苦悩

 何だかんだ言って、気づけば俺の心はあちこちボコボコに凹んでいた。



 側にいたいはずの人には、まともに応えることもできず。

 付き合っていると思い込んでいた相手は、心の奥で別の人を想っているらしく——。

 そんなことに気づいても、人のことなど言えなくて……彼女を問いただすことすらできない。


 どの場面を思い返しても、結局自分自身を責める以外にない、八方塞がりのこの状況。

 胸が詰まって窒息しそうだ。



 佐々木さんの部屋から逃げるように帰ってきた週末が明け——俺は、まるで充電不足のロボットのようにのろのろと出社し、ただ鬱々と仕事に向き合っていた。

 何事も無いかのような笑顔を必死に口元に貼り付け、何とか平常心を装いながら。


 だが、その笑みも、最早ボロボロと顔から崩れ落ちそうだ。



 そうして、とうとう苦痛に耐えかねた、火曜の昼休み。

 俺は、デスクにめり込みそうな頭をふと上げた。



「……そうだ。

 岸本部長と、ランチしてこよう」


 火曜日は、あの穴場レストランで、岸本営業部長がお気に入りのチキンとほうれん草のグラタンを食べている日だ。

 営業部長のような恐れ多いポジションの人を、ランチ友達みたいに考えていいのかどうか甚だ微妙ではあるが……逃げ道を失った俺は、突破口を探していた。

 自分自身では思いつかない方法で壁に穴を開けてくれるような……そんな助けが欲しかった。


 以前一緒にランチをした時にも、岸本部長は俺の零した悩みにしっかり向き合ってくれ、めちゃくちゃ深いアドバイスをくれたのだった。



「——よし。ダメ元だっ」


 俺は、淡い希望と緊張の入り混じる複雑な気持ちで、あのレストランへ足を向けた。









「おお、篠田くん久しぶり! 君にまたいつ会えるかと思ってたんだ」


 既に来店していた岸本部長は、いつもの快活な笑顔で当然のように俺を向かいの席に招く。


「……お言葉に甘えて、相席失礼します」

 微妙に力ない微笑を浮かべつつ席に着く俺を、彼はどこか鋭い視線でじっと見つめた。


「……んー……?

 少し見ない間に、随分と濃いオーラを出すようになったんじゃないか君は?」


「……はい?」

「——っていうか……フェロモンなのかなこれは」


「——……!?」


 部長が唐突に口にするそんな言葉に、俺はあわあわと動揺する。

「ちょ、待ってください部長……ふ、フェロモンて……」

「ははっ、いきなりごめん。

 しかしこうも変わるもんなんだな、いろいろ経験が積み重なっていくというのは……少し前までの分かりやすい君とはもう比較にならない」



「……」


 な、何かフェロモンくさいのか……? 大丈夫か俺??

 それにしても部長、やっぱり勘が鋭い。

 しかしそれは明らかに、それまでの俺が未成熟過ぎたということでもあり……俺は複雑な気分で、何となく視線を落とす。


「——そういう経験って、生きる上で大事なんでしょうけれど……向き合えば向き合うほど、なんだか憂鬱で苦しいことばかりな気がして」


 俺のそんな言葉に、部長は口に運んだグラスの水を置きながら穏やかに答える。


「当然だ。

 そういう痛さや苦さを味わって初めて、人生の中で本当に大切なことが少しずつ見えてくる。そんなものだよ。

 酷くこだわっていたものが実はとんでもなく些細なことだと思い知らされたり、どうでも良かったはずのことが何よりも大切なものだったと後から散々後悔したり……まさに、苦い思いの連続だ。

 そういう大切なことに限って、実際に経験しなければ見えてこない——何とも皮肉なものだがな」



「——……大切なことに限って、よく見えない……

 本当に、そうですね」


 俺は、まるで自分自身のことを言われているような気持ちで、小さく呟いた。



「——で?

 具体的には、どんな経験をどのように積み重ねている最中なのかな、篠田くんは?」


 何となく重くなりかけた空気を破るように、彼は一転して楽しげな微笑を浮かべ、俺を見つめて頬杖をつく。


「……え……

 具体的に、と言いますと……」

「ほら〜ぶっちゃけた話恋バナだよ〜♪ もう君の全身から溢れそうになってるじゃないか、恋のため息が♪♪」


「……」


 部長、すげーニマニマ顔になってますけど……この人普段は厳格モード全開のくせに、実は何気に甘酸っぱい恋バナとか大好きなタイプだな。

 しかし、俺もその辺を聞いて欲しくてここにきたのだ。むしろありがたい。



「……あの……絶対に、ここだけの話にしてくださいね?」

「うんうん、もちろん♪」


 俺は何となく声のトーンを落とし、ボソボソとこれまでの経緯を纏める。


「…………前回の話の続き、という感じになるんですが……

 俺に想いを寄せてくれている人がいるけれど、俺はその人の気持ちに恋人としては応えられない……以前、そんな話をしましたよね。

 そのスタンスは今後も変わらないだろうと、ずっとそんなふうに思ってたんですが……

 どっどうやらここにきて、俺もその人の想いに応えたいと……自分自身がそう思ってることに気づいた、というか……」


「……ほう、そうか……

 そうなのか!!

 よかったな、それはめでたいじゃないか!!」


 目を輝かせてそう祝福する部長の顔を、俺はますます整理のつかない思いで見つめる。

 その相手が同性だという最重要な事実は、やはりどうしても口にできない。


「……でっ、ですが……

 なんだかんだで、俺はその人にちゃんと気持ちを伝えられていなくて……しかも俺、自分の本心に気づく前に、別の人からの告白をOKしちゃったりしてたもので……その……」


「…………は?

 結構面倒なことになってるんだな」

「はい。……しかも、俺を想ってくれているその人の方にも、親から大事な縁談話が来ちゃったりしてて……見合い相手の容姿や家柄やいろいろがまた超ハイクラスで……何より一番あれなのは、その見合い相手本人が誰よりもこの縁談に乗り気だ、という点だったりして。

 なんというか、どう考えても勝算がないと言いますか」


「……」


「おまけに俺が今付き合ってる人にも、本気で好きな人が別にいるようだ、という……そういう事実を、つい数日前うっかり知っちゃった、というか……」




「——……」



 俺の話を終わりまで黙って聞いていた部長は、軽くため息をつきながら、先ほど届いた熱々のグラタンにおもむろにフォークを立てた。


「——なるほどな。

 それで君は、今そんなこってり濃厚なオーラやらフェロモンやらを出しちゃってるわけか」

「そんな鬱陶しいオーラやフェロモンとかいらないし……冗談言ってる場合じゃないんですほんと……」

 俺はとうとうがっくりと肩を落とし、情けなく項垂うなだれた。



「……だがな。

 客観的な観点から言わせて貰えば、それは君が思うほど深刻な大ごとなんかじゃないぞ」



「……え」


 そんなさらりとした答えに、俺は思わず顔を上げて部長を見た。



「今、目の前の事が複雑にもつれているその原因は、君が自分の意思をしっかりと持たないからだ。

 ——違うか?」




「——……」




 五十嵐さんにも、真琴にも——同じことを言われた。


 これまで繰り返し指摘されたそれを、俺は一向に改めることもできず……ただ、無力な自分を眺めているだけ。

 それに気づいているはずなのに……気づかないふりをして。


 その痛みと情けなさが、性懲りもなく深々と胸に突き刺さる。



「君の大きな欠点は、重要な部分できっぱり決断をせず、自分の意思を曖昧に誤魔化してしまうところだ。


 その人を想う君の気持ちが本気ならば——なぜ、その人にまっすぐ本心を伝えない?

 今中途半端に付き合っているその彼女と、なぜズルズルぬるま湯のような関係を続けようとするんだ?


 誰にも本心を見せないことで、結局君は事無きを得ようとしているのかもしれないが——それは大きな間違いだ。

 このまま君が気持ちを伝えられずにいれば、君が想うその人は、当然親が持ってきた縁談の方を選択せざるを得なくなるだろう。深く想う君を諦めてな。

 君の彼女も、君自身もそうだ。お互いに本気で互いを想い合えないまま、大切な時間を浪費していくだけだ。

 ——この状況で、一体誰が幸せになれる?


 このまま君自身が何一つ身動きを取れないならば——そういう結果が待っているだけだ。

 君自身は、どうしたいのか。それをしっかり見極めることだ。

 それさえはっきりすれば——そして、見極めたものに向かってブレることなく進むことができれば、この縺れは少しずつ解けていくはずだ。

 痛い思いをすることを、怖がるな。——君たちが本当の意味で幸せに近づけるかどうかは、ここからの君の行動にかかっていると思うぞ」



 真剣な眼差しで俺を見つめ、部長は明確な口調でそう話す。




「……自分はどうしたいか、見極めて……ブレずに進む……」



「そうだ。

 ——本当は、もう君の中で気持ちは決まっているんじゃないのか?」


 部長は、あっという間にさっきの悪戯っぽい瞳になり、ニッと微笑んだ。




「……あー、悪い! こんな説教臭い話をしている間に、君の大事なグラタンが冷めてしまったな」


「……いいえ。

 ——ありがとうございます、部長」




 ——そうだ。


 俺の気持ちは、決まっている。

 間違いなく。




 だから——


 それを、もう見失わないように。

 そして、俺たちそれぞれが、本当の幸せに近づけるように。

 怖がってる場合じゃない。

 自分に今できることを、全力でやらなければ——きっと俺は、絶対に後悔する。




 俺は、彼の一言一言を自分自身に刻むようにしながら、いつにも増して味わい深いグラタンをじっくりと噛み締めた。








 

 その日の午後。

 五十嵐は、オフィスの奥にある静かな喫煙スペースで、煙草をすうっと吸い込んだ。



 最近、無性に吸いたくなる時があり、欲求に抗えない。

 2年ほど前にすっぱりやめたはずなのに。

 これまで味わったことのない強い焦燥や、不安や……ここしばらく脳内を占領し尽くしている、そんなもののせいだ。恐らく。



 頭上に流れていく紫煙を何気なく眺めていると、ふと微かな話し声が耳に入った。

 誰かが、廊下の奥で何か電話でもしているようだ。




「——そんなこと言って……ハルト、また二股とかじゃないの?

 ……えー? だから。私は今特にそういう人いないって。……うん。

 んー、そうだね……

 ……ん、じゃ。……またね」




 通話を終え、幸せそうな微笑を浮かべて喫煙スペースの横を通り過ぎていったのは——





「————……」




 廊下を行く佐々木の背を、五十嵐は目を疑うかのように見つめた。




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