第8話:本当に助かった
朝になると、夜中の雨が嘘のように、その日は晴天となった。
小麦畑全体がキラキラとした雫を纏って、風がそよぐ度、水面のように輝いている。
死した二頭のミドヌーは、昨日ディーナが見つけたあの部屋へと運び込まれた。
ドルクの説明通り、屋敷の外からその部屋へ直接入る事のできる扉があって、討伐隊のみんなで力を合わせて、死んだ二頭を運び入れた。
中はどうってことのない、どこにでもあるだだっ広い部屋だったが、ディーナの感じていた通り、血の臭いと腐った肉の臭い、そして生き物の焼かれた後の臭いが充満していた。
妙な事に、解体に必要な機器、具体的には牛斬り包丁のような巨大な刃物などは、一切そこには置かれていなかった。
いったいどうやって、この場所で、ミドヌーを解体し処分しようというのだろう?
ディーナとカミーは、揃ってそう考えていた。
ただ、部屋の隅の床に敷かれている一枚の赤い絨毯が、やけにその部屋にそぐわない様子である事を、ディーナだけは見逃さなかった。
「あとは我々使用人にお任せ下さい。皆様はさぞお疲れでしょう、お部屋でゆっくり休息をとってくださいませ」
恭しくお辞儀をして見せるドルクを睨みつつも、ディーナは東屋へ戻る。
「おい、ディーナ。ちょっと……」
ウィーダスに呼び止められ、ディーナは東屋の談話室に入る。
そこにはカミーもいて、面白くなさそうにディーナを見ている。
「お前さん、体力はまだあるか?」
ウィーダスに訊ねられ、少し眠いがまだ動けそうなディーナは頷く。
「よし……。今から俺たち三人、交代であの部屋を見張ろう。あれはどう見ても、解体処分用の部屋じゃねぇ……」
何が言いたいのだろうと、ディーナは首を傾げる。
「だ~か~ら~、ウィーダスはあそこで違法薬物が生成されるのを待って、現行犯逮捕しようって言ってるんだよ」
カミーが面倒臭がりながらも、ディーナに解るようにと説明する。
しかし、そのような事ぐらいディーナにも解っている。
解らないのは、なぜ見張りなどと回りくどいやり方で、こそこそとする必要があるのか、という事だ。
「見張りなどせずに、解体作業を見せて貰えばいいじゃないか」
そう……、そういう事だ。
遠回りな戦法はディーナの性に合わないのである。
「いや~、さすがにそれは怪しまれるだろぉ?」
ウィーダスが、今まで一度も見せなかった、こいつは馬鹿か? と言いたげな顔でディーナを見る。
まぁ、人には人のやり方がある、それは別に構わない。
だがしかし、できれば見張りなどという面倒臭い事はやりたくない、というのがディーナの本心である。
「……わかった。けど、先に風呂に入りたい」
これも本音である。
雨に濡れた事と、死したミドヌーに触れた事によって、体中から妙な臭いがして先ほどからもう我慢の限界なのだ。
ディーナ自身、本来は魔獣なわけで、フェンリルの姿に戻った際にはそれなりに獣臭が漂う。
だがしかし、その時に臭ってくるのはあくまで自分の臭いであり、平気だ。
けれども今、体中に染み付いているこの臭い、草食魔獣特有の臭い、血の臭い、加えて雨の臭い、更には青臭い草の臭いまで……、耐えられたもんじゃない、今にも鼻が曲がりそうなのだ。
あからさまに険しい表情をするディーナを見て、カミーはさすがに同情した。
カミーはもちろん、ディーナの正体を知っている。
……知っていて挑もうとするのは、馬鹿というか、無謀というか。
とにかく今、ディーナは人間の自分にはわからない苦痛を味わっているのだろうと、カミーは理解していた。
「あ~、わかったわかった! 俺とウィーダスが先に交代で見張るから、お前は気が向いたらでいいよ」
むしろその方がいいと言わんばかりに、シッシと手を振るカミー。
ディーナはそれを、千年に一度あるかないかわからないようなカミーの優しさだとは微塵も考えずに、一直線に風呂場に向かったのだった。
ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシゴシゴシ……。
風呂場には先客がいた。
無論、ペチェだ。
ペチェは、屋敷に戻ってすぐに姿を消していた。
どこに行ったのかと少し心配していたので、ディーナはほっとする。
だが、どうやら様子がおかしい……。
扉を開けて、ディーナが浴室に入ってきた事にも気付かず、一心不乱になって体を洗っている。
白い肌が赤くなるほどに、何やら小さな袋を手にして、体を擦り続けている。
尋常じゃないと直感的に理解したディーナは、できるだけ脅かさないように静かに声を掛ける。
「……ペチェ? どうした?」
するとペチェは、びくっ体を震わせて、ゆっくりとディーナの方を振り向いた。
そのミントグリーンの瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「……落ち着いたか?」
風呂釜に並んで入るディーナとペチェ。
ディーナの問い掛けに、グズッと鼻をすすったペチェは、コクンと頷く。
どうやらペチェには、初仕事が魔物討伐であるという事が酷だったようだと、ディーナは思う。
リーフエルフという種族は、人里離れた森の奥に村を構える種族。
その生活は主として森と共にあり、動植物を無暗に傷つける事を何よりも嫌う。
口にする物と言えば、野イチゴや木の実、森に自生する植物が中心であり、動物を殺して食物にするという習慣はないらしい。
最近でこそ外界に……、村の外に出た若者が、加工された干し肉などと持ち帰る事があるらしいが、それらはあまり人気がないと言う。
つまるところペチェは、魔物の討伐などという事柄には、最も程遠い種族なのだ。
今朝、日の光の元でミドヌーの死体を直に目にし、改めて心が恐怖心で満たされてしまい、頭の中がパニックになってしまったのだと、ペチェは泣きながらに訴えてきた。
先ほどまで生きていたはずの生き物が、魂の抜けてしまったただの肉に変わる瞬間を、ペチェは初めて見たのだ。
ディーナは思い出していた。
自分も、国営軍に入ったばかりの頃は、戦場で死んでいく者たちを前にして、何度か涙を流したことがあったなぁ、と……。
しかし、慣れとは怖いもので、今となっては容易く命を奪う決断を下せてしまう。
そうしなければ、今日まで生きて来られなかった可能性は否めないし、そうなってしまった自分に対してディーナは後悔していない。
しかし、可愛らしい顔を腫れぼったくして、ミントグリーンの綺麗な瞳を真っ赤にしているペチェを見ていると、この子には自分のようにはなって欲しくないと、ディーナは思うのだった。
ペチェが泣き止んだのを見計らって、ディーナはざっと湯から上がる。
「あっ! ディーナさんっ!? そんな大胆なっ!?」
どこを隠すこともなく、素っ裸を堂々と披露するディーナに対し、ペチェは赤面して手で目を覆った。
女同士で何を恥ずかしがっているんだ? と、ディーナは首を傾げる。
あわあわとするペチェを他所に、樽の中に入った水を豪快に浴び、体を擦り始めたディーナ。
風呂場にはもちろん、シャワーなんて物はなく、代わりに風呂釜とは別の大きな樽に、綺麗な清水が溜められている。
水なので少しばかり冷たいが、染み付いた臭いを落とすためにはこの方法しかない。
しかし、そう容易く、この臭いは落ちそうにもない……。
するとペチェが、恥ずかしがりながらも何かを差し出してきた。
それは先ほどまで、ペチェが必死に己の体に擦りつけていたものだ。
「あの、これ……。グローリーの花が詰まった袋なんですけど……。これを体に擦りつけると、身が清められて、さらには臭いも消えるんです」
できるだけ、真っ裸のディーナを直視しないようにしながら、ペチェはそう言った。
グローリーの花という物を、ディーナは知らない。
しかしながら、ディーナはこのペチェに対して、今のところは厚い信頼をおいている。
昨夜の戦闘で、ペチェが自分の身を案じて魔法を行使してくれたことも、ディーナはちゃんとわかっていた。
「助かる、ありがとう」
お礼を言って、ペチェの差し出した小袋を受け取り、ニコリと笑うディーナ。
その表情の美しさ、カッコよさに、ペチェはのぼせそうになる。
逃げるようにして湯の中に頭を沈めるペチェ。
ディーナは、本当に変な奴だなと思いつつも、グローリーの花の良い香りがする小袋を手に、気持ちよく水を浴びるのだった。
「あれは守護魔法の一種です。僕の守護聖樹はミスリの樹、守護聖花はさっき小袋に入っていたグローリーの花、守護聖草はチョノマ草なんです。特に、チョノマ草なんてどこにでも生えている雑草なので、いつだって魔法が使えます。さっきは運良く、すぐ近くにミスリの樹が生えていたので、守護魔法で根の壁を作ることができました」
ディーナの部屋で、食事場から貰って来た冷たい果実のジュースを飲みながら、ペチェとディーナは仲良く話し込んでいた。
ペチェはようやく平常心を取り戻したようで、いつものように明るく話をしている。
ペチェの言う、守護聖樹とか、守護聖花、守護聖草などという言葉は、はっきり言ってディーナにはちんぷんかんぷんだが、ペチェが楽しそうに話をするので、ディーナもなんだか心が穏やかになって、静かにその言葉を聞いていた。
「けれど、驚いた。魔法が使えたんだな」
ディーナの言葉に、ペチェは一瞬固まる。
確か、自己紹介も兼ねて説明したはずだったのだが……、どうやら聞き流されていたようだとペチェは解釈し、複雑な気持ちになる。
しかし……。
「ペチェがいなければ、危なかった。本当に助かった」
ディーナの素直な言葉が、一瞬にしてペチェの気持ちを復活させる。
「そんな……、そんなっ! ディーナさんの為なら、もっと頑張って魔法練習しますっ!」
ふんふんと鼻息を荒くし、興奮するペチェ。
しかし、その隣では、既にディーナは別の事を考えていた。
「……子どもとは、何の事だったのだろう?」
訊ねるわけでもなく、独り言のようにポツリと零すディーナ。
妙に気になる、あの雌ミドヌーの行動と、響いてきた声。
普通、魔物は、敵を前にしてあのような行動には出ないはずだ。
差し詰め、肉食魔獣ならば、決してあんな事にはならないだろう。
弱肉強食、それがこの世界の掟であり、絶対的な真実である。
前足を自ら折り曲げて伏せ、逃げもせず、戦いもしなかったあのミドヌー。
いったい何がしたかったのか、何が目的だったのか……。
左方から突撃してきた三頭の為に、こちらの視線を逸らすためだとしても腑に落ちない。
殺すつもりなら、なぜ自分で挑んでこなかった?
そしてなぜ、思いを伝えてきた?
「ミドヌーはこの時期、繁殖期ですからね。もしかしたら、この辺りで子ミドヌーとはぐれて、みんなで探しているのかも……」
ペチェが、ごくごくと果実のジュースを飲みながら言った。
「みんなで探している? どうして?」
「あれ? 言ってませんでしたか? ミドヌーは、群で子育てを行うんです。繁殖期以外は単体で行動していますけど、この時期だけは森の奥に集まって、群になって子どもを産み、育てる……。つまり、沢山のミドヌーが集まって、一つの大きな家族になって、みんなで子どもを守るんです。もし、一匹の子どもが肉食魔獣に襲われていたら、大人ミドヌーがみんなで助けに行きますよ。これは確かな事です!」
珍しく、得意気な顔になって話すペチェに対し、ディーナは訊ねる。
「襲われた子どもは、どうやって仲間に危険を知らせるんだ?」
ペチェは、う~んと考える素振りを見せてから、こう答えた。
「確か……。他の生き物にはなかなか聞こえないような、ミドヌー特有の音を出す、とか本に書いてあった気が……。けれど、それはちょっと考えられませんね。ミドヌーにしか聞こえない音なんて、そんなのあると思いますか?」
ペチェは、ないない! と言った風に笑ったが、ディーナは違った。
何かが頭の中で繋がりそうな……、そんな気がしていた。
「なぁ……、ミドヌーは、夜行性なのか?」
「いいえ、そういった記述はなかったと思います。この国には天敵となる肉食魔獣が少ないので、草食魔獣は昼間活動して、夜は眠っているのが通常かと……」
なるほど、そうなると……、ますます怪しいな……。
ディーナは、普段使わない頭を必死で回転させようとして、ジュースの中に入っていた氷を口に含み、鋭い牙で無意識にガリガリと噛み砕いていた。
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