想いの行方

 篠田とそんなランチをした週末、土曜日の夜。

 五十嵐は、高級フレンチレストランで仲林美優と向かい合って座っていた。



 この店は、どうやら五十嵐と美優の父親同士で相談した上、予約などの手回しをしたようだ。大手商社の役員クラスの男二人と、その息子、娘。端から見れば随分と華やかな見合いの席にでも見えるだろうか。

 コース料理を味わいながら、それらしい談笑でひとしきり場を盛り上げると、二人の父親は「デザートは二人分しかオーダーしていないから、ゆっくり楽しみなさい」と言い残すと、さっさと店を出て行ってしまった。



 こうやって無理やり残されて、何を話せというのか。

 そんな思いを拭うことはできないが、相変わらず思い詰めたように頬を染めて俯く美優の姿に、冷ややかな態度を取ることもできない。

 ——そして、これまでほとんど接点もなかった彼女が、それほど深く自分に想いを寄せていることも、五十嵐にはどこか不思議に思えた。


 できるならば、彼女が自分を諦める方向へ話を進めたい。

 気持ちが向いていない相手を恋人として大切にしていくことなど——自分には無理だ。

 お互いに虚しい思いをするという結末しか見えない。



 色鮮やかなソースで彩られたデザートの皿が、二人の前へ運ばれる。

 給仕がテーブルを離れたのを見計らい、五十嵐が口を開いた。



「——美優さん。

 一つ、お伺いしたいのですが」


「——はい」


 小さく答えて顔を上げ、美優が自分に瞳を向ける。

 憂いを含んだその瑞々しい美しさに、改めて目を奪われる。



「……あなたがなぜこんな風に僕にこだわるのか、不思議な気がして。

 これまで、時々社内で顔を合わせたり、必要最低限の仕事上のやりとりをする程度しか、あなたと僕に接点はなかったはずなのに。


 僕のどこが、あなたをそんなに引き付けたのか、理由がわからないんです。

 ——あなたの気持ちは、ポスターや写真で見る芸能人などに惹かれるのと全く同じ感覚なのではないですか?

 それは、本当の意味の恋とは全く違う。——そうでしょう?」



「——そうですよね。

 あなたが、私を思い出せるはずがない」


 悲しげに微笑んで、美優はポツリとそう呟く。



「……え?」



「私があなたに恋をしたのは——私がこの星川電機に入社するよりも、もっとずっと前です」





「————」



「……私が大学3年の時です。

 うちの庭で、父が会社の同僚を招待してバーベキューパーティをしたことがありました。

 その時、あなたに初めてお会いしたんです。

 あなたはお父様と一緒に、パーティへいらっしゃって。『今日はアルコールが入るのは避けられないから、何とか息子に運転手を頼み込んだんだ』って、お父様が笑って仰っていました。——覚えていますか?」




「……ああ……」


 そういえば……そんなことがあった。

 ——確か、3年ほど前だったか。



「お父様が、自慢げにあなたのことを紹介されて。あなたが星川電機に勤務されていることも、その時に知りました。

 でも、まだその時は、何となくお父様のそのお話を聞いていただけでした。ただ、素敵な人だな、と思った程度で。


 でも——その後、私がバーベキューのプレートにうっかり手を触れて大騒ぎになった時、真っ先に駆けつけてくれたのが、あなたでした。

 飲み物を冷やしていたボックスの中の氷を咄嗟にかき集めてハンカチに包むと、すっかり取り乱した私の指にぎゅっと押し当て、ずっと握っていてくれた。

『すぐに冷やしたから、酷い痕などには多分ならないはずです』——そう言って、綺麗な微笑を浮かべて。

 ……あなたは、そんなことすっかり忘れてしまったでしょう?」



「…………」



 ……思い出した。

 あの時の……

 平凡で、どちらかといえば地味な印象の、あの女の子か……?



「——私はその時、あなたに心を奪われてしまった。完全に。

 それまで付き合ってきた男の子たちも、それ以後に出会った男の子も、私の中にはもう誰も残らなかった。

 頑張って痩せたり、メイクやファッションも精一杯努力して……その時から、私は何もかもが変わりました。

 ——また、あなたに会いたくて。


 就活の時、私が真っ先に星川電機に応募したのは、そういう理由です。採用が決まった時は、天にも昇るくらい嬉しかった。

 ——これは、たまたま父親同士が同じ会社だった、なんていう偶然ではないんです。


 ……先日、告白を断られた時は、本当にショックでした。

 少し前に、あなたには今恋人はいないらしいという噂を同僚から聞いて……今が、想いを伝えるチャンスかもしれない、と思いました。

 今の私なら、きっとあなたに本気で見つめてもらえる。心から微笑んでもらえる。——そんな私の想いは、あまりにもあっさりと破られました。

 それでも、諦めきれなかった。

 バーベキューの日の、あの時のことを、あなたに思い出してもらいたい……あの時のように、あなたに微笑みを向けてもらいたい。

 ——今の私には、もうそれしかなくなってしまったんです」



 何かを我慢していたような美優の瞳が、俄かに大きく潤む。





「——……」



 そんなに長い間、自分を想い続けていたというのか。



 ——そんなにも深い想いを突然見せられた自分は、一体どうしたらいいのか——




 それまで全く揺らぐことのなかった五十嵐の固い眼差しが、思わずぐらぐらと戸惑う。

 ただ——そんな動揺を、美優には感づかれたくなかった。




「……済みません。

 少し、驚いてしまって」



 敢えて無機的に彼女にそう微笑むと、五十嵐は逃げ場を探すように目の前のコーヒーカップを口元へと運んだ。









 その土曜日の夕暮れ。

 佐々木さんの希望で、俺は彼女と一緒にAタウンの観覧車のチケット売り場にいた。



 その日の午後は、観たかった映画が一致し、俺たちは手近なカフェで観た映画の感動をひとしきり語り合っていた。


 ふと口を噤んだ彼女が、アイスコーヒーのストローを何となくいじりながら小さく言った。


「ねえ、篠田くん……観覧車乗ろうよ」



「……え?」


 俺の聞き返しに、彼女はちょっと照れたように口を尖らせて呟く。


「だって。前の彼ね、そういうの乗りたいっていくらせがんでも、『そんなガキ臭いの勘弁しろ』って、全然取り合ってくれなかったんだもん。

 でも、好きな人と一緒に乗りたいって、女子は絶対あるじゃない、そういうの。——篠田くんはそういう気持ち、わかってくれるよね……?」


 間近でじっと見つめられ、真剣にそう請われたりしたら、とりあえず俺は拒否できない。

 そして、そんな風に時々垣間見える彼女の純真さが、とんでもないギャップで何とも可愛い。


「……そ、そうですね……じゃなくって、そうだね……」

「だよねっ♡ じゃ、これから行こうよ! 篠田くんやっぱり優しい〜〜♪♪」


 俺は彼女とのタメ口にまだ全然慣れず、敬語と混ぜ混ぜにしつつたどたどしく……という有様だが、彼女はそういうところをあまり気にせずにいてくれる。

 そういう大らかさも、気の小さい俺を救ってくれていた。



 Aタウンへ向かう間に、空は次第にラベンダー色に包まれ始めていた。

 タイミング的に、観覧車の上からの夜景もきっと美しく見えるだろう。

 そんなこんなで、デートスポットとしてこの上なくロマンティックな大観覧車の乗車待ちの列に加わった俺たちだった。






「ねえ、見て見て、すごい! やだー綺麗! うあああー、感動!!!」


 観覧車のゴンドラが上がるにつれて眼下に広がっていく景色に、佐々木さんはまるで子供のように嬉しそうにはしゃぐ。

 夕闇に次第に明るく輝き始めた夜景は、なんとも言えない切なさを帯びて美しい。



 昼間の明るさを通り過ぎたやけに大人びた空気が、急にゴンドラの中に満ちていく。


 景色に見入る彼女の横顔が、俄かに艶めいて見える。



 その横顔が、静かにこちらを向き——視線がごく自然に繋がった。





「篠田くん——キス、していい?」



「——……」




 俺は、いつもそう聞かれる方だな。

 なんだか、おかしなことを思う。



 微妙な戸惑いに、俺はつい微かに俯いてしまったのだが——彼女は、そんな俺の戸惑いの中に、「OK」という答えを探し当ててくれたようだった。



 そおっと近づく彼女の柔らかい輪郭に、俺もおずおずと応える。


 そして——艶のある綺麗な唇が、優しく俺の唇に重なった。



 それは、驚くほど柔らかくて、温かく。

 触れ合う彼女の肌の、甘い匂いがする。



 ……初めて味わう感触。




 ——彼には、許すことができなかった——その感触。




 もしも——

 彼にこれを許せたなら。


 彼のキスは、この人とは違う感触と匂いがしたんだろう——




 ……馬鹿じゃねえのか。

 そのキスはもう、仲林さんのものだ。





 その時間が長かったのか、一瞬だったのか。

 ——全くわからない。



 唇を離した彼女が、真剣な目をして俺の瞳を覗き込んでいる。





「……」



 その眼差しに——俺は思わず、激しく怯えた。


 心の奥を読まれたのではないか、と。





「……ごめん!

 ——嫌じゃなかった??」



「……ふふっ」


 本気でそう心配する彼女の声と表情に、俺は思わず吹き出した。





 こうやって、この人はきっと、俺を導いてくれるんだ。

 少しずつ——明るい方へ。



「……嬉しいです。

 ——ありがとう、佐々木さん」



 不意に胸に湧き出した温かさに——俺は、彼女の肩を抱き寄せようと手を伸ばした。




 その瞬間——

 俺のリュックで不意にスマホが鳴り響く。




「——……!」


 なんとも言えないタイミングの悪さに、俺はあわあわと慌てつつスマホを引っ掴んだ。

 電話の相手は、真琴だ。



『あ、にいちゃん? 真琴。今夜7時半頃にいちゃんの部屋行くから。私ビールとつまみ買ってくから、部屋でゆっくり話そう』


「え——真琴?

 なっなんだよ急に、俺の部屋来るって……なんで??」


『……あー。忘れちゃってるのか、あの夜電話で話したこと。

 とにかくその辺も含めて色々話したいから。じゃ後でね』


 なんだかやけにざわつく声でそれだけ言うと、妹の電話はプツリと切れた。



「篠田くん、どうしたの?」


「え、あ……すみません、妹からで……。


 ——なんだよあいつ」



 その電話の内容に、自分の中にもざわざわと何かが騒ぐのを感じながら、俺はスマホの画面をじっと見つめた。



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