なに!?

 火曜日の夜。

 俺は、例の作戦会議場でひとり黙々とジョッキのビールを呷っていた。


 五十嵐さんは、終業時刻間際に小宮山係長に呼び出され、期限の迫った案件の助っ人に駆り出されていた。ほぼ出来上がっていたはずの資料に大きな不備が見つかったらしい。

 終わり次第行くから先に適当に飲んでてくれ、と彼に言われていた。


 小宮山さんも五十嵐さんも、1秒でも早く目の前の問題をクリアすべく、研ぎ澄まされた冷静な表情で愚痴ひとつこぼさずにパソコンに向き合う。やはりできる人というのはいざという時に器の大きさが見える。

 というか、小宮山さんに関して言えば最近営業部にいる彼氏の兵藤がベタついてウザイ……という愚痴すら漏らしたりしており、もはやおとこらしいとさえ言える。

 営業部で若手トップの有能なイケメンをウザい呼ばわり……んー、やっぱり俺は小宮山さんの恋人には不適合だったんだろうな、間違いなく。


 早いピッチで機械的にビールを喉に流し込みつつ、もはや今の自分にはあまり関係のないそんなことをグダグダとこね回す。



 ——そうなのだ。

 今考えるべきはそんなことじゃないだろ、俺。



「五十嵐さんと飲みたい」と、昨日彼の誘いに即答した自分の内心を、俺は昨夜改めて自分なりに分析してみた。


 その理由は——

 彼に今の自分の本心を打ち明けてしまいたいという、突発的な欲求に突き動かされたからだ。

 何度思い返しても、そうとしか言いようがない。


 やっぱり俺は、ただ黙って彼と仲林さんの仲がまとまっていくのを見ているなんて嫌だ……そう思っているらしい。



 だって、そうだろう。

 彼の隣のたまらなく温かいその場所を、彼は俺だけに開けてくれていたのだ。

 本当ならば——そこは、俺だけしか座れない場所だったはずなのに。


 五十嵐さんの想いに、恋人という形では応えられない。

 俺の気持ちが、そうやって以前のまま変わらなければ——恋人の座を望む女性に敢えて闘いを挑む気になど、多分ならなかった。


 けれど……

 俺の中にも、彼へのそれ以上の感情が、確かに存在しているのだ。

 それを必死に否定し、誤魔化し、気づかないふりをするのは、もう嫌だ。

 彼が俺に与えようとしてくれたその幸せを、できるならば——今度こそ、ちゃんと受け止めたい。そのふかふかな温もりに、今度こそどっぷりと浸かってしまいたい。

 もし俺に、まだ勝ち目があるのなら。


 仮にそういう気持ちが動いたとしても、仕方ないだろう?



 頭では、こうやって整理整頓ができているのだ。頭では。

 問題は、こういうのを全部本当に五十嵐さんの前でぶちまけるのか?ということだ。



 ——この怖さ、わかるか?

 そう思っていることは間違いないのに……本当にそこへ飛び込んだら、その先が一体どうなるのか……まるで深い滝壺にでも飛び降りるような、この気持ち。


 そこへ飛び込まなければ、本当に欲しいものはどんどん遠ざかっていくだけなんだぞ。それでいいのか?

 そんなに怖いなら、敢えて飛び込む必要なんかないだろ。いいじゃないかそんなのやめとけば。お前にはもう佐々木さんっていう可愛い彼女もいるんだし。



 結局、結論など出ない。

 俺の心は相変わらず二つに分裂し、それぞれの主張を止めようとしない。そのことだけがはっきりしている、最悪な状況。


 五十嵐さんも間もなく店に来るはずだ——どーすんだよこの後、彼とちゃんと楽しい会話なんかできんのか?……はあ? そんなん知るかよ、つくづくバカだなお前は毎度毎度。

 勢いよく飲んだビールが、ここにきて一気に効き始めたようだ。もはや脳内は収拾のつかない混乱状態だ。




「待たせちゃって悪かったな。

 ——篠田くん?」



 完全にパニクった俺の視界を、テーブルの向かい側から端正な顔がすいと覗き込んだ。









「昨日から、君の様子がどう見てもおかしい気がしてな。ちょっと心配だった。

 ——もしかして、佐々木さんと何かあったのか?」


 運ばれてきたビールのジョッキを一口呷ると、彼は俺を見つめて穏やかにそう問いかける。



「……」


 違う。

 俺が苦しんでるのは、そんなことじゃない。



「彼女と喧嘩したとかそういう話なら、なんでも聞くぞ。何かアドバイスできるかもしれないしな」



「……いいえ……

 佐々木さんとは、特に問題とかはなくて……」


「——そうか。

 なら、とりあえず安心した。

 もう彼女とうまくいかなくなりそうだとか、そういう悩みなのかと思ったよ」



「——……」


 いつもと変わらない彼の微笑に、なぜか腹が立ってくる。



 ——あなたは、俺と彼女がうまくいくことを、そんなにも望んでいるのか?

 俺が彼女と仲睦まじいことに、これっぽっちも嫉妬や悔しさを感じないのか?



 ちゃんとした返事を選べずにいる俺に、彼は静かに言葉を続けた。



「実はな——

 君が佐々木さんに告白されたと聞いたあの日、はっと目が覚めた思いだった。

 ……俺は、結局自分のことしか考えていなかった、と」




「————」



「俺は、自分の勝手な気持ちを無理やり君に押し付け、強引に飲み込ませようとしていた。

 そのことに気づいたんだ。


 君をいくら嫁にしたくても、それはあくまで俺の一方的な欲求だ。

 君は、小宮山のような美人で華やかな女子に惹かれる、ごく普通の男の子だ。 

 なのに、俺はそんな君の優しさにつけ込むように、半ば強引にアプローチしたりして……中途半端に、君を難しい関係に引き込んでしまった。


 俺は結局、どうやったって君に幸せをあげられない。

 例え俺の側にいてくれたとしても——君の心は、自然に女の子へ惹かれていく。

 それを知っているのに。

 君を俺の側に縛り続けることは、君にとっては苦痛でしかないのに。


 優しい君は、きっと俺を見限って新たな恋を選ぶことなどできない。自分から俺の隣を出て行くなんて、間違っても言えないはずだ。

 ——あのまま行ったら、俺は、その苦痛を君に背負わせ続けるところだった。


 だから——

 君が佐々木さんの告白に応えると決めた時は、たまらなく辛かったが……今は、それでよかったと、心底ほっとしてる」




「…………」



 彼の言葉を黙って聞いていた俺の中の何かが、不意にボキッと音を立てて折れた気がした。



 何が折れたのか自分でもわからないまま、彼に向けて勝手に口から言葉が漏れ出す。



「…………

 なんですか、それ。


 なんだか、がっかりした。ものすごく。

 今まで死ぬほど悩んだ自分がアホらしいです。本当に。


『幸せをあげられない』なんて……どうして、そんなに簡単に言い切るんですか……

 あなたの俺への気持ちって、そんなテキトーで中途半端なものだったんですか……これまでたくさんの女の子達と楽しんできた恋愛ごっこと、所詮は同じレベルだったってことですか?


 ——俺が、佐々木さんの告白に応えてから、平気な顔でデレデレ彼女とのデートを楽しんでたと思いますか?

 俺が、どれだけ思い悩んで悶え苦しんで今ここににいるか、知ってますか?——これっぽっちも知らないくせに。


 その通りです。あなたが俺を引き込んだ。

 簡単には後戻りできないところまで。

 ここまで引き込んだなら、出しかけた手を中途半端に引っ込めるんじゃなくて……ここまで来ちゃった俺のこの先まで、責任持って幸せにしてくれるべきじゃないんですか!?」





「————……」




 彼は、いきなりとめどなくまくし立てた俺を見つめ、唖然とした表情でがっちりと固まる。


 俺の言った言葉を必死に理解するように沈黙し——やがてその瞳に、信じられないとでも言いたげなざわついた色が浮かび始めた。




「…………篠田くん……

 どういう意味だ?


 ちゃんと聞かせてくれ。


 今、君が言ったことは——」



「——いえ、なんかもういいです。

 あなたの今の言葉聞いて、むしろ気持ちに区切りがついたというか。変な悪あがきしなくて済んでよかった、というか。

 俺、今日はもうがっつり飲んじゃったんで帰ります。

 ——どうぞ仲林さんとお幸せに」




 俺はそのまま、彼を振り返りもせずに店を飛び出した。




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