂っていた。
だって、そうだろう。
誰もが憧れる完璧な男前に情熱的に抱かれたりした翌朝には、むしろ平常心でいられる方が異常じゃないか?
ぶっちゃけ、彼はここへ2泊していった。
近所のショッピングモールでとりあえず必要な生活用品や簡単な着替え等を仕入れてしまえば、どうということもない。
あの破壊力半端ないキラキラスマイルを零しつつ「ね、いいだろう?」などと屈託無くねだられては……というか、俺も特に断りたい理由などないのだし。
つまり……丸二晩、俺は檻から放たれた獰猛な狼にひたすらがっつかれた……ということになる。
日曜の朝に帰っていく彼の艶めく麗しさに、光源氏を見送る姫の切なさをふと実感したりしている俺も大概だが。
同性間のセックスなどありえないというような発想は、こうしてみると随分と不自由で幸福度の低い固定観念だ。
惹かれ合う個体同士が結ばれる瞬間というのは、健康な生物ならば間違いなく互いに興奮するし、触れ合えば気持ちいい。
ただ、男子同士はいろいろ準備が大変だったり抱かれる側は最初はまあまあ痛かったりもするのだが……それだって、大きく捉えれば幸せの一部だ。
実際、彼は俺の身体を心配しすぎるほどに気遣い、変な無理強いは一切しないでいてくれる。獰猛な狼であろうと、優れたオスというのはやはりかっこいいのである。
男だけど抱かれる側という点は、俺的には特に疑問を感じない。
俺が彼を抱く、という選択肢は自分の中になかった——というそれだけのことで。
深く愛される喜びというのは、これほどに甘く、幸せなものなのだと——
ぶっちゃけた話、俺は未だにその衝撃から抜け出せずにいる。
彼の指と唇が、肌を辿る。
その奥の俺を、必死に探し出そうとするかのように。
だから俺も——躊躇うことをやめて、全てを明け渡す。
その指と、唇に。
彼は、まるでいつもとは別人のように、その想いを全力で訴える。
スマートで端麗な表情も、鋭利な思考も、一切かなぐり捨てて。
ただひたすら——溶けるほどに熱く。
彼が、そんなありったけの想いで俺を溶かそうというなら……
俺も、どこまでも溶かされたい。
彼が俺に届けたいと言ってくれたその想いを、一雫も零さずに受け止めたい。
それこそが、恐らく彼の幸せであり……間違いなく、俺の幸せだ。
シャワーに立とうと身体を動かせば事後の痛みは激しいし、改めて鏡の前に立ってみれば全身あちこちに紅色の痕が残っている辺りなど、恋愛経験ほぼゼロの男の体験としてはなかなかに刺激の強いあれこれだったこともまた間違いないのだが。
そんな時間を経て初めて、俺は本当に彼を手に入れ……そして、自分が本当に彼のものになったのだと。
そんなことが、実質的な意味を持って脳に理解された気がしている。
でなければ、あんな完璧な王子が自分の恋人だとか、マジで信じられないし我ながらどうにも納得がいかないのだから。
相手の体温を、深く自分に刻み——自分の体温で、相手を包む。
互いに互いを受け入れ、想いの重なり合う幸福感を味わう。
誰が何と言おうと、俺たちは、幸せだ。
これだけは、決して誰にも否定などできない真実だ。
不意に、足元でぐしゃりと不穏な音がする。
「————あー、今度は卵落とした〜〜……」
実は、さっきから皿やらグラスやらを取り落とし、結構な被害が出ている状況だ。
二つ分のランチが完成するまでに、あと何をどれだけ割るのだろう??
*
その日の昼休みが来た。
今日は向かい側の五十嵐さんを意識しすぎることもなく、想像していたよりも落ち着いて仕事に集中できた。
彼に最初に告られた時のバクバクと比べると、随分と平常心が保てていて驚きだ。
照れや気恥ずかしさやそういうものが、何か穏やかな安心感に包まれているというか……初めて味わう、とても不思議な感覚だ。
いつもの小さな遊歩道のベンチに並んで座ると、五十嵐さんは遠足の小学生さながらにランチボックスを幸せそうに開けた。
「お〜〜〜、今日のも半端なく美味そうで思わず言葉を失うな!
いただきますっ!!」
なんだか褒められすぎてちょっと照れる。
今日のメニューは、だし巻き卵、牛肉となすの味噌炒め、ブロッコリーとベーコンのソテー、蓮根のきんぴら、ほうれん草の胡麻和え。
あの後は特に割ったものもなく、なんとか無事に作り終えた。
「君に胃袋を掴まれるのが夢だったんだ。とうとう叶った」
わふわふと箸を進めながら、そんな言葉が混じる。
マジで意味がわからない。
思わず笑ってしまった。
「——いい天気ですね」
「ああ。本当に」
ちょっと箸を止めて、春真っ盛りの青空を一緒に仰いだ。
ふと、彼が何かを思い出したようにクスクスと小さく笑う。
「……どうしたんですか?」
「いや。
そういえば君は、今日は以前のようなぶっ飛んだ挙動不審には陥っていないんだな、と思って」
そんなことを言いながら、彼はどこかいたずらっぽく俺を見る。
「ええ、そうですね。俺も不思議なんですが。
なんていうんだろう……なんだか、そんなにビビらなくても大丈夫、みたいな……そんな気がして。
気持ちのどこかが落ち着いて、安心してるんです」
「——そうか。
君がそうやって穏やかに笑っていてくれることが、俺にとって最高の幸せだ」
彼が、俺を見つめて温かく微笑む。
彼の心の中がそのまま溢れ出してくるような微笑に、俺の胸が思わずぎゅうっと詰まった。
この人が、こうして優しく微笑んでくれることを知っているから——今日の俺は、ジタバタと挙動不審にならずにいられるんだ。
今やっと、それに気づいた。
一方の彼は、すっといつもの端麗な無表情に戻ったかと思うと、おもむろに手で口を覆いつつ何やらものすごく小声でボソボソと呟いた。
「……え、なんですか?」
「——いいとかいやだとかやめてとかやめないでとか支離滅裂に喘いでた君の声を、仕事中に思い出しちゃって死にそう……」
「……」
……ちょっと待て。
今、何か信じがたいものを聞いたような。
もう一度確認したいが、怖すぎて聞けない。
「君は、夜は随分違う顔になるんだな。
昼間は小学生かと心配になるような初々しさなのに、完全に予想を裏切る綺麗な身体で、あんな風にエロかわいく豹変されたりした日には……そりゃメロメロ化するだろ普通の男は……
あ。いわゆる天然小悪魔ってやつか」
「五十嵐さんほんっっとやめてくださいこんなとこでそういう話はーーーっっっ!!!!」
俺は耳まで真っ赤になり、絶対に反芻してはいけない彼の呟きを死に物狂いでかき消した。
「ははっ、悪かった。ごめん。
でもな……
これは、冗談じゃなく。
本当に、君が俺の恋人になってくれたんだな、と思って」
途中から不意に穏やかになった彼の言葉の意味を少し考え——俺も、静かに答える。
「——なりましたよ」
「嬉しくて、まだ信じられない」
俺も。
この人とまさかこういう関係になるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
けれど……
こうして、隣で美味そうにランチをがっついてくれる彼を見ながら——これからずっとこの人の側にいられることを、幸せに思う。
純粋に、心から。
「——信じられないのは、俺の方です。
あなたみたいなキラキラ王子が俺の恋人とか……マジか?って。
いつまで経っても何だか不思議で」
「……それなら——
いっそ一足飛びに、嫁に来るか」
ランチボックスを空にした彼は、手元のボトルのコーヒーを注ぐと、その湯気を吹きながらぼそりと呟いた。
「……はい?」
「だから……
その——
一緒に、暮らすとか」
「…………
えっ……
つ、つまりそれって……どっ、同棲とかそういうことですか……」
「あーいやいやそういうなんか濃厚なあれじゃなくて!
シェアハウスとか、そんな感じの暮らし方……とかさ。
一足飛びすぎるだろ!って、君は思うのかもしれないが……
……でも、だからと言って無理に別々で過ごすことも、ないんじゃないか?……と」
「…………」
——五十嵐さんの、言う通りかもしれない。
自分のしたいことは、もう決まっているのに——無駄に迷ったり悩んだりするのも、もう別に必要ないんじゃないか。
そんな、何かが不意にすとんと落ち着くような感覚で、俺はふうっと空を仰いだ。
「……いいですね。シェアハウス。
互いの時間の合う時に、一緒にコーヒー飲んだり、一緒にご飯作ったり、一緒にどこかへ出かけたり……。
すごく楽しそうです」
「——ほんとに?」
「はい」
「なら……
部屋、一緒に探してみるか」
「ええ。——あんまり
「——……」
俺のそんな何気ない言葉に、彼は何やら深く感動したように俺を見つめてふるふると打ち震えている。
……なんか俺、今そんなすごいこと言ったか?
「……うん。
そんな場所を探そう。
いい部屋が見つかるといいな」
見上げる空は春の明るい日差しに満ち、若葉が頭上にさらさらと揺れている。
そして……
これから、どんな季節がやって来ても。
俺はきっとこんな風に、いつも変わらない暖かさに包まれながら——
そして、自分の隣を幸せだと言ってくれる人に、ますますたくさんの幸せを届けながら。
そうやって、日々を歩くんだ。
何とも漠然としていながらもはっきりと言い切れる、そんな不思議な幸福感を——俺は、思い切り胸に抱きしめた。
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