夕映えスケッチ
霜月透子
第1話 たゆたう黄昏
光の和らいだ空。小さな雲が連なって流れていく。浅紫と薄紅の影をまとって流れていく。
「おいしそ……」
穏やかなひとときをぶち壊す呟きが聞こえ、わたしは寝転がったまま顔を横に向けた。頬にコンクリートがこすれてチクチクする。視線の先には同じく寝転がって空を見上げる
「ああいう色、サーモンピンクって言うんでしょ? 鮭っておいしいよね。あたし、焼いたのも、お寿司も好き」
たしかに千夏はよく鮭おにぎりを食べている。おばさんの手作りじゃなくてコンビニのやつ。千夏はお弁当を持ってきたことがない。わたしはコンビニでお昼ご飯を買ったことがない。
千夏は門限がない。わたしは授業が終わって一時間以内に帰宅していないといけない。
千夏は洋服や遊ぶお金が欲しくて駅前のカフェでバイトをしている。わたしはバイトをしたことがないけれど、欲しいものはお母さんが買ってくれる。
わたしたちはいろんなものが違う。なのになんでわたしたちは一緒にいるんだろう。それとも、違うからわたしたちは一緒にいるんだろうか。
東の空は宵の色に沈んでいるのに、西の空はまだ仄明るい。
こうして屋上で寝転んでいると空しか見えなくて、空中に浮かんでいるみたいだといつも思う。家もコンビニも駅前のカフェもなにもかもずっと下の方にあって、この学校だけがフワフワとのんびり空を漂っている気がする。
本当にそうであればいいのに、と思う。下界に降りることなくあの雲と並んでこのままどこかへと流れていってしまえばいいのに、と。
チャイムが鳴る。下界へと続く梯子が架けられる音。
「もう帰らなくちゃ」
わたしは起き上がってスカートの後ろをはたき、畳んでおいた校旗を抱える。
「
千夏はまだ仰向けのまま明るい声を出した。だからわたしも明るく答えなくちゃって思う。
「うち? たぶんハッシュドビーフ。今朝お母さんがそんなこと言ってた気がする」
「はっしゅどびーふぅ? そんなのファミレスでしか食べたことないや。亜衣んちはおしゃれでいいね~」
「ハッシュドビーフくらいべつにおしゃれでもなんでもないじゃん。どこのうちでも作るでしょ」
言ってしまってから、しまったと思うが、そこはあえて謝らない。謝ってしまうと大切なことみたいになっちゃうから。千夏も変わらず明るい声でわざとらしい不満げな声を出す。
「うちはまたきっとスーパーの二割引き惣菜だよ」
千夏はいつもわたしを羨ましがる。
「せめて唐揚げだといいな~」と言いながら足を振り上げて勢いよく立ち上がった千夏の後ろに回り、本人の代わりにそのお尻をはたいてからスカートの裾を整えてあげた。
職員室のキャビネットに校旗をしまって校舎を出た頃にはすっかり暗くなっていた。
校門でバイバイと笑顔で手を振り合ったあと、千夏はバイトのため駅へと続く道を歩いていく。わたしは駐輪場へと向かいながらコの字型の校舎を振り返る。
西棟一階の職員室と東棟四階の三年一組の教室だけが白く浮かび上がっている。わたしたちの教室は、定時制の教室でもある。
チャイムが鳴った。
定時制始業の時間だ。わたしは慌てて自転車を取りに行った。
*
校旗掲揚が生徒会の仕事だなんて自分がやることになるまでは知らなかった。それどころか校旗なんてものが西棟の屋上に揚げられていたことさえ知らなかった。
校旗は始業前に揚げて、放課後に降ろす。初めのうちは生徒会役員七人の当番制だったけれど、都合が悪いという人の当番を代わっているうちに面倒になってわたしの仕事でいいですよって言ってしまった。ほかの人は朝も放課後も部活があるから、帰宅部のわたしが校旗掲揚係を引き受ければ都合がいいだろう。
なによりわたしはこの仕事が好きだ。通常屋上は立ち入り禁止だから、なんだか得をした気分になる。放課後に千夏とダラダラ過ごす屋上も好きだし、朝ひとりで上る屋上も好きだ。
朝は東棟の教室に鞄を置きに行ってからだと遠回りになるから、いつも西棟一階の職員室で校旗と鍵を借りるとそのまま屋上へと上がっている。
屋上の重い扉に体重をかけながら外へと開くと、わたし専用の朝が広がっている。ひんやりと澄んだ風に金木犀の香りが乗っている。秋も深まり、朝の寒さが厳しくなってきた。
掲揚ポールのクリートに巻きつけてあるロープの先端をほどいていく。校旗の紐を結びつけ、カラカラと頼りない滑車の音とともに一番上まで揚げる。手元のロープを再びクリートに8の字に括り付けて固定すると、その場に腰を下ろし鞄から小さなクロッキー帳を取り出した。
人が出入りすることを想定していない屋上の塀は低い。ペタリと床に座ると鼻の高さに縁がある。姿が隠れるから下を通る人から見つかることもないけれど、屋上から見下ろそうとしても座ったままでは東棟の四階部分しか見えない。わたしはその四階部分をスケッチする。
特にモチーフにこだわりがあるわけではない。ふと目についたものをサラサラと写すだけだ。その時によって屋上の入口と給水塔を描いたり、塀から身を乗り出してサッカー部の朝練風景を描いたり、コンクリートの床に落ちている枯葉を描いたりする。
スケッチそのものにも意味はない。歌が好きだったら鼻歌だったかもしれない。だいたい絵だってそれほど得意なわけでもない。
二年生まで芸術選択科目は美術だったけれど、音楽や書道よりましだと思って選択しただけだった。三年生では芸術科目の授業がなくなったから、それまで使っていたクロッキー帳のページがあまってしまった。まだ半分以上残る白いページがなんだか淋しそうで、わたしはクロッキー帳を持ち歩いては一人の時間にこうして写生の真似事を繰り返している。
クロッキー帳に描いた東棟四階の教室とその周囲は、直線ばかりでできていてなんだかよそよそしい。
家にいるのが息苦しくて校旗掲揚の係を引き受けてまで早く登校しているのに、学校に来ても本当にここにいていいのか不安になってしまう。
放課後屋上で千夏と寝転んでいる間は、ちょっとだけ心をほどくことができる。そう、ちょっとだけ。
千夏はわたしがなんでも持っていると思っているから、わたしはそれに応えなくちゃって思う。
不満なんてなにもない。嫌なことなんてなにもない。
そんなふうにしていないと千夏は離れていっちゃう気がして。ほんとうのわたしはどこにもいない──。
ぶわりと大きな風が吹いて校旗が風をはらみバタバタと音を立てた。鼻先をかすめていく金木犀の香りに眉間の奥が広がる。ツンと冷えた一陣の風がわたしの胸を突き抜けていく。そして視界が水に沈む。
ポトポトとクロッキー帳の表紙に模様を描く。藁みたいな色をした厚紙の表紙に落ちたいくつかの丸模様。しずくの跡は水を含んで少し膨らんでいる。乾いてからも跡が残るかもしれない。美術の授業はもうないから構わないけど。
わたしは少し毛羽立ったいくつかの水玉模様を人差し指でそっと撫でた。
だいじょうぶ。わたしはだいじょうぶ。
予鈴が鳴る。
スケッチしていた窓の向こうにいくつもの人影が見えている。わたしもあそこに行かなくちゃ。東棟四階、三年一組の教室へ。
わたしは鞄とクロッキー帳を抱えて屋上を後にした。
*
放課後、屋上に出てから、クロッキー帳を教室に忘れたことに気が付いた。
鞄に入れる直前に千夏に声をかけられて、そのまま机の上に置き去りにしたに違いない。もしや無意識のうちに鞄にいれていないかと期待してあさってみてもやはり入っていなかった。
「もう寒いね~」
屋上の塀に腰かけた千夏が自分の腕をさすっている。
わたしはもうすぐ冬だしね~とか言いながら千夏の腕を引っ張った。
「そんなところに座らないでよ。落ちたらどうするの」
千夏は素直に塀を離れたかと思うと、足元の鞄を拾い上げた。
「え? もう帰るの?」
まだ屋上に上ってきたばかりで校旗を降ろすどころかクリートからロープをはずしてもいない。
「うん。帰ろっかな」
「……もしかして、さっきので気分悪くした?」
「さっきの?」
「そこに座っているのを注意したから……」
塀を指差すと千夏はその先をちらりと見てから苦しそうな顔で笑った。
「いや、そうじゃないよ。そうじゃないんだけど……うん、まあ、とりあえず今日は帰るわ。寒いしね」
千夏は今度こそきちんと笑って手を振った。怒っているわけではなさそうだからわたしも笑顔で手を振る。
ひとり屋上に残されたわたしは校旗を降ろし、畳むために四隅を摘まんで両腕を広げながら校門へと続く通路を見下ろす。千夏が小走りをしている。きっとこっちを見上げて手を振るだろうと思ってその姿を追っていたのに、彼女はそのまま校門の外まで走っていき、やっと足を止めたところには他校の制服を着た男子が立っていた。
ああ、そういうことね……。
大袈裟なほどの身振り手振りで話しながら去っていくふたりの後姿を見送ると、わたしは地べたにぺたりと座り込んだ。
友達より彼氏を取るなんて、とか言うつもりはない。だけど、なんで言ってくれないのだろうと怒りと悲しみが絡まってしまう。
他校の生徒ということはきっとバイト仲間なのだろう。カフェの店長の話や仲のいい女の子の話は聞いたことがある。でもたぶんあの男子の話は聞いたことがない。
千夏に好きな人がいるなんてちっとも知らなかった。
なんで。どうして。
イライラと血が駆け巡り、そのくせキリキリと痛む胸の奥は鋭い冷たさに凍えそうになる。
寒い。ここは寒い。
校旗は降ろしたのだからもう帰ればいい。それはそうなのだけど。帰りたくない。
学校も家も友達も特に不満があるわけでもない。かといって満足しているわけでもない。寒いのに温度のない空間にいるような。
なにもない。わたしの周りにはなにもない。わたしにはなにもない。
ついこの前まで夕焼けを映していた空にも夜が侵食してきている。夏の頃ならば夜の七時でもまだ明るいのに、今はもう五時を回れば夜の入口。
かすかに笑い声が闇を割って耳に届く。声の糸を視線で辿った先には、東棟四階の窓が街頭ビジョンのように浮かんでいて、仰け反って笑う男の人の影が映し出されている。窓際の一番後ろの席。昼間はわたしの席。わたしの机に見知らぬ人が腰かけて笑っている。それはなんとも胸の奥がもぞもぞして落ち着かない光景だった。
教室には定時制の生徒が集まり始めていた。今日はもうクロッキー帳を教室に取りに戻るのは諦めよう。
わたしはもう一度夜に浮かぶ映像に目をやる。
いったいなにがそんなに面白いのか、相変わらずその人は笑っている。その楽しそうな姿を見ているとわけもわからずこちらまで笑顔になってしまうのがなんだかくすぐったかった。
「……変な人」
わたしはクロッキー帳の分だけ軽い鞄を抱えて屋上を後にした。
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