05 やわらかくてとてもいいかおりのするばしょ





「あっ……あ、あああっ、あーっ、あぁぁぁぁ……っ!」



 ……こんな風に、あたしはイク瞬間はちょっと声にビブラートがかかるというヘンなクセがある。

 だからきっと、今の瞬間まであたしを後ろから突いていた浅野にもあたしがイッたということはその声で伝わってしまっただろう。

「あっ、あはっ、あっ、はあぁぁ……」

 痙攣するみたいにあたしはそんな声を上げる。腕にも力が入らなくて、上半身がふにゃーってベッドに崩れ落ちた。イッちゃってもう腰力入んないよ、ということを惜しげもなくアピールするみたいに。

「あ、アリス、イッたの……?」と浅野の苦しそうな声が後ろから聞こえてきて、あたしは浅野ごときにイかされたのが悔しくて反論しようとするけど、「ひっ、ひんっ」とかよくわからない声が出るばかりで、それがイッたってことを証明するばっかりだった。あたしの反応を見て、浅野は少しだけ動きをゆるめるけど、浅野のほうも結構クライマックスらしくて無意識のうちに腰が動いてる感じだった。イきたてのあたしには快感強すぎて気持ちいい反面結構きつい。

「あ、あの、悪いんだけど……俺もいきそう。すげーしまってきてる」

 相変わらずナンセンスな浅野のそんな言葉が聞こえてきて、浅野がいきそうならあたしももう少し頑張るかあ、とか思ってお尻を突き出した状態をがんばって維持してると、ベッドにうつ伏せているあたしの頭を優しく撫でる手がある。

「酷いな、アリス」優しい口調があたしを糾弾する。「僕だけ残して一人でイッちゃうなんて」

「あ、あは……ごめんね、ナオくん」

 それはあたしが超愛してて大好きな幸崎直人――ナオくんだった。

「すぐ、ナオくんもイかせてあげるね」

「うん」

 そしてあたしは力の抜けた腕に力を込めて起き上がり、這いずるみたいに目の前に座ったナオくんの方へ顔を寄せる。

「ほらアリス、しゃぶるの好きでしょ」

「うん……好き。ナオくんの大好き」

 フェラチオという行為は一方的なものであって双方向的なものではない。相手にかしずいて舌で性器を舐めるという行為は相手への非常に深い信頼や愛情がなくてはできない行為で、その点だけを見ればとても愛ある美しいスキンシップのようにも見える。

「奥まで咥えて」

「んっ、うん」

 けれど、フェラする側にとっては自分の性器にはノータッチなわけで、性的快楽とは直結しない行為を性交時にわざわざ行うということはよく考えると何かおかしい気もする。前後不覚になって、どんな恥ずかしい台詞でも言えるような常態に陥りながら、興奮のきっかけとなっているはずの自身の分の肉体的快感を敢えて排除するなどという器用なことを何故わざわざやったりするんだろう?

「舌で包んで」

「は、あっい」

 答えは簡単で、自分の手によって(フェラチオには手だけじゃなくて口も使うけど)相手が感じているのを見てみたいからだ。自分の力で骨抜きになっていく相手を見ることで満足感を得ている自分を感じることだ。極度の興奮状態が感じている相手とのシンクロを可能にして、舐められている快感とはまた別種の快感をもたらす。

 だからあたしは、フェラチオというものは相手に対して行うものでありながら非常に陶酔的で、自己愛的な行為だなあ~、なんて深いことを思ってみようかとも思ったけれどエロい気分に紛れてすぐに忘れる。

 付き合ってる間にナオくんのを舐め続けたことによって達人の域にまで上達したあたしのフェラテク。ナオくんの弱点も好きなリズムも心得たあたしはホンキになれば三分以内にナオくんをイかせられる。けどこの日のナオくんは粘って、なかなか頑張ってくれる。

 そろそろ本気出す。

「ほあ、ナオくん腰上げへ」と半分咥えた状態なのでもごもごした感じであたしは言う。

「アリス、咥えながら喋るの最高だよ」とか相変わらず変態なナオくんが腰を上げて膝立ちみたいになったところで、あたしは浮いた腰に手を回してナオくんのお尻の穴を探す。咥えながらだから、ナオくんの体にすがりつくみたいな姿勢になる。

「入へるよ」

「うん、きて。アリス……っ!」

 そしてナオくんはあたしにアナルを指で犯されながらフェラチオをされて嬉しそうな声を上げてて、

「あ、アリス!あっ、イっちゃう!ああ!アリス!ああ!」

 浅野はあたしの腰を掴んであたしを後ろからぐちゃぐちゃかき回して、

「は、あっ、あーっ! 好き、大好きっ!」

 あたしはそこから来る快感で間もなく何度目になるかわからない絶頂を迎えながら、愛を告げる。

 好き。大好き。愛してる。

 性的興奮の果てに告げられた言葉にこそ純化された真実があると信じるあたしは、この言葉の持つ限りない愛情と情熱を自分で感じ、それがますます興奮に繋がってバック超きもちーフェラチオ大好きってなってもうホント愛してる!

 愛してる!


 ……っつーわけで、あたしは絶賛セックス中だ。場所は……、あれ?場所どこだろ?ほの暗いダウンライトとふかふかのツインベッド。どっかのラブホかな。ナオくんちの車庫ではないことだけは確かだ。

 ついさっきお風呂に入ってふかふかのベッドに寝転がって雑誌を読んでいたら隣でぐーぐー寝ていたナオくんがいきなり目覚めて抱きついてきてセックスが始まる。そしたらベッドの脇の椅子で『フルーツバスケット』を読んでいた浅野が「俺もそっち行っていい?」って聞いてきたからあたしは「いいよ」と言って、浅野も服を脱いでベッドに上がる。

 ナオくんと浅野との3P。さっきのあたしは浅野に後ろから突かれながら、ナオくんのを咥えていた。けれども不思議なことにあたし以外の二人、ナオくんも浅野もお互いを認識していないみたいで、3Pなのに二者間でしか会話がないというヘンなセックスが続けられている。しかし二人はあたしのことは認識しているので、ナオくんは浅野に突かれてイくあたしを認識しているし、浅野もナオくんにフェラチオするあたしを認識している。それぞれがあたしは認識してくれているから、ナオくんはイッたあたしを優しくいたわってくれるし、浅野はフェラ中で喋れないあたしを気遣って大人しくしている。

 3Pってマジ激しい。一人が暇になったりしないようにって思うとホント休む間もない感じだし、双方が適度にあたしを攻めてくるので、その絶え間なく来る攻めを全部受けているとあたしは気持ちいいというよりもワケがわからない。

 あたしにフェラされながらお尻に指を入れられたナオくんがイって、あたしに後ろから突っ込んでおっぱい触りながら前後してた浅野がイって、浅野に内側を擦られる快感と口の中に入ったナオくんののイメージの相乗効果であたしもいく。

 絶頂がリンクするみたいな光景はまるで花火。意識がバチバチ白んで、一人や二人の時以上のオルガスムスにあたしは多少怖さも感じて、それによって一瞬冷静になったところで思い至る。


 これは夢だ。あたしの深層が生み出した架空の絶頂。

 エロビッチを自認するあたしもさすがに3Pの経験はないし、そもそもその相手がナオくんと浅野っていうのがありえない。二人が揃ってあたしの前に登場した過去はないし、二人と揃ってベッドインする未来もありえない。

 人のイメージが作り出した現実とは異なる空間を夢と呼ぶのなら、このありえない光景もイコール夢ってことになる。

 3Pの夢。

 それは一体、あたしの中のどのような感情から想起されてビジュアライズされたものなのだろうか?


 それは選択のメタファー。

 そうか。それがあたしの苦しがってた理由。


 あたしは瞑想のようにセックスをする女。セックスを通じて、あたしはあたしの中の何かを見定めることができる。きっと。



「………………」

 目覚めるあたし。起き上がる。

 午前三時。寝転がっているのは歌舞伎町のホテルでもナオくんちの車庫でもなく、あたしの部屋のあたしのベッドで、二段ベッドの上ではお姉ちゃんがグースカいびきをかいている。

 で、

 思い出す、夢の内容を。ヘンな夢を見た、と思う。酷く非現実的で、無意味にエロくて、ドロドロで、醜悪さすらあって、あたしの自分本位な汚いエゴ的な何かがあちこちに感じられて嫌になるような夢だった。

「……はぅん」

 しかしあたしはため息をつく。夢の内容とは全く関係ないような、愛しさと切なさと愛しさがつまって熱くほてったみたいなため息が勝手に出て、「えへへ」とあたしは少しだけ笑って、枕を抱き寄せたら胸の奥がジワーッてなってたまらない気分になった。

「ふ、へへぇ……」

 ふやけたみたいな声が漏れて、すごく心が優しい。

 確信できる。これは紛れもなく愛であって恋であって、誰かを好きな気持ちだ。

 夢はすごい。夢に好きな人が出てきて、あたしは夢の中でもその人を好きになって、目覚めてからもあたしはその人に対する好意を残して、こんなにも素敵な気持ちに浸っている。

 夢の中でやってたから、あたしはその人と夢の中と同じようにセックスをしたがっているのかな、と思って案外そうでもないってことに気付いて改めて驚く。あたしが今感じているのはその人に「会いたい」という気分。顔を見て、声を聞いて、手をつないで、キスをして……、セックスはその果てにある行為のひとつに過ぎなくてなんらトクベツなものではないことにあたしは気付く。

 会いたい。一緒にいたい。抱き締めて欲しい。

 けれども夢から覚めたあたしの前には当然その人はいなくて、あたしはなんだか不意にその人から引き離されたような気分になる。好きな人を失って、あたしは今一人で、その人がそばにいないことがとにかく寂しい。その人がいないという事実をあたしが認識して、夢の中から目覚めた今までに感じ続けているその人への気持ちが、その人がいない寂しさに徐々に上書きされていって忘れ去られてしまうことが感じられる。

 そうして失われていく過程において、「好き」というのはなんて幸せな感情なんだろう、って思う。誰かのことを好きだと思っているだけで、人間はこんなにも気分が良くなれるんだなって感心してしまう。だからこそ人は誰かを好きになるし、その感情を大切にするし、それを双方向的なものにしたいからアプローチをするし告白をするし、大切だから時には焦って失敗して、傷ついたりもする。

 だからあたしもこの幸せな感情が、伝える相手の不在による悲しみとか寂しさに紛れて消えていってしまうのが嫌だなと思う。


 そう思ってしばらく枕を抱き締めているけど、意外とあたしはその「好き」という気持ちを保てていることができていた。会いたくて会いたくてたまらない、今すぐにでも会って話して、あたしの思っていることをできるだけ余さず伝えて、向こうからもあたしについて思うことを残らず聞きだしたいという気持ちが強くある。

 枕を恋人に見立てるみたいにして抱き締めながら、あたしはその感覚を大事に大事に心の中で転がしていて、転がしている間はふわっとしたピンク色の湯気みたいなものが心の中に充満していくような感覚があって、濁ったようなそれが少しだけ息苦しくて、でもコレがないと生きていけないんだよーって中毒みたいな欲求もあって、色々な感情が渦巻く感覚がカオスでありながら総合的にはすごく心地よい。


「は、っ、あぁ……」

 溜息、再度。

 忘我って感じだ。心が安らぎすぎて、絶頂めいているけど全く性的なものでない快感があたしを支配してやまない。脳がバニラ的にとろけそう。意識が白んで、このまま消えてしまいたい。

 コレが愛かと思う。あたしは「愛」と言う言葉に一体何個意味づけをすれば気が済むのかと思うけど、その全てが正しくて、尊いものだと本心から思う。

 だからあたしは今あたしの心に湧く愛を、味わうように何度も何度も反芻している。


「ナオくん……」

 あたしはナオくんに言い忘れていたことがある。

 それを今、思い出した。


「ふへへー」

 あー、しあわせだなあ。

 この気持ちのまま寝直そ。そしたらまた夢で会えそうな気がするから。

 黒い宇宙みたいな夢で。





 今から少し前の話をする。

 あたしたちが二年になって、一学期の期末テストが終わって、さあこれから夏休みに向けて遊び倒すぞーっ、って言ってる最中のこと。












 あたしが付き合っていたナオくん――幸崎直人は、学校のトイレで手首を切って死んだ。



 死んでいるナオくんを見つけたのは……誰かはよく知らない。たまたまその時間にたまたまトイレに行った生徒の誰か。ナオくんが死んだのは平日の昼間。特別な用事がなくても学校に人がいるような時間帯だったから、ナオくんを見つける可能性はどの男子にもあった。

 リストカット。しかも縦。だから死因も出血多量による失血死。傷口が切った方の手とは逆の手に握られたカッターと一致していたから自殺ってことで話は進む。

 平日の昼間だったから、まだ校内に大勢生徒は残っていて。発見したヤツが大騒ぎした所為で色んな生徒がナオくんの死体を見てしまって、彼の死は学校中の知るところとなった。

 噂は広まる。

 死体を見た連中の中にナオくんの上履きカラーを見て学年を知ったヤツがいて、それを聞いたヤツの中に二年の誰が死んだのかを嗅ぎまわり始めるクソみたいなヤツがいて、それを聞いたヤツの中にナオくんの名前と顔を知っているヤツがいて……、そうやって噂は数時間も経ずにあたしの耳にも届く。

 その時の感覚は……どうだったかもうよく覚えていない。ただ不安と恐怖と焦燥があって、全身の血流と呼吸がいっぺんに止まるような感じだっただろうか。目の前が真っ暗になるというよりは真っ白になるような感じで、気付いたらナオくんがいる場所へ走り出していた。

 ナオくんが手首切ったトイレにはヤジウマ生徒が群れて仕方がないので、学校側は急遽全校を休校ってことにして、あたしたちは強制的に外に出される。あたしはみんなが出てから何とか中に入ろうとしたけど、校門前で待ち構えてたブルマンにソッコーで捕まってつまみ出された。

 だからあたしはナオくんが死んだことは、事実として聞いただけで死体も傷も見ていない。

 そして翌日には、二年F組の幸崎直人は学校では知らない人のいないくらい有名人になっていた。口を開けばみんなその話題。あたしは、頭がおかしくなりそうだった。みんなが口にするナオくんの死を、あたしは理解できない。もっと言えば、みんながナオくんの名前を言い合っていること自体が耐えがたく苦痛。

 ……あたしはナオくんと付き合ってたことは誰にも話していなかった。一緒にいるところは見られたりしたことはあるかもしれないけど、学校では大っぴらにベタベタしたりしなかったし、誰かに言ったりもしていなかった。特に理由はないけど二人ともなんとなく秘密にしてて、会うのも屋上の踊り場とか体育館裏とか人が来ない場所でコッソリ会ってた。カズミもヨシノもあたしに彼氏がいるのは知ってたけど、それがナオくんだったってことは知らない。あたしが二人に話したのは、あたりには彼氏がいて、そいつがあたしのことを「アリス」と呼んでいて、あたしはそれをとても気に入っている、ということだけだ。

 だから、ナオくんの死についてあたしに話しかけてくる誰かはいなかった。あたしもこんな空気の中で今更ナオくんの彼女だったことを暴露する気なんか起きず、なんとなく話合わせるみたいに苦笑いしながら「幸崎くん」と彼の名前を呼んだ。

 反吐が出る。

 あのヒステリックなナオくんのお父さんは、ナオくんが学校で自殺したと知ってどうしたんだろう。それも実はよく知らない。ナオくんのお父さんも息子が付き合っていた人がいるだけで、それがあたしだということは知らないからだ。ただナオくんの言動から漠然としたイメージが伝わっていて、一方的に嫌われていただけで、実際には会ったこともない。家電の番号も知ってるから連絡は取れなくはなかったけど、混乱していたあたしはなんとなくそのタイミングを逸してしまう。

 そう、あたしは混乱していた。

 単純にナオくんが突然死んだこともそうだけど、それ以上にあたしとナオくんが関係しているということを知っている人間は、実は誰もいなかったから……、もっと言うと、ナオくんと関係性を持っている人間っていうもの自体が、あたしを除いてほとんどいないということをあたしはこの時初めて知ったからだ。その結果として彼の死に関して事情聴取されたのは少数の友人程度だった。それもほとんど知り合い程度の付き合いで、彼と本当に深いつながりを持った相手なんてあたしくらいしかいなかったのだ。

 ナオくんのケータイは壊されていた。掃除用のモップか何かで叩き壊したのか、潰れた端末が彼の死体のすぐ傍に連れ添うように落ちていたらしい。現代を生きるあたしらの個人が抱えるコミュニティはある意味で携帯電話の中に顕在すると言ってもいい。連絡先を交換した相手が並ぶアドレス帳は言わば文字化されたその人の持つ絆だ。アドレス帳を見ればその人の交友関係の一部が確実に把握できる。

 学校において、ナオくんにはトモダチと呼べそうなほど深いつながりがあるトモダチはいなかった。そして、その意図はよくわからないけれど、携帯電話が彼の手によって破壊されたことによって学校外の交友関係を探る道筋すら断ってしまったことになる。

 結果、誰との繋がりも明確化されなくなった幸崎直人の死は宙に浮く。

 彼の自殺の動機を知る人間はおろか、彼自身をよく知る人間すら一人もいない。知れない真相は憶測を呼び、幸崎直人と交流を持っていた生徒が全く現れないことが更にナオくんの存在を超越的なものに高めた。

 縦リスカ――数日もしないうちにそんなあだ名がつく。一週間もすれば縦リスカの存在は立派に怪談とめいたゴシップとして学校中を一人歩きし始める。

 ……あたしはそれを、黙って見ているしかなかった。

 周囲で交わされるナオくんの話題を聞き流しながら、あらぬ噂を心の中で否定しながら、惰性みたいにあたしは学校に通い、ナオくんに縦リスカというあだ名がついた辺りであたしは心を壊す。実際に死体を見ていない所為か、どこかウソ臭く感じていたナオくんの消失という事実を、あたしはこの頃から明確な現実として認識しだした。その結果、あたしの頭が悲しみと喪失感を感じはじめ、急激に生きる気力を失ったあたしは家で腐り始め、そこで運良く夏休みに突入し、あたしは栄養失調と精神的な病気色々でそのまま入院した。

 本音を言えば、あたしはナオくんが死んでしまった当初から「ナオくんと付き合ってて世界一愛し合ってた」ということを誰かに言いたかった。けど、それを暴露することの無意味さに気付いてしまっていたから、何もできなかった。だって、あたしがナオくんと付き合っていたってことを言ったところで、何になる? あたしは一体誰に何を言いたいのか。ナオくんの死について探りたがっているのは事態の全容を掴みたい学校であり、好奇心旺盛な一部の生徒たちでもある。そんな人たちにあたしがナオくんの彼女だったことを公表して、何がどうなるものでもない。

 一応あたしは、学校で交わされるナオくんについての不謹慎な話題を全てやめさせたかったし、根も葉もない噂を全部否定して回りたかった。けど、あたしが名乗り出たところでそれが止むとは思えなかったし、今度はあたしが槍玉に挙げられることが容易に予想できた。

 そのぐらい、ナオくんの存在は広まり、浮遊してしまっていた。あたしはそれがナオくんが薄れて消えていってしまうようで余計に悲しく、何より――――、


 多分世界で一番彼の近くにいたあたし自身が、ナオくんの死の理由について、よくわかっていないことが悲しくて、絶望で、そう思うとなんか急激にすべてのやる気が失せていったのだ。



 そんな出来事を経て今に至り、あたしは考えている。

 ナオくんの死について。あたしの生について、考えている。

 「辛かったんだ」とか言って、悲劇を経験したことに酔いたくはない、とあたしは思う。冷静に立ち返ると、あたしはそういうパフォーマンス臭い言葉を口にすることで、自分の経験を自慢してるんだってことに気付くからだ。そんなの恥ずかしくてイタいだけで、実際「そこまで辛かったのか」と聞かれるとよくわからないところがあるし。

 確かにそこには一口に語り尽せない絶望と悲哀があって、「生きる意味とかあんのー?」とか「人付き合いとか、馴れ合いとかだるー」とあたしは心の底から考えていた時期もあって、タナトスっぽいものとかそういう高尚な何かを感じたりもしていて、傍から見れば失笑モノのそうした感覚は当事者のあたしにとってはあたし自身の価値をグラグラに揺るがすほどの超深刻なことだった。

 けれど、それすらも一面ではダルがっている自分への理由付けに過ぎなくて、絶望も悲哀も懊悩も、そんなものあたしに限らずみんな抱えているものなのだとあたしは知る。個人差はある。全然大したことない人もいるけど、凄惨な人もいる。けれどもみんなそういう感覚を経験して、悩んで、考えて、何かを掴んでいく。差というのは、その時沈んだ心の深さの差みたいなもんで、あたしみたいにドン底を味わった人というのは偉かったというより、ドン底に至るほどに酷い経験するまで大事な何かを掴めなかったニブチン野郎ということになる。いやま、現時点でのあたしが実際何か掴めてるのかどうかは曖昧なんだけど……。

 とにかく、みんなそうして色々な経験を重ねて、その度に自分の心に潜行することで何かを理解していく。それは言うなれば成長。自身の心を知っていくこと。衛星を打ち上げて、宇宙の果てを目指すみたいに。

 だから経験に優劣はなく、普段バカみたいにしてるヤツも、クラスで人気者みたいなヤツも、きっとどこかで自分自身について悩んで、悩んだ結果の今がある。あるいは、そういう経験をしてきたからこそ、バカみたいにすることの楽しさや、色んな人から好かれる方法を学んでいったのかもしれない。

 あたしだけが特別じゃない。みんながみんな、絶望している。そしてみんな考えてる。

 だから、あたしがよく口にしている「健全」とか「不健全」の境界なんてのも怪しいモンな気がしてくる。見ただけではわからなくても大なり小なりみんなキツイ経験はしてきてて、単純な経験の有無によって線引きをすることができない以上、「こいつは健全」「こいつは不健全」って簡単に色分けできるようなもんでもないんじゃないだろうか。「健全」とか「不健全」とかの相反するような要素は誰しも内に抱えていて、みんな混ざり合った水の中に漂うみたいにして生きてるんじゃないかと思う。「健全」と「不健全」が混ざり合った水。その濃度は人によって違うし、あたしみたいに健全水の扱いが苦手な人もいる、みたいな感じかな。だから、誰しも抱えている水の汚れた部分を敢えてピックアップして、自分色みたいに扱うなんてしちゃいけない。「あたしってマジ不健全~」とか言ったりするのなんて、「あの人は自分ほどアレな経験してない」とか「あの人は自分より酷い目に遭ってる」とか、結局自分基準で、しかも過程しか見てないダメな比較でしかないんだから、そこに特殊性はない。ましてそこから「誰もあたしのことなんかわかっちゃくんないよ」みたいに悲観的になるのなんて、程度にもよるけど基本的に無意味。

 あたしは少し前に家で腐りながら「人間関係に絶望したから、トモダチなんてもういらない」とか「酷い経験してきたから、なんかもう人生とか世の中のそういうの悟った」とかちょい超越的なこと思ったりもしたけど、なんというか、そういうヤツがもう一番困る。そんなの合理的になりたがってるだけだし、そうすることによってそれが誰にも負けない自分のオンリーワン的な個性って思いたいだけなのだ。乱暴な言い方すると、カワイソぶってドラマチックに浸りたいだけ。経験から得た感覚なんて考え方次第でいくらでも変わるのに、自分じゃどうにもできないって決め付けて、諦めて、動くのビビッてるだけ。めんどくせーって言ってるだけ。

 「人と関わりたくない」とか「人がそもそも嫌い」とか「早く死んでしまいたい」とか、そういう自分に構うな発言したくなるのも、そう思った方が生きやすいっつーか楽だからなんだろうけど、やっぱ違うと今は思う。だってあたしは、今目の前にいる人たちも、今まで会ってきた人たちも、思えばみんな好きだし、結構。その人たちと一緒にいたことを全部無駄なんてさすがに思えないし、楽しかったという気持ちはかえられない。

 だからってわけじゃないけど、人間って本来そういうもんなんじゃないのかなあ、って思う。

 死にたくないし、生きていたいし、誰かと一緒にいたいし、好きになって愛したいし。だってそうじゃなかったら、死にたいって思った瞬間にもう死んでるよ。思ってから実行するまで結構タイムラグがあったりするのも、自殺する時遺書書くのも誰かに気付いて欲しいからとか後ろめたいからとかで、結局、誰か見てること前提で、つながりを求めてるんだよね。

 こうやって、あたしたちは人付き合いにも理由を求めていく。時には悩んだり、落ち込んだり、自殺したりもして……こういう情けなくて、ブザマで、恥ずかしい方法も辞さずに、冷めたフリをしつつもアクションを起こし続けている。なんでそんなムチャクチャなのかというと、みんな自分がやりやすい感じでつながりを持っていきたいからだ。みんなメンドくさがってるんだ。


 だから、自分が起こしたアクションを受け止めてくれて、自分を受け入れてくれる人がいたとしたら、何よりその存在を大切に思い、差し伸ばされた手を素直になって取ればいい。

 色んなこと考えすぎてる所為で、そういう単純なこともいつの間にか忘れちゃってたんだね。


 だからあたしは過去を思って、彼が残してくれたものを考えてみることにする。





 あたしは浅野を呼び出した。

 昨日、浅野との放課後デートで、テンパって意味わからんことを色々喚いた後、いきなり浅野に逆告白されて、そしたらなんか色々な感情がブワーって出てきてわけわからなくなって何も答えられなくなってしまったあたしは、浅野の告白に対して明確な返事とかを結局していない。

 だから、今日はそのことについて浅野に話さないといけない。一晩寝たらなんとなく答えは出た。ゴチャゴチャんなってた頭の中もなんかやけにスッキリ整理されたし、何を言うべきかもわかった。

 今回はマジ。

 あたしは今まで、色んな行動に取って付けたような意味とか理由とかを毎度毎度与えてきて、そのキレイゴトの白々しさとか歯の浮くような感じとかに毎度毎度辟易してきたけど、今日浅野に言おうとしてることはホントに混じりけのないあたしの本心だって確信できる。

 だから、それを告げること自体にはヘンな躊躇いはない。

 ……けどそれだけ自信を持って言えることだけに、あたしはこの考えがちょっとやそっとじゃ覆らないことを自覚してるので、それを浅野が否定してしまったらあたしは浅野とケンカするしかなくなってしまうのがちょっと気が重い。けど、そのぐらい譲れないことで、譲れないからこそ認められない相手を許したくはない。

 そして何より憂鬱なのは、あたしがこれから言うことを聞いて浅野があたしの考えを否定してきたとしても、それはそれで全然構わないと思っちゃってるあたしがいることなのだ。

 ……つまるところ、色々あったけどあたしはやっぱり、本当にダメダメでグッチャグチャな困った女だってことで、今頃になってもまだ相変わらずそのことを割り切れずに微妙に悩み続けているクソってだけの話だ。


 新宿アイランドタワーの前にはちょっと変わったオブジェがある。

 いつものように駅周辺で待ち合わせたあたしと浅野は適当にぶらつきながらたまたまその辺りまでやってきた。

「アリス、大丈夫?」

「ん、平気。でもちょっとまだ考え中」

「わかった」

 今日のあたしはちょっと真面目に話がしたい。浅野に対して。昨日の告白のこともそうだけど、昨日までずっと感じてた色んな違和感の正体がついに判明したから、浅野の生活をこれ以上掻き乱さないために今日ここで全部言ってあげないといけない。……っつーよりは、あたしがこんな感情抱えたまま浅野と付き合ったりなんてできないから吐き出しちゃいたい。


 新宿警察の裏手、アイランドタワー、野村ビル、センタービル、三井ビルが向かい合う交差点――高層ビルに囲まれて「これぞオフィス街新宿」って感じの中に突如として謎の「わっか」が配置されている。交差点の空中にぐるっと置かれたこのワッカは一応円環状の道路標識で、内側に信号が取り付けられている。信号機にしてはあまりに大仰なカタチをしてるので、工事途中のコレを見た当初のあたしはモノレールでも開通するのかと思ったぐらいだ。

 いくら信号の大きな交差点とはいえ普通の十字路の信号機にしては無駄すぎるデザインのそのワッカをあたしは無意味に目で追ったりしながら、浅野に対してどうやって話を切り出したものか悩んでいた。

「あのさ、浅野」

「うん」と返事をする浅野の声音もどこか真剣だ。

「今日、話そうと思ってることがあんのね」

「うん」

「……けど、何から話したらいいかわかんなくてさー」

「アリスが話したいように話せばいいよ。俺、わかるように頑張るし」

「うーん…………」

 ちなみにこのやり取りも四度目くらいだ。駅で待ち合わせてからこんな調子であたしが煮え切らないから、ズルズルとこんなところまで歩いて来てしまっているわけで。

 ……あーあ、ホントどうしよう。言うべきことは大体決まっているのに、その切り出し方がわからないってホント困る。

 夏休みの宿題ってモンはメンドクサイとはいえ、一度は教わった内容なんだから始めれば割とサクサク進んで、サクサク進んでる間はそれなりに楽しい。けど、始め方みたいなのが思いつかなくて、やればいいのにやんないまま夏休みが終わっていく。

 ……なんでいきなりそんなこと考え出したのかというと今の状況がそれに少し似てるかもって思ったからなのだが、実際考えてみたらそうでもなくって、あたしは焦るとホントにろくでもないことしかしなくなるなーと思った。

 もういいや。言おう。

 今までだって、アレコレ悩んでいい結果になったことなんてないんだ。何も考えてなさ過ぎて悪い方に転がったこともあるから思い切るのも少し怖くはある。だけど思うに、あたしは思考整理みたいなことするのにあんま向いてないタイプなんじゃないかと思う。考えることによって物事を良い方に向けていけるならいいけど、多分あたしは馬鹿だから考えることによってどんどん凝り固まっていってしまって、自分の中に沈んでいってしまうんだ。案外それこそ似たような行動である「考える」と「悩む」の違いなのかなあ、なんて思ったけどまたどんどん思考が逸れていくのでもうやめる。

 で、言う。


「浅野」と名前を呼んで、言う。「前にあたし、浅野が付き合ってた彼女の話とか聞いたりしたじゃん?」

「あー、中央公園の時にね」

 そん時にあたしが告白とかしちゃったわけだが。

「で、さ。浅野にだけ喋らせといてあたし言わないのってフェアじゃないから、あたしが前付き合ってた彼氏の話とかしたいんだけど」

「え?別にいいけど」

 あたしが意を決して言ったのに、浅野のその興味なさそうなリアクションに思わずズッコケそうになる。

「なんでよ!聞きたくないの?」

「アリスが喋りたくないこと、無理して聞かせてもらわなくたっていいよ。めんどいし」

「めんどいとか言われた!って、違う!あたしが喋りたいから喋ってんの」

「でも、俺だけ喋ってフェアじゃないとかって思ってんでしょ?俺別にそんな風に思わないから気にしないでいいのに」

「あたしだって思うかそんなん!喋りたいことの理由付けに決まってんだろ!察しろ!」

「はあ?」

 思わず本音絶叫。浅野困惑。

 いかん、何逆ギレしてんだあたしは。浅野呆れてるじゃん。

「……っく、とにかく、あたし、浅野にこの話しないといけないのっ」

「前の彼氏の話を?」そんな話されるなんて全く予想してなかったであろう浅野のマヌケな顔が持続中だった。「なんでまた突然?」

「これ言わないで浅野と付き合うとか決めらんないってわかったの。だから、浅野にこれ言って、それでもう一回昨日言ってくれたこととか考え直して欲しい」

 言いながら改めて、あたしはなんて汚いんだって死にそうになる。こんなん喋ったら確実に引かれることなのに、「決めらんない」とか言って浅野に選択権なげてる上に、できればまだ浅野と付き合い継続させときたいとか考えてそうなあたしマジ死ね。

 それって、やっぱりあたしは浅野のことが結構好きってことなんだろうけど。こんなところでそんなことに気付きたくなんてなかった。

 思い切れアリス。

 ヘンに未練なんか感じてんな。

 自分が最も大切にしてる心があるなら、それを基準に考えろ。

 それきっかけで浅野があたしから離れてしまったとしても、それは受け入れなくちゃいけない。

 それが、信念に従った行動ってヤツだから。……気取った言い方になっちゃってちょっとハズいけど。

 信念は貫くもの。そうある姿が本来だから。


「あたしが前付き合ってた彼氏ってね」

 そしてあたしは浅野に教える。


「――――幸崎直人、っていうんだけど」

 世界で一番な男の子の名前を。

 そしてその名前を言った瞬間、浅野の顔色が変わる。

「幸崎、直人……って――――」

 言葉をなくす。信じられない、みたいな顔でこっち見てる。

 幸崎直人くんは有名人だった。鈍い浅野でもその名前を知ってるくらい、有名人だった。あたしとは違ってね。

 ――縦リスカ。

 誰ともつかない嫌悪感をもよおすような声が口にするそのあだ名が、あたしの頭で反響する。

 浅野も知っているはずだ。

 彼が学校に残した、臓物みたいに重たい空気を。



「マジ……かよ……」

「マジだよ」

「幸崎くんって、アレだよね……、学校で……」

「そう。自殺した」

「……すげえ話題になってた、彼……だよね?」

「そう。縦リスカ」

 その名を口にすると口元が痙攣するみたいに釣り上がるのを感じた。

「じ、じゃあアリス……死んじゃった彼氏が学校中で噂されてる中で登校してきてたの?」

「……うん」

「………………」

「結構ひどいことも言われてたよ。あたしに直接言われたりもした。あたしと付き合ってたこと誰にも話してないんだから仕方ないけど」

「…………………………」

 あたしの元彼氏がその有名人だったと知った浅野はありえないぐらい目を丸くして、口元に手を添えたり離したり落ち着かない。それがなんだか自分の失言を後悔するみたいに見えて、もしかしたら浅野もあの頃に縦リスカの話を面白おかしく喋ってた連中の一人なのかもな、と思ってあたしは少し萎えるけど、なんか今はその事実も割とどーでもいい。


「マジかよー!」

 と思ったら浅野が突然叫んだ。顔を両手で隠して、うーうー唸ってる。

「ど、どうしたの浅野……?」

「……あの、アリスぅ……」

 顔を覆ったままの浅野が泣きそうな声でそんな風に言ってきて、こんな時だというのにあたしは軽くキュンとする。

「……なに?」

「あの、ゴメン。俺、今、どういう顔したらいいのかわかんないよー」

「え?」

「こんなこと言ったら絶対失礼なんだけど、……アリスが、かわいそうで」

「っ……そんな、こと」

 言わないでよ馬鹿じゃないの、という言葉を何とか飲み込む。浅野の発言が、最適な言葉が思いつかないだけで、ただの安っぽい同情からかけられたものなどではないことは理解しているつもりでも、あたしはやっぱり少しだけピクッとしてしまう。

「だ、だって、アリスなんも悪くねーじゃん。なのに周りが好き勝手なことばっか言ってて、言い出せる空気でもなくって……辛すぎんだろーそれ。それなのに俺、なんもしてやれなかったし、今もなんもしてやれねーよ。それでも、その頃に戻ってなんもしてねー俺殴りたい。……あ、そんな彼氏面とかするつもりもねーし、しちゃってるみたいで自分マジキモいんだけど」

「……浅野」

「でも、今こーやって喋ってるその手の言葉が全部軽くて、軽すぎて何の意味もねーってわかっちゃうから、もっといい言葉とか思いつきたいけど俺バカだし、表情とか身振りでホンキっぷりカバーしてーんだけど、……どんな顔したらいいのかわかんなくって」

「………………」

「アリス……」

 そして浅野はそのまま黙ってしまう。

 あたしの好意的な解釈だけじゃなくて、浅野はホントにホンキであたしを思ってくれていて、場当たり的な慰めを口にしたかったワケじゃないことが感じられて、それが嬉しくて本当にこいつはいいヤツだなと思えたあたしは浅野の言葉をそれ以上促したりはせず、自分の話をする。

「だからね、あたし、二学期からはマジメに生きようって思ったの。あたしがクソ女だったからナオくんのことわかってあげられなくて、ナオくんもあたしに相談できなくて死んじゃったようなもんだし、あたしがザコくてホントのこと言えなかった所為でナオくんは死んだ後でも陰口叩かれてるみたいなもんなんだから」

「そんな……、自分卑下したりすんなよ、アリスが悪いなんて誰が言ったんだよ」

「……誰とかじゃなくてあたしが自分でそう思ってるんだって。大体からしてあたしもいい歳だし、もうちょい精神的に強くなって、人付き合いくらいマトモにできるようになんねーと……」

「話逸らさないで!」と浅野が急に声を荒げるのであたしは驚く。「アリス、たった今事情知ったくせに知ったような口利きたくねーんだけど、やっぱアリスは全然悪くねーよ。確かにアリスは幸崎くんの話聞いてやれてなかったのかもしれないけど、幸崎くんだってアリスに何の相談もなしに勝手に死んじゃったじゃんか!わけもわからず残されるアリスのことも考えずに!」

「……っ」

 クールになれたつもりだったが、浅野が「幸崎くん」と口にした瞬間、一瞬だけ心がザワッとイラついた。

「……浅野でも、ナオくんの悪口言ったら許さないよ」

 自然と、重い声が出る。ズブズブの汚泥みたいな声。

「悪口じゃない。事実言ってるだけだよ。アリスに責任おっかぶせて一人で死ぬなんてずるい!」

「ずるいとか言うな!それに責任なんかじゃない、あたしが好きでやってるんだって言ってんじゃん!ナオくんのことなんも知らないクセに!勝手なこと言わないでよ!」

「けど、アリスだって幸崎くんが自殺した理由知らないんだろ!?」

「し、知ってるよ……、問題抱えてて、あたしはその相談できるような相手じゃなかったから、一人で思いつめて……」

「誰に聞いたんだよそれ?本人から聞いたんじゃないだろ。全部アリス一人の想像じゃん」

「…………く」

 ……って、あー、あたしバカ。

 つい勢いあまって反論しちゃったけど、ホントはそんなこととっくにわかってるんだ。わかったんだ。だから自分から言うつもりだったのに浅野の方から踏み込ませてどーすんだよ。カッチョ悪。

 浅野はこういうヤツなのだ。一度決めたらどんな状況でも空気読まずに行動しちゃうヤツ。彼氏死んじゃったあたしの心情すらお構いナシで、こいつは単純に今と未来のあたしを救うために喋ってくれている。


「……そうだよ、浅野の言うとおりだよ」

 あたしは、ナオくんの自殺は自分が原因ってずっと思ってきた。だから変わろうと思ったし、その過程で自分の色んな姿のあり方について悩んできた。

 けど、浅野と仲良くなったりカズミと仲直りしたりしてるうちに、元々他人に合わせるのが苦手なあたしがそうやって健全とか一般性みたいなことについて考えることがそもそも無意味っぽいなって思い始めてきてて、その中で大本のナオくんの死の理由についての感覚も揺らいできていた。

「あたしは、ナオくんがなんで自殺したのかなんて全然わからないんだよ!」

 そう。わからない。

 わからないからわかりやすい原因を自分というものの中に用意したかっただけ。わかったフリがしたかっただけだ。本当は死の理由なんて全くわからない。

「なんで、……なんで死んじゃったの、ナオくん……」

 昨日みたいにまた興奮が体の奥からブワッと湧き上がってきて涙が出そうになる。我慢するけど。

「アリス……」

 本当に、全然全く理解できなくて、単純にナオくんが死んでしまったこととか、ナオくんが自殺によって伝えたかったこと、辿り着きたかった場所、そういうものが今でもよくわからなくて、その行き着いた先にあたしがいないということがとにかく悲しくて、悔しい。

「なんで……あたしを置いて死んじゃったんだよぉ、ナオくぅん……」

 顔を覆う。指に力を入れると、ほっぺがぐにゃってなる。痛いしダサいけど我慢する。涙がこぼれてしまわないように。

 つらい。かなしい。せつない。


 あたしはナオくんが手首を切った具体的な理由を知らない。

 ただ、彼が内に抱えていた死の欲求については漠然と予感していて、けれどもそれにどう対処したらいいのかわからずにいたから、目を背けるみたいに敢えて触れずにおいて……。


 ……っていうことに、あたしは昨日気が付いたのだ。

 あたしはナオくんに言い忘れていたことがある。

 ナオくんの中に死を望む心が生まれているのに初めて気が付いたのは、ナオくんがお父さんとケンカした後だというのに妙に晴れやかな表情を浮かべていたあの日のことだ。

 夜の公園で雨の中抱き合ってた時、それに気付いて確かめたかったのにそれをナオくん本人の口から聞くのが怖くてどうしても言えなくて、目を背けるようにひたすらナオくんのことを「好き好き」って言って、チューしてセックスして、そのまま楽しく喋ったり笑ったりしてるうちに忘れてしまっていた。

 愚かなあたし。

 「好き」なんて言うことには、実は何の意味もない。

 浅野はその言葉で救われたって言うけど、それはあたしが浅野に対して一回しか「好き」って言ってないからだ。それがたまたま初めて使った言葉で、たまたま色々な意味を持たせられる環境にあったというだけで、告白自体には誰かを救う力なんてない。

 事実、ナオくんは違った。「好き」だなんて、そんな何万回も言ってきた言葉を今更いくら重ねたって、彼の中に決定的な何かを生み出したりなんてできなかった。

 ナオくんを救う言葉。あたしには漠然と存在を感じることしかできなかったけど、彼の中には明確に存在していて、彼の心を蝕んでいるタナトスを消し去れる言葉。

 今なら、あたしはそれがわかる。


 あたしはナオくんに、ただ「死なないで」って言いたかった。

 好きだとか愛してるとかだけじゃなくて、もっと純粋に、死に取り付かれかけたナオくんに「生きて」ってお願いしたかった。

 たったそれだけのことだ。確かに愛を伝えることは大事だけれど、それが一番じゃない。

 愛する人が死にかけていたら、それを救えるのは愛とか好意とかそういう奉仕的できれいな言葉なんかじゃない。そんなのだけで救えるほど人間の命は軽くない。人間を死から救うのは、もっとエゴイスティックで、汚れたワガママが全開にぶちまけられた、身勝手で都合の良い「あなたが死んだら悲しいし困るから、あたしのために生きててください」って欲求だけだ。泣いたっていい。すがりついたっていい。無様な姿も全部全部曝け出して、吐き気がするぐらい純粋にその人の生を自分のために欲望するもの。

 それだけだとちょっと汚すぎるから、人は「好きだ」とか「愛してる」とか、そういうきれいな言葉で飾ろうとして、それが本当に心地よいから無意味な飾りと薄々わかっていながら、その奥にある汚い本心を敢えて受け止める。

 清濁併せ呑むような美しさを感じ取る。だから愛は人を救えるように思える。


 今だから言えるけど、あたしはお葬式にも行きたかった。けど、棺に入ったナオくんを見るのも、それが炉に入れられて燃やされるのも想像しただけで心が折れてしまいそうだったし、ナオくんのお父さんに会ったら何か責めるようなことを言われるかもしれないと思って怖くて、嫌で、自分がいたら話がこじれそうで、喚いたりしたら迷惑で、ってそんなしょうもないことばっかり考えてて結局行かないどころか連絡すらとらなかった。

 ナオくんの死体はあたしの知らないところで、あたしと同じように――いや、あたし以上に何故自殺したのか理解不能でいる仲の悪い親族たちだけに囲まれて、燃やされた。

 あたしは、ナオくんのお葬式に行かないとダメだった。行かなくてはならなかった。あたしはナオくんを燃やされたりしたくないし、ナオくんをナオくんが嫌っている人たちの中に置いておくことだってしたくない。だからあたしはナオくんの入った棺をその人たちから奪って、それ担いで火葬場から逃げ出して、山奥に隠れ住みながら眠るように死んだナオくんを冷凍保存して、その顔を毎日大事に大事に眺めながらひっそりと暮らすみたいなことをしてもいいくらいだし、むしろしたかった。

 けど、あの頃のあたしはできなかった。

 ただナオくんがいない寂しさと、周りのナオくんに対する無理解さへの怒りと、行動を起こせないもどかしさと、そういう色んな感情が混沌として、それがストレスフルすぎて心と体をダメにして寝込んでた。

 もう、……なんて言うか、最悪すぎ。

 何もできないあたし最悪。そんな理由でナオくんのお葬式もすっぽかして死んだ後もナオくん一人にしてるあたしマジ最悪。死ね。ホント死ね。でも嫌だ。死にたくはない。でも生きててもナオくんいない。辛い。寂しい。


 それが、チャチな羞恥心とか世間体で心の底からの愛情を伝えそこなったあたしへの罰。

 それが今、悔しくて、悔しくて、だからいつまでもナオくんを忘れられない。



 つまるところ、ナオくんがいなくなっちゃったっていう事実――要は別れた事実だけが先行してて、あたしの中ではやっぱりまだ全然そのことに整理がついてないんだ。

 それはあたしが一人で勝手に混乱して部屋で腐ってた所為で、死んだナオくんとお別れをするための大事な大事なプロセスすっ飛ばしちゃったからだ。まあ、仮にあたしがもっと強靭な精神力の持ち主で、ナオくんの死を受け入れ、お父さんとか学校の先生にもきちんと事情を説明し、棺に収まるナオくんの冷たい頬に触れたりして少しだけ涙を流し、お葬式にもちゃんと参加して火葬場の煙突から出るナオくんの体を焼いた煙を見上げたりしていたら、もっとナオくんとの別れを現実的なものとして認識できるのかもしれない。けど、今になってそれは全て百パーありえないってわかるから想像がつかない。

 現実のあたしはそれをどれ一つとしてこなせず、ただ一人でいじけて不貞腐れて、結果後悔だけ残って、今更になって懺悔するみたいに健全になるとかクソみたいなこと言い出してるような感じなのだ。

 あたしはまだナオくんのことが好きで、大好きで、救って上げられなかったことがとにかく悔しくて、今からでも助けに行ってあげたいんだけど、けど事実としてもうナオくんはいなくて、世界は死んじゃったナオくんとそのナオくんの死を受け入れられないあたしを置いてどんどん先に進んでいく。

 だから、とりあえずはその世界についていこうと、世界が求めるような健全さを求めて、その結果として誰かの死を防げるような人間になっていればよかった。

 けれども、健全か不健全かで言えば、あたしはもしかしたら既に健全だったんじゃないかな? 曖昧な好意があるだけで、実際の関係は別に強くないような誰かを救いたいと思えるくらいには。健全とか不健全とかを悩みだした段階から、既にそういう風に思えていたんじゃないかと思う。誰かを救いたいと思うこと、助けたいと思うこと。それはつまり興味と同じだ。他者へ向けられる興味。接触を持ちたいと思う心。それがいずれ、愛情に昇華していくのなら、あたしはその心を大切に持ち続けていきたいと思う。

 だからあたしは、あたしの気に入った相手を救うことができるように、自分の中で愛情を育てようと思った。

 そうすればきっと、いつか似たような状況になった時、あたしはその人を救えるようになっていると思ったから。

 だけど――、



「浅野、あたしは浅野のことが好きだよ。きっと」

「……アリス」

 あたしは、浅野を救いたいと思うし、浅野っていう人間に対して抱いている感情も好意として認めつつあるけど、……好きになれないでいる。好きになることを認められずにいる。

 むしろ、本当に好きだったナオくんを救えなかった反省から取った対応が浅野をバッチリ救えてしまったことに、今更感と手遅れ感をすごく感じてて、そこに悔しさとか怒りさえ覚えている。

 浅野を救ったのはあたしの告白だったけど、その何千倍、何万倍の回数告げられた愛の言葉はナオくんを救えなかった。二つの違いは、あたしが相手の命を心の底から思っていたかどうかってことで、以前のあたし……不健全な女子高生有栖川香はそれが足りていなかったということに、あたしはようやく気が付いた。

 けれど、今のあたしにはそれがある。浅野の死を本気になって止めようと思える心がある。それは純粋に嬉しい。あたしがそうした心を持ったことで、誰かを救うことができたんだったら本当に嬉しい。

 愛の言葉に、命を込める方法をあたしは知った。あたしはそれで浅野を救うことはできた。

 ……けれど、ナオくんを救うことはもうできない。

 あたしは、人の死を厭う健全さを得て初めて気付いたその事実が、誰かを愛してその人の命を願う心が、キレイで純粋で、美しくて……


 けれども今や決してナオくんを救うことのできないその心を、

 ……………………あたしは本当に、吐き気がするぐらい嫌悪している。



「けど、あたしはナオくんのことが好きなの。その「好き」は浅野に対する「好き」よりずっと強くて、それが忘れられなくって、辛くて、切なくて……、もう、どうしたらいいかわからないんだよ」

「…………」

 あたしはやっぱりナオくんが好きで、まだそのことを消化しきれない。ナオくんを救えなかったことをずっと後悔してるし、それを受け入れられないまま誰かを好きになる自分が許せない。

「だから浅野、あたしは、あんたの気持ちには答えられない。告白したのもなかったことにして。あたしのことはもうサッパリスッパリ、忘れてください!」

 自分で言ってて、あたしひでー女だなって思った。茶化してるわけじゃなくて本当に、救いようのないダメ女だと思った。別れた彼氏のことが忘れられないから、なんてなんつーメロドラマチックな反吐展開。あたしがそんなこと言うなんて考えたこともなかった。

 けどまー、事実なんだ。そしてまったく言い逃れできないしする気も起きないんだ。色々と気がついて、改めてそう思ってしまったから。

 確かに浅野の言うとおり、ナオくんの行動にもヘンなところや理不尽なところはあって、そこだけ見るとナオくんだって悪いって言えるかもしれない。

 けど、それでもあたしは、ナオくんのことがホントにホントに、宇宙一好き好き大好きで超愛してるから、どんな欠点だって間違いだって肯定できちゃうし、浅野をもてあそんだと言われてもこればっかりは仕方ないとしか言えない。


「アリスは、やっぱ俺を救うために好きって言ってくれたんであって、俺のことは別に好きじゃなかった……ってことなの?」

「……そうでもないよ。浅野のことはそれなりに好き。けどナオくんのほうがぜんぜん好きだから、そんな状態で浅野と付き合うのも申し訳ないなって話」

「けど、俺のこと救おうとしてくれてたのも確かなんでしょ?」

「ん……、それはまあね。けど、そのために付き合うのももうやめにしよっかと思ってる。中途半端になっちゃってて悪いんだけど」

「俺、まだ生きてくのつらいからアリスに助けて欲しいんだけど」

「なに甘えてんのよ。昨日、もう割と平気みたいなこと言ってたじゃん」

「じゃあ俺アリスのこと好きだから、普通に彼女サンとして一緒にいてよ」

「それこそ無理だって、あたしは浅野よりナオくんのほうが好きだから、浅野に対して真剣になれなそうなの。ごめんね」

 あたしは浅野にとって普通の恋人にも、タナトスから救うエロスにもなれない。他の男のこと考えてるような女が、純粋な生の欲求を与えられるなんて思いたくないし、そんな不純で中途半端なエロス与えるのは失礼にあたるだろうから。

 だから、あたしの代わりに今後浅野のタナトスを救ってくれる誰かを探さないとね。偉そうなこと言うみたいでちょっと嫌だけど、あたしは浅野は浅野で気に入ってるし助けたいからそこらへんはキッチリしたい。


「浅野、昔のトモダチに、会いにいきなよ」

「――は?」

 言いながら、あたしは泣いていたんじゃないかと思う。声が震えてるのが自分でもわかったから。あー、もうホント、しゃんとしろ。今更ダサいな。情けない。

「中学の頃のトモダチ。仲良かったんでしょ?一緒にバンドやったり、好きな子もその中にいたんでしょ?」

「え、えっと……うん、……」

「言います。もっぺん会って喋りなさい。んで、前みたいに一緒に遊んだりバンドやったりしなさい」

「……は?え?ちょっと、唐突すぎて意味わかりません」

「だから、浅野にはそれが一番いいって思ったって言ってんの!前から言ってるじゃん。浅野は目標喪失したからわけわかんなくなってヤケクソになって、死にたいとか言ったりしてたわけでしょ?」

「え、あー、うん」

「だったら!改めてその目標追いなおせばいいでしょ!確かに今から声かけなおすのってちょっとヘンな感じするけど、一、二年喋らなかっただけでしょ?全然手遅れじゃねーよ。今からでも全然仲良くできるだろうし、浅野があんだけ思いつめるくらいなんだからその気になれば一生大事なトモダチになれるよ」

「…………」

 ポカンとしてた浅野が何かに気づいてハッとする。あたしは構わず続ける。

「あたしね、大事なのは、そういう存在なんだって思うんだ。そういう人がいれば、その人たちと一緒にいる~みたいなどーでもいいことでも、人生の目標になるんだって。それさえあれば、生きていられるし、楽しくて仕方なくなるんだよ」

「…………」

「浅野はそういうトモダチ既にいたんだから、大事にしなきゃ!あたしなんかに構ってないでさ」

「けど、……アリスは――」

 あたしが、なんだ?

 浅野が離れてしまうことで、あたしを救える人間がいないとでも言うつもりか。

「残念でした!あたしにはカズミとヨシノっていう超素敵でカッコ良くていいヤツなトモダチが二人もいるんだもんね!浅野一人いなくなったってプップクプ~なんだもん!」

 今だから言えることで、偶々そうなったようなもんだけど、それは本当。生きる希望なんて大層なことじゃなくても、毎日を楽しく生きていくだけならあたしはもう充分すぎるくらい大切なつながりがある。

 それに、その二人以外にもあたしは大勢大切な人がいるし、何より――、

 あたしの中には、ナオくんに対する無敵の愛がある。

 その感情はきっと、どんなものからもあたしを守り、生きる希望を原子炉みたいに与え続ける。

「…………」

 いつか、あたしの中のナオくんが、あたしの心に深く根を張って同化するぐらいになったら、あたしはナオくん以外の人にも彼と同じくらいの興味を持って接することができるようになれるかな。

 まあ、そこで浅野と付き合い再開とか、そんな都合のいいことは言わない。

 ただその時、あたしはあたしの近くにいる他の男の子もナオくんと比較せずに愛せるかもって話だ。まあこれも意味のない仮定だし、正直微妙な可能性。

「だからさ、浅野」



「さよなら、しよ」

 そう言って、あたしは浅野に向かって手を振ろうと右手をゆっくり持ち上げる。精一杯の親愛と謝意を込めて。

 これで、バイバイ。


「ちょ、ちょっと待ったー!」

 そこで浅野が声を上げて、ひらひらさせてたあたしの手をガッシ掴んでくる。不意に顔が接近して、真剣なまなざしがそこにあってドキッ。

 や、やだ……浅野いきなり手握ってくるなんて……!

 浅野のことは好きだ。そのことを認めたあたしには手をギュッてされる感触が予想以上に心地よくて、あたしは「浅野の手、いいなぁ……(さわさわ)」とかさっきまでの決意が早くも揺らぎそうになるけどそこは鉄の理性で抑えないとマジクソ女フォーエバーだ。

「なに?」

 だから勤めて冷静にあたしは言う。顔はひきつっていたかもしれない。

「待ってって。サヨナラ早いよアリス。アリス、自分の話ばっかりでそれに対しての俺の返事とか聞く気ないじゃん!」

「え?だって、あたしもうあんたと付き合う気ないんだよ?これ以上何か聞いてどうすんの?」

 しかし開き直ったあたしはすごい。好意があるはずの男をここまでないがしろにできてしまう。

 最初のうちは、今のことを喋ってまだ浅野が受け入れてくれるのならそれを踏まえた上で浅野と付き合うってのもアリかなとか思ってたが、喋ってるうちにやっぱりそれはないなと思い直した。あたしはやっぱりナオくんが好きだから、それを上書きするみたいに浅野とは付き合えない。この手を覆う感触がいくら心地よくても、そこはケジメをつけないと。

「あのさ、俺、今日アリスに言おうと思ってたことあんのね」

「……そうなの?」

「アリスが一晩考えてたみたいに、俺も俺なりに考えてたの。んで、考えまとまったから話そうと思ってて」

 ……けどあたしがあんまりにもバッサリしたこと言ったからもう無意味になっちゃったんじゃないのかな?

「で、今のアリスの喋り聞いて、その上でまだコレ喋りたいって思ってんだけど言っていい?」

「なに?けど、あたし何か聞いたところでナオくん以上に浅野のこと好きになったりなんてしないよ?」

 ひでー発言。最低なあたしは浅野とお別れするのはそれはそれで悲しいから、ついつい乱暴な口調になってしまう。クソ女すぎる。

「うん、なんつーかさ――」

 そこで浅野は一瞬だけ思案して、


「俺、恋愛とか別にもういいかなーって思い始めてて」

 とかわけのわからんことを言い出す。


「――はあ?」

 パッと聞きすると何の脈絡もなさそうに聞こえるその発言に、あたしは思わずヘンな顔になる。

「また突然なに言い出すの?」

「うーん、なんかね、俺、アリスのこと好きなんだけどね」

「うん」面と向かって言われるとちょっと未だにテレる。

「けど、だからってデートをしたりキッスをしたりとかってイチャイチャ展開はあんまり望んでないわけ」

「へえ」

 前回のデートの喫茶店とかでまったくシリアスになりきれなかった浅野が思い出されてあたしは笑いそうになったが、それにはそういう感覚が根ざしてるからなのかも。

「もっと言うとエロいことしたいとかも全く思わないのよ。こんなん言ってもウソ臭く聞こえるかもしんないけど、ホントだよ。俺、アリスと喋ってる時ってフジとかイータンとかと喋ってる時とテンション変わんないんだよ。下心ナッシィンなの、マジマジ」

 ……それはそれで女としてなんとなく心外だが、まあいい。続けろ。

「それこそ、前話した中学ん時好きだった子のほうが百倍そういうことしたい。もちろん普通に喋ってるのがつまんないとか性欲ムラムラガマンできませんって感じじゃないんだけど、顔近づいたり髪かきあげたりする仕草に普通に萌えたりするわけ俺」

「で、浅野はあたしにそれを感じてないのか」

「うん」

「…………」

 即答かよ。

 多分そうなんだろうなーと思いつつ、思いっきり肯定されるとなんとなくへこむな。

「男友達と喋ってる感覚……っつーより、アリスとは男女とか関係なくて、すげー波長合う、純粋に「トモダチ」って感覚なんだよね。シンクロ率バリバリ。だからこーやって喋ったりしてる空気がそんだけでとにかく楽しくて、性欲とか男女とかそういう考え挟まる余地とかないわけ」

 けど、そうまで言わせることは美しくて、誇らしいことのようにも感じた。

「……いいけど、あんたそれでよくあたしのこと好きだなんて言えるね」

「うん」

「いや、うんじゃなくってさ……」

 それだと単純に気の合う二人なんであって、恋愛とか色気のある感じにはどうあっても発展せんだろうに。

「でね、俺思うんだけど、それでいいんじゃないの?って」

「……」

「なんかさ、「恋愛」とか「好き」とか「付き合う」とか「セックス」とかそーいうのがあるから色々めんどくさいわけでさ、俺そんな難しく考えたくないんだよね。なんか、もっとシンプルにくだらない感じでいきたいんだ。で、俺アリスとならそういう風にやってけるって思うんだ」

「…………」

「だから、そういう感じで俺と「付き合って」……はNGだから、えーっと、なんかよくわかんないけどそういうトモダチっぽい関係とか持ちたいんすけど、どうっす?」

「…………………………」

 なんかよくわかんないけどって……、なんだこの湿度ゼロの告白。色気が微塵も感じられないぞ。

「仮に俺の存在がアリスにとって重荷になるんだったら、俺アリスが落ち着くまでどっか消えてるよ。一緒に喋れないのはつまんないけど構わない。調子こいた発言に聞こえるかもしんないけど、アリスは俺に対しては彼女とか彼氏とか恋愛とかそういう様式美みたいなの考えないでいてくれていいし、俺も考えたくねーから。もっとシンプルに、俺っつー一匹のトモダチとして扱って欲しいなーって」

 最近になってあたしは恋愛関係というのは相手のことを考えることなんじゃないかと考えるようになった。相手の望むこと望まないことを察して、それに沿って動くことで幸せな関係が維持できるんじゃないかって。

 けど、浅野はコレまでも今の発言も全部が全部、あたしが望んでることも望んでないことも特に考えてないような感じする。ただそこに自分のやりたいことがあって、「俺はそんな感じがいいんだけどどう?」って提案してくる感じなのだ。で、あたしが「アリ」って言えばそれでいくし、「ねえよ」って言えば浅野は大人しく考え取り下げるヤツなんだって思える。

「俺、アリスと一緒にいて、すごく気持ちいい。彼氏とか彼女とか、そういう形式っぽいこと考えなくていいし、エロいこと連想したりもあんまりしないから安心できる。兄弟と喋ってるみたいな気分なんだよね。確かにドキドキもロマンもムードも何もねーけど、でも、さっきも言った通りそれでもいいと思う。昨日、アリスと恋人っぽいこと全然やってこなかったみたいな話したけど、そりゃそーだって話なんだよ。だって俺たち、そういう感じじゃねーんだもん」

「……うん」

 けど、そういうフリーダムな空気の関係性こそ、あたしが望んでいたものじゃないかと思う。空気を読むのが苦手でキライで、人を傷付けてしまうあたしが本当の意味で自分でいられる場所。

「だから、俺はアリスのこと好きだけど、それはラヴっつーよりライクな好きで、好感が持てるっつーかそういう気分で……、あー、難しいな言葉にしなおすと。……まあ、要するに相手のこと好きな気持ちが必ずしも彼女とか付き合うとか性欲とかに直結するとは限らないよ。事実俺はアリスとそういうこと全然したくないもんね。だから俺はアリスを彼女にしたいとか、セフレにしたいとか思って喋ってんじゃないんだって」

「……ちょっと、だから――」

 だけど少しの躊躇がある。そうあることを認めてしまうことへの怖さがある。

「だからアリスが俺よりナオくんのこと好きだとか言われても正直全然どーでもいい。アリス的に俺が恋愛対象として最下位でも全然いい。アリスが俺のことシカトして他の男と付き合ったりセックスしたりしても別に気にしない。……そんなことないとは思うけど。で、アリスがナオくんのこと超好きなのはわかったしそれは超尊重すっから、それとは別にすげー端っこにゴミ箱みたいな感じでも構わないから浅野枠を作って置いといてくれませんかってお願いしてんの、俺」

「…………」

 だからあたしは、焦る。今、あたしの脳みそはすげえ活性化しているんじゃないかと思う。

 浅野の言う言葉はあたしの持ってた価値観に全くなかった……わけじゃないけど、敢えて考えてこなかったような発想で、意味不明で全く理解不能であり得ないよって感じてるのに、何か衝撃というか惹き付けられるものがあって、あたしの脳はそれを必死に読み取ろうとしている。

 そう、浅野の提案にあたしは魅力を感じている。

 浅野はあたしと「恋人として付き合いたい」みたいな特殊な関係を求めていない。ただ、何でも自由に話せるような垣根のないつながり、それだけを求めている。それはある意味で特殊かもしれないけれど、その実すごくシンプルでラフでテキトーで、カンタンといえばカンタンすぎる。それでいて純化されてると言ってもいいくらいむき出しの状態で、原子的にぶつかり合ってるような感じがする。

 それぞれがやりたいことをやりながら、相手が嫌がることはしない。それを好きに言い合えて、その上でいくらでも尊重し合えるような間柄。言葉にできるというのがいい。思ったことは何でも話せるなら、相手の心情を深読みして疲れることも、読み違えて傷付けあうこともない。

 やりたい放題だから基本は放任主義で、無駄にベタベタ一緒にいる必要もない。近すぎず遠すぎない距離も心地良い。一緒にいすぎて見えてしまう相手の嫌な部分や、離れすぎていて感じてしまう不安なんかも馬鹿馬鹿しい。

 浅野が求めているのはそういうことだ。

 ……そしてあたしも、本当はどっかで誰かとのそういう関係性を求めていたような気がする。

 けれど小賢しいあたしは心の奥ではそういうことを望みながらもどーせそんなの無理だと諦めていて、曝け出すことを恐れてしまい、相手の心を不必要に探ることも憚るようになってしまった。そうすることが正しくて健全だと思ったし、言葉にされた心情しか汲まないなんて相手に対する甘えで、思考停止してるんじゃないかって思ったのだ。

 けどそれは違う。言葉を汲み取ることは相手を思うことだし、それについてこちらから聞き返すのもまた言葉だからだ。

 あたしたちはある意味、言葉というツールを使って相手の心に踏み込むってことをやってるわけだけど、そこに空気とか距離とかそういうのを読むことを求めてくるのは、その踏み込みと踏み込まれをやるのをみんなダルがっているからなのだ。自分が発揮すべき労力の一部を相手に肩代わりさせることで、人間関係をスムーズにメンドくさくない感じで進めていきたいのだ。

 けど、あたしはそれがなんかヘタクソで、上手いことやってけないから、遠慮なく相手の心に踏み込んで、同じように踏み込んで来てくれるみたいな関係が、きっと性に合っている。


「だからさ、今日から十年ぐらい経ってお互いもっと大人になって、気持ちとか考えに余裕持てるようになってきて、安易に生きるだの死ぬだの愛だの恋だの言ったりしなくなってきた頃にさ――、」


 だからきっと、あたしは深く考えなくていい浅野の言葉がずっと前から好きで、



「――結婚とかしよーぜ、俺たち」

 相変わらず唐突すぎても全然どーでもいいのだろうな。


「……あたし、その時もまだナオくんのこと好きでい続けるかもよ」

「いいよ全然。俺にナオくんの素晴らしさとか語って聞かせてよ」

「あたしクソだから、空気読まずに浅野が嫌がることするかもしんないよ」

「俺も同じようなもんだからお互い様じゃん?仮にそうなったらそうなった時に会議しようよ」

「ホントそれでいいの?そんなにしたらあたし本当に浅野のことテキトーに扱うよ?結婚したって家事とかもしない気がするし、いつも一緒にいるのかったるいから別居したいとか言い出すかもよ?」

「それいいね」

「いいのかよ!?」

「適度な距離保つって大事じゃん。どんな仲良いトモダチでも、オールとかしてると話題尽きてくるしね」

「…………」

「…………」

 あー、もう。

 ダメかもなこりゃ。

 あたし、今――、

「あのさ、浅野――」

「うん?」



「あたし、……ナオくんのこと、忘れなくてもいい?」

 ――そんな未来も悪くねーなって気になっちゃってるよ。



「忘れたりしたら、それはやっぱりかわいそうだよ」

 こいつめ。

 泣かすつもりか。そうはさせないぞ。





 新宿アイランドタワーの前にはちょっと変わったオブジェがある。


LO

VE


 四つの文字を並べた彫刻。彫刻なのに言葉で、文字なのに彫刻なのだ。

 実際の愛と違って、わかりやすくていいなーとあたしは昔から思っている。



「とりあえず、アリス的なスーパー王子様のナオくんを尊重したいから俺、アリスのことアリスって呼ぶのやめにしたいんだけど」

「はあ?いいよ別にそんなの気にしなくて」

「俺がなんとなくヤなの。で、十年後のムコ候補として、香って名前で呼ぶところから始めていい?」

「ムコッ!?」

 ホント、こいつ恋愛対象最下位とか言いながらなんて図々しさなんだ。けど、浅野が提案しててあたしがオーケーしかけてるこの関係は、恋愛とかとはまた別の、もっと簡単でヘンな付き合いだから、そういうこと気にしたら負けなのかもしんないけど。


 ……あと、さりげなくナオくん呼ばわりするんじゃねーって。


「ヘイ!香、スマイルプリーズ」

「……バカ」

 くそ、なんだよ。ちょっとだけ、いいじゃん……浅野。

 単純だった。あたしは。

 あたしはやっぱり浅野、好き。いずれダンナにしてやってもいいくらいには。






 「愛」ってなんだろう、とあたしは常々深く考えている。

 世界一愛していた幸崎直人くんという彼氏が死んでしまって、それについて思い悩んで色々と傷ついたりしたあたしだったが、月日が流れて色々やってるうちになんとなく傷は癒えていって、高校三年になる頃にはカズミとヨシノにも「いかにナオくんが素敵で、あたしがどれほど深く彼を愛していたか」と同時に「ナオくんと別れた経緯」を語ることができるようにもなっていく。

 二人はあたしのそんな経験に最初は若干引くけれど、それであたしを嫌いになるってことはなくて、なんかどっちもそれまで以上にあたしを好意的に捉えてくれるようになっている。

「でもそれってなんかあたしの嫌いな自己陶酔みたいで同情引いてるみたいでヤだな~」と言ったら、カズミは「私はカオリがそれを話してくれたこと自体を評価するよ~」みたいなことを言ってくれて、辛かった過去を自分の価値につなげられるなんてあたしも結構強くなったもんだなあとちょっとだけ自惚れそうになる。ありがとう二人とも。

 かといってナオくんはあたしの心からは決して消えることはなく、予備校に入って知り合ってなんとなく付き合ってみた子と仲良くしたりいちゃいちゃしたりする中で、ふと、ナオくんとのこんな未来もあったのかもって思うとやっぱり悲しくて、あたしは少しだけ泣き、そいつとはだるくなって別れる。

 忘れたくはない、と思っている。だからあたしの日常から徐々に消えていくナオくんの要素を、あたしは時に恐れたりもする。

 けど、こうやって彼氏と別れたりしてるところを見ると、なんだかんだであたしの心にはやっぱりずっとナオくんがいて、あたしの心の多くを占め続けているんだなとも思う。日々の中において、あたしは薄れていくそれを必死になってかき集めているというよりは、箱か何かに入れて大事に保管しながら目立つところに置いてあるような感じで過ごしている。それをどけてまで他の何かを置こうと思えるほど魅力的な誰かを、あたしは未だ考えられずにいるのだ。

 ナオくんはあたしの中にいる。きっと、ずっといる。あたしが彼を大切に思い、愛し続ける限り。そしてそれが尽きることは多分ないと思う。ナンチャッテ恋愛小説的なオトメチックで歯の浮くようなラヴィンフォーエバ感を抱きたいわけじゃなくて、単純にあたしが弱くて愚かだからそう思う。

 あたしは弱い。そして馬鹿で、移り気で、享楽的で、エロい。

 誰かを愛するのは気持ちいい。大切にすることは、それだけであたしに強さをくれる。生きる楽しさをくれる。それはその相手が現実にいるかいないかは関係ない。あたしがそう思うことが本質なんだから。

 だからあたしはそれを捨てるなんてもったいなくてできない。

 愛は誰かに向けるためだけに存在しているわけじゃない。もちろんそれもあるんだろうけど、自分が誰かを愛する心を抱くってことは、誰かから愛されていると感じ取るのと同じくらい心地よい何かをもたらすものだなとあたしは思う。

 愛することは快いこと。他者から向けられる外側からの愛に対して、これは内側からの愛。あたしはそれを強く感じる。

 だから、誰かを愛するのに理由はいらない。

 愛せない人間なんてよっぽどのことがない限りいないし、人は自分自身の楽しさのためにいくらでも愛する理由を作り上げられるからだ。

 結局はエゴイズムに還元されるとかそーゆー空しい話がしたいんじゃなくて、他人を愛する自分が好ましいみたいな、その自己愛めいた感覚も含めた快楽が愛情なんじゃないかなと思う。

 愛。

 あたしは愛の中にいる。あたしが誰かに放つ愛と、誰かがあたしに向けてくれている愛の中に。

 幸せなことだと思った。


 浅野はあたしに言われた通りに中学の頃のトモダチに会いに行って、あっさりと元通りの関係を取り戻した。その直後にあたしもそのトモダチたちに紹介されて、半ば強引に連れてこられたあたしはなんとなく浅野のトモダチたちと仲良くなり、中でも浅野と元々付き合ってたっぽい超清楚系の女の子の進藤沙耶香ちゃんと特に仲良くなる。沙耶ちゃんは普通にいい子で、一緒にいてとても楽しいんだけど、あたしはそれ以上に、特に何か努力をしたわけでもないのに自然にしていただけで彼女ととても仲良くなれたことが嬉しかった。

 前みたいにつるむようになった浅野たちは改めてバンドも始めてみるけど、浅野はベースの弾き方を忘れてしまったらしくてすぐに飽きてしまって結局続かない。浅野のそんな調子をみんな笑ったけど、あたしはベースを弾く浅野は好きだった。一度だけ浅野にベース弾いてるところを見せてもらった時、あたしが退屈だと言うと浅野は「上手い人のベースソロは面白いよ」と言った。それってつまり自分がへっぽこだって認めてることになるわけだけど、あたしがそうツッコんでも浅野はヘラヘラ笑うだけだ。

 浅野のベースは御茶ノ水の楽器屋で買った中古品で、値切り倒して七、八万くらいだったらしい。けど見た感じネック反ってて状態もあんまり良くないから楽器素人のあたしから見てもそれがお買い得だったのかどうか疑問が残る。でっぷり横幅が広くて真赤な浅野のベース。立った状態で足広げて、低い位置で構えてみるとこんな体たらくでもちょっとカッコよく見えちゃう楽器の不思議。


 そんな浅野は地方の大学を受験して、あたしの前から姿を消した。

「ザ・武者修行!」とか相変わらずアホなこと言ってふらっといなくなってしまった浅野をあたしは自分でも意外なほど心配していなかった。会えない寂しさは辛さというよりは退屈で、暇を持て余した時にはそれまでと変わらない感じでメールや電話をしていたからだ。

 浅野はあたしのことを「香」と名前で呼ぶようになった。メールの文章でも「香」とちゃんと名前で呼んでくれている。思えば男子から名前で呼ばれるのは初なのだが、それが浅野だけにやっぱ全然ドキドキはなくて、それでもほわっとした温かさがあって、嬉しい。

 香。あたしの本名だ。

 そう呼ばれること自体は別に構わなくて特別ウザいとか馴れ馴れしいとか思わないんだけど、浅野があたしをそう呼ぶようになったおかげであたしを「アリス」と呼ぶ人間はもう一人もいなくなってしまった。

 あたしは本名を呼ばれていることよりもむしろそっちに微妙な寂しさを感じるようになって、なんとかこの感覚をつなぎとめられないかなーとかを考えるようになる。

 ――アリスは無知だ。不思議の国のことなど何も知らない。だが、だからこそ美しき世界を心行くまで堪能できる。

 そしてあたしは大学生になって、その寂しさを紛らわせるためなのかなんなのか、そんな書き出しの小説を突然書き始める。しかし残念ながら文才というものがそんなでもなかったあたしはそれ以降のフレーズが全く思いつかず、結局そのまんま続きが一向にできないままあたしは小説を書くのをやめる。

 ただ、そこにはあたしの文才が浅野のベース演奏力よりも酷かったという理由以外にも、『不思議の国のアリス』なんて明らかに自分自身を想起させるようなモチーフを扱ったような内容だったから書けなかったんじゃないかとも思い、あたしはいつかその続きが思いついた時のために、そのワンフレーズだけが書かれたテキストファイルをフロッピーに保存しておくことにした。

 そうやって小説を書いたり、沙耶ちゃんとか東京に残ってる浅野のトモダチと遊んだり喋ったり、カズミとヨシノと三人で集まって飲んだり、大学入って新しく友達を作ったり、浅野を訪ねて一人旅してみたりして色々と忙しく過ごしているけれど、あたしはふとした瞬間に、心の中にふわっとした感覚を抱くことがある。


 それはもしかして、愛か。

 愛か。

 あたしは愛によって生かされているんだな。

 愛することと愛されること。うすぼんやりとしたピンク色の霧みたいなそういう空気の心地よさを、あたしはちょっとも逃がさないでおきたい。ふとした時に感じるそれらを余さず吸い込んで全部享受していくことで、毎日が楽しく過ごせているな、と思うからだ。

 充実している。

 だから、あたしは最近、湿度だけではなく愛を与えられる女になりたい、と心から思う。前から思っていたけど、最近ますますそう思う。カタチだけの愛なんてダメ絶対。愛は安売りするもんじゃない。

 本当に大切な誰かに対して、心から、それでいて自然にあげられるものでなくてはならない。


 これから先、あたしには色んなことがあって、色んな人と出会ったり別れたりするんだろうけど、そこには必ずあたしからその人へ向けた愛、その人からあたしへ向けられた愛が存在する。愛は人を救うし、生きる希望になっていく。

 誰かの愛も、生きる希望も、あたしの周りにはたくさんあって、例えばそれがあたしの中で一番二番って風に大切さの度合いで順位付けされなければならないようなこともあるかもしれない。けどそれは悩んで悩んで悩みぬいた末に手に取ることになるんだろうし、選んだ末に他の愛の価値が消失するわけじゃない。

 大切な愛の存在。今のあたしが知っている人からの愛、これから出会う人からの愛、どれがあたしにとって一番大切なものになるのかはわからない。けれどいずれにせよ、あたしはこれからそれをみんな守っていけるだけの強さを持たないといけない。


 あたしはナオくんが死んでしまった日のことを考える。で、ふと、ナオくんがあたしに何の事情も話さず自殺してしまったのは、あたしにその理由を色々考えさせたかったからなんじゃないかと思うようになる。それを考え続けることが、ナオくんを好きでいることと同じなら、あたしはいつまでもわからないナオくんの死んだ理由を考え続けて、結果的にあたしはナオくんのことがずっとずっと好きなまま忘れられずにいるのかもしれない。

 なんだか呪いみたいだ。愛の呪い。けど全然悪い気はしない。だって、あたしは今でもナオくんのことが好きで、それが楽しいから。

 カズミやヨシノはあたしがそろそろ他の人と付き合ったりしてもいいんじゃないのとか言ってきたりするし、事実あたしは予備校生の時になんとなく付き合ったりしてたけど、あたしはナオくんの呪いの所為で今もまだナオくんにメロメロなのだ。自殺の理由だけじゃない。ナオくんと過ごしたすべての記憶が、今やあたしの心を素敵なもので満たして、それが素敵過ぎて抜け出せないから、あたしはずっとそこにいる。

 ……そして、その状態でもきちんと生きていくことができている自分がいる。

 結果として、傍から見たら、あたしは死んでしまった彼氏に操を立て続けて、そのまんま売れ残っていってしまうのかもしれない。それはそれで空しいが、それでもいいやってくらいナオくんラヴ。


 そういえば浅野があたしに結婚しようとか言ってきてから、もう随分経つ。未だに連絡は取り合うけれど最近はそういう話は別に出てこないところを見ると、浅野は今じゃあたしのことはもうなんとも思ってなくて、単なる気の合うトモダチ程度の感覚しか持ってないのかもしれない。

 だとしても、あたしが今生きていられるのは、なんだかんだであの時の浅野の言葉なのかもしれない、とも思う。「生きていられる」とか言うほど大げさなものでもないかもしれないけど、そうかけ離れたものでもないとも思う。

 あたしは数ある未来の一つ、それも割に好ましいものの一つとして、浅野の言葉の実現を予感してて、それを期待する……とか言いたくないけど、そんな未来があるなら今頑張ってもいいかなって思えてる。だって浅野はナオくんのことを認めてくれた上でそう言ってくれてたんだから。あたしにとってこんなに楽な話はない。行き遅れたら是非活用したい。


 あたしは愛に支えられている。

 世界一素敵な男の子のナオくんがあたしの過去を愛で満たし、世界一でもなんでもないけど単純に面白くて気が合って変人の浅野が未来を愛で満たしてくれている。

 今まで大して長くもないけど短くもない人生を生きてきた中で、辛いことも嫌なことも山ほどあったけど、そのうちほんの少し、一瞬でもいいから、あたしにとって最高に楽しくてハッピーで価値がある時があったって思うだけで、こんなにも生きていることは楽しい。

 今後あたしが無数にある可能性からどんな未来を選ぶことになるのかはわからないし、未来に本命も滑り止めもないのはわかってるし、いずれの未来も相応に過酷で大変なんだだろうけど、そのうちの一つ、たった一つでも楽しいものがあるかもって思うだけで、こんなにも生きていることは楽しい。


 それを成しえるのが愛だ。愛は人類を救う。愛はあたしも救う。

 だからあたしはそれを感じるアンテナを強く持って、それを溜め込む引き出しを無数に用意して、あたしを救ってくれるあらゆる愛を大切に抱えて、いつかそれを返せる日のためにあたし自身も愛を磨いて、楽しく楽しく生きていこうと思う。

 うん。それだけで、なんて楽しいんだろう。


 今日もお姉ちゃんと一緒に高田馬場のばーちゃんちに向かうバスを待ちながら、あたしはそんなことを思う。



 未来のあたし、そして隣り合う愛しい人。もしいたら、きっとキレイな場所で会おう。いつかまた。



 今日も太陽が眩しい。青空が、眩しい。






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アリパガ 藤原キリヲ @krwfjwr

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