第2話 濡れそぼる宵闇

 翌朝、校旗を挙げ終えて鞄を覗いたけれど、目当てのものは入っていなかった。しばし手を止め記憶をぐるりと巡ってから、ああクロッキー帳はないんだっけと思い出した。


 手元にクロッキー帳がないのなら寒空の下で過ごすこともない。屋上で過ごす時間を考慮して早めに登校しているから、教室にはまだ誰もいないはずだ。


 早々に教室へと向かうと、窓際の一番後ろの机に鞄を置いて窓を開けた。

 ひんやりとした風が吹き込んできて、砂埃の匂いと金木犀のほの甘い香りがする。

 サッカー部の男子の声とテニス部の女子の声が舞っている。


「さむっ」


 わたしは慌てて窓を閉める。風の香りは途絶え、たちまち声は遠のく。


 机の上にあると思ったクロッキー帳は見当たらなかったけれど、中に手を入れると慣れた厚紙の表紙に触れた。やっぱりここに忘れていたんだ。きっと定時制の生徒が机を使うのに邪魔だから中にしまったのだろう。


 クロッキー帳を取り出すと、白いものがはらりと落ちた。


 薄汚れたPタイルの床に張り付いたそれを爪の先でひっかけて摘まみ上げる。手のひらより小さないびつな三角形。ノートの切れ端だった。


 いつどのノートが破けてしまったのだろうと答えを求めるでもなくぼんやりと考えながら、ゴミはゴミだと思いぐしゃりと握りつぶす。

 ゴミ箱の上で手を開いた瞬間、文字が見えた。自分の筆跡ではない文字がゴミ箱に落ちていく。

 とっさにゴミ箱に腕を差し入れて拾い上げる。そっと開くとそこには筆圧の強い大きな文字が並んでいた。


〈大丈夫?〉


 たった一言。


 ドクンッと心が跳ねた。


 急いで席に戻り、クロッキー帳の表紙を撫でる。涙の跡が乾いてザラザラの水玉模様になっている。


 いや、まさか──。だってそんなことあるわけない。

 この言葉はなにか違うものに向けられたのだろう。このノートはなにか意図しない理由で千切れたのだろう。


 ──でも、だったら、どうして、わたしの机に入っていたの?


 誰も知らないはずのわたしの涙に気付いてくれた人がいるなんて、そんな都合のいいことあるわけがない。あるわけがない。あるわけがないのに……。


 ──これはあの人だ。

 見ているこちらまで笑顔になってしまうくらい明るく笑うあの人だ。


 あの日、屋上からわたしがその姿を見つけた日、あの人はこの教室でわたしの心を見つけた。わたしがあの人の笑顔を見つめた日、あの人はわたしの涙を見つめていた。──そういうことなんだ。


 目頭が内から押し上げられるように熱くなる。瞬きをすればまた水玉模様を増やしてしまう。この気持ちをこぼさないように、わたしは窓の外の空を見上げるふりをして熱い想いをしまいこむ。

 誰もいない教室で空を見上げるふりなんて、わたしってば誰に対してなにをごまかそうとしているのだろう。そう思ったらなんだか無性におかしくなって、今度はフッと笑ってしまう。


亜衣あい~。おっはよ~」


 千夏ちなつが教室に走りこんでくる。


「え? 千夏? どうしたの、今日、早くない?」

「だってだって~。亜衣には直接報告したいから朝になるの待っていたんだもん」

「え? え? なになに?」

「えっとぉ、実はぁ、昨日……告られました!」


 わたしの瞼の裏に昨日の他校生の残像が甦る。


「あ……もしかして、昨日の?」

「え、やだ。見てたの? 昨日バイトに一緒に行こうって言われて、これはもしやと思ったんだけど、自意識過剰だったらイタイじゃん? だから亜衣には内緒にしておきたかったのに~。でもまあいいか。あれがあたしの彼氏です!」


 照れなんかいっさいなくてただただ嬉しそうな千夏は今までで一番かわいい。


「おめでとう! いつから好きだったの? ぜんぜん知らなかったよ~」

「う~んとね、昨日から?」

「は?」

「今までなんとも思っていなかったんだよね~。告られて、なんかいいなって思ったの」

「そんなのでいいの?」

「まあ、悪い奴じゃないし、話していて楽しいしね。それに恋なんて突然落ちるものだから」


 千夏が真顔で言うから、わたしはおなかを抱えて笑ってしまう。


「なにそれ? なんかのセリフ?」

「知らん。あたしの名言ってことで!」


 千夏と一緒に笑いながら、わたしはノートの切れ端への恋に落ちていた。



      *



 放課後の屋上には一人で上ることが多くなった。千夏と一緒に上っても短い時間だけだったりする。そんな日は校門で待つ彼氏と連れ立って帰っていく千夏と大きく手を振り合う。

 初めの頃は千夏も申し訳なさそうにしていたし、わたしもちょっと淋しかったりしたけれど、それももう慣れた。コートを着る頃には寒さもあって千夏とは教室でバイバイをすることも増えたし、ずっとこんな感じだったような気がするから不思議だ。


 わたしの放課後は相変わらずで、校旗を降ろした後も屋上で過ごしている。


 凍える手に息を吹きかけて温めようとするけれど、冷たい痛みが去るのは一瞬で、口元から離した途端に湿り気を帯びた指先は一層冷えてかじかんでしまう。

 鉛筆を持つこともままならず、寒空の下で描くことは諦めた。

 わたしは向かいに建つ東棟の明るい窓をただ見つめる。三年一組の窓ばかり眺めている。あの人の姿を瞼の裏に焼き付けていく。


 次の日の朝は教室でクロッキー帳を開き、瞼の裏の記憶を呼び起こしながら昨日見た姿を描いていく。半日前までここにいたその姿を思い描く。

 まだ誰も来ていない教室で記憶を頼りに描くことが日課になっていた。


 あの人のことを思い出すその時間は、遠くの窓にその姿をみとめる時間と同じくらい愛おしい。友達と話す時によく動くその手があのノートの切れ端に文字を書いたのかと思うと鼓動が高まり、頬が緩んだ。


 使いかけだったクロッキー帳はとっくにページがなくなり、今は購買部で買った二冊目を使っている。


 放課後の屋上は闇に沈んで、明るい教室から見えないはずだ。そのことがわたしの気持ちを大胆にする。

 目を逸らすことなくあの人の姿を見つめられる。見つからないという安心感。そしてほんの少しの、気付いてもらえない淋しさ。

 あの人は同じ机を使う誰かのことなんてもう気にしていないのだろう。


 制服のポケットに手を入れ、定期入れをつかむ。三角形のノートの切れ端を挟んである定期入れ。筆圧の強い大きな、あまり上手とは言えない文字。広げて目にしなくても、ただ思い浮かべるだけで寒さをしのげる気がする。


 あの笑顔で誰かを「大丈夫?」と気遣うことは、あの人にしてみたら特別なことではないのだろう。わたしにとってあの人は特別でも、あの人にとってわたしは特別でもなんでもない。記憶にも心にも存在すらしていないに違いない。

 そのことが屋上を吹き抜ける夜風よりも鋭くわたしを切りつける。



      *



「それ、おまじないかなんかなの?」


 帰りのホームルームが終わって席を立つと、千夏がじっとわたしを見つめていた。


「おまじない? なにが?」

「それよ、それ。なんなの、その儀式みたいなの」


 わたしはウエットティッシュで拭いた机の表面をそっと撫でているところだった。


 机を拭くのはあの人が気持ちよく使えるようにと思ってし始めたことだ。でもその後に撫でていたのは無意識だった。


「前から気になっていたんだよね。机を拭いてから丁寧に撫でてるでしょ」

「わたし、いつも机を撫でてた?」

「え。まさか自分では気付いてなかったの?」


 わたしはうん、と小さく頷いた。


「撫でながら呪文でも唱えているのかと思ってちょっと怖かったよ」


 千夏はそう言って笑う。だけどなにかしらの説明を求めているのが伝わってくる。


 千夏になら話してもいいかもしれない。そう思ってクロッキー帳を机の上に出しながら話し始める。


「これの前に使っていたクロッキー帳なんだけどね、朝、校旗を揚げたあとに屋上でスケッチをしていて……」


 西棟の屋上を見上げると、千夏もわたしの視線をたどる。──その瞬間、ヒュッと二人同時に息を飲み、叫んだ。


「雨だ!」


 わたしたちは揃って教室を飛び出した。


「校旗が濡れる!」わたしは西棟の職員室へと走る。

「傘持ってない!」千夏は東棟の昇降口へと向かう。


 慌ただしく手を振り合ってそれぞれの方角へと向かう。


 校旗を職員室に返却した直後に雨は激しくなった。


 東棟昇降口のひさしの下で折りたたみ傘を開く時になってようやく、千夏を駅まで一緒に入れてあげればよかったと気付く。千夏は本降りになる前に駅まで行けただろうか。


 そしてあの人は雨に濡れずに登校できただろうか。


 いつもは見下ろす窓をはるか下から見上げる。傘を傾け冷たい雨を浴びることもいとわず見上げたところで、天井の一部が見えるだけだ。ここからでは窓の内はうかがえない。

 雨のグラウンドで部活動をする者もなく、周波数の乱れたラジオのような雨音が近づく夜を深くする。

 濡れた前髪から滴がぽたりぽたりと落ちてきて、鼻筋や頬に沿って流れる。

 寒い。そう思ってハッとする。

 やだ、わたしったら。こんな冷たい雨に濡れていたら風邪をひいてしまう。

 傾けていた傘を正そうとした拍子にかすかな風が起こり、鼻先をくすぐった。


 ──くしゅんっ。


 ひと気のない空間にわたしのくしゃみは意外にも大きく響いた。


 誰もいなくてよかったと思ったその時、視界の隅に動くものがあった。反射的に目を向ける。さっきまで見上げていた窓。そこからこちらを見下ろす顔があった。

 あの窓の位置は──。


 その人は少し驚いたような表情をしていた。けれどもしだいに上がっていた眉が下がり、細く開いていた口元は締められて口角がかすかに上がった。あるいはそう見えただけなのかもしれない。辺りは雨に煙っていたし、わたしは見たいものを瞳に映しただけだったのかもしれない。

 それでもあの人がそこにいて、こちらを見ているのは現実だった。暗闇に浮かぶ屋外ビジョンの中にしかいなかったあの人。どこかで実は存在しないんじゃないかとさえ思っていた。それは昼と夜という重ならない時間のせいかもしれないし、東棟の四階と西棟の屋上という繋がらない空間のせいかもしれない。

 それなのに……一方的に見つめるだけだったはずなのに、なぜか今は見つめられている。重なって繋がる視線。

 それは仮想と現実が溶け合ってしまったかのような奇妙な感覚だった。


 逃げたくて隠れたくて。でも顔をそむけることも目をそらすことさえできなくて。だってあの人がこっちを向いたまま動かないから。


 わたしの顔にもあの人の髪にも冷たい雨が降る。


「タクミ~、さみーから窓閉めろよ」


 教室の奥から呼ぶ声にあの人の頭が引っこんで、窓が閉められた。


「──タクミ、さん」


 雨音よりも小さな声で呼んでみる。


 たった今、「あの人」は「タクミさん」になった。

 そしてわたしは今この瞬間から雨が好きになった。

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