碩学篠島教授の私的美学講義

阿井上夫

A面一曲目 オリエンテーション

 奥羽おうう大学文学部英文学科二年生の園畑弥生そのはたやよいは、迷っていた。


 八月上旬の土曜日、時刻はまもなく午前十時になろうとしている。

 天候は晴れ、気温は既に摂氏三十五度を超えていた。

 東北地方とはいえ宮城県仙台市は太平洋側に位置するため、八月の午前中に気温が三十五度を超えても珍しくない。

 弥生が立っていた廊下には北を向いた窓が並んでおり、直射日光が差し込むことはなかったものの、窓硝子を経由して外気温が建物内にじわじわと入り込んでいた。

 加えて、この建物の廊下には空調はおろか換気扇すら設置されていない。

 逃げ場のない熱気は圧力を伴って、細長い空間の中に充満していた。


 その日の朝、弥生は青葉区八幡あおばくはちまんのマンションを自転車で午前九時に出た。

 これは弥生の習慣で、休みの日でも予定があるとこの時間から活動を開始してしまう。

 九時二十分には青葉区川内あおばくかわうちの文系キャンパスに到着したため、ちょっと早過ぎたと反省したが、後の祭りだった。

 さらに、時間調整の頼もしい味方である大学付属図書館は、土曜日なので午前十時にならないとかない。

 仕方なく弥生は、大学のそばにあるコンビニに立ち寄った。

 コンビニにたむろして時間を浪費するのは、彼女の信条や生活スタイルに合わないのだが、真夏の戸外にたたずみたいとも思わない。

 冷房の効いた店内で時間調整した後、ここまでやってきた。

 店をを出た時点で気温は急上昇していたが、風が通っていた分、ここよりも気分的に暑くなかった。


 弥生は、汗がショートカットの襟足えりあしから背中を伝って、腰へ落ちていくのを感じる。

 明るい黄色の半袖シャツに汗が染み込んで、下着が透けて見えるのではないかと、気が気ではない。

 とりあえず下着を基本の白にして正解だった――と、おかしな方向に救いを求めてみる。

 こうなるともう、軽く見られないようにあえて着たベージュのロングスカートは、自爆行為以外の何物でもない。

 身動みじろぎするたびに足に貼り付いて、不快なことこの上なかった。

 さらに、内股に感じる湿りと粘りが過去の出来事を思い起こさせて、弥生は憂鬱ゆううつになる。

 今すぐにでも冷房の効いた図書館にもぐり込みたかった。

 そして、そろそろ開館時刻になる。


 その一方で、弥生は迷っていた。


 窓の外には、夏の強い日差しに照らされて無表情に静まりかえった中庭があり、その向こうには四階建の法学部棟が見えていた。

 法学部棟は二年前に新設されたものである。

 気温の急上昇にも毅然とした涼しげなたたずまいを崩さない。

「建物内の気密性が高い上に、全館に冷暖房が行き届いていて、夏でも冬でも全然困らないんだって」

 一年生の頃、知り合ったばかりの法学部の学生がそう言っていたのを、弥生は思い出した。

 そして、秋田県能代市から出てきたばかりだった弥生は、

「それだと内と外との気温差が激しいから、体調を崩したりしないのかな」

 と、本気で心配した。

 その頃の自分は信じられないほど純真だった――と、弥生は感慨を覚える。

 今では、外気温そのままだと更に体には悪いことを理解していた。


 さて、その時、弥生がいたのは文学部棟である。

 法学部棟と同じ四階建だが、こちらは何時から建っているのか分からないほど古かった。

 さすがに戦前から建っている訳ではないが、昭和六十年以降でもない。

 躯体くたいは肉厚で頑丈。

 気密性も高かったが、こちらの建物の場合は逆効果である。

 内にこもった熱気がなかなか外に出てゆかないからだ。

 大学に対する経済的な貢献度の高低が、建物格差となって表に現れていた。


 大学は今、夏季休暇期間中である。

 そのため、文学部棟を東西に伸びる全長五十メートルほどの廊下に人影はなかった。

 建物の中央にある各階をつなぐ主階段や、東側外部にある非常階段から、誰かが姿を現す気配もなかった。

 正面玄関からここまでやってくる間の廊下には、室内に収まり切らずにあふれ出た雑多なものが積まれていた。

 そして、ところどころ歩行者がすれ違うことすら困難なほどに狭くなっていた。

 それら雑多なものから発せられるかび臭い匂いが、ここ数日の高温により化学反応でも起こしているのだろう。

 さらに、人の動きがないために廊下に滞留しているに違いない。

 先程から、鼻の奥のほうを無闇むやみに刺激されて、弥生は困った。

「もう、夏だし、空調ないし、換気扇もない廊下だし、最初から窓を開ければいいじゃない!」

 先刻、やつあたりのような気分でそんな独り言を口にしながら、弥生は窓に手をかけてみた。

 しかし、古い鉄製の窓枠は盛大にびていて、彼女一人の力では開けられそうにない。

 それに一度開けたが最後、閉められるかどうか怪しかった。

 閉められなければ、網戸あみどもない古い窓は終日開放状態となる。

 通りがかりの他の誰かが閉めてくれる可能性は低い。

 山際やまぎわに立地しているこのキャンパスでは、虫の大量侵入が不可避となる。

 あきらめて弥生は手を放した。

 万事休す、環境改善の方策はない。


 にもかかわらず、弥生は迷っていた。


 夏休み期間中であっても、大学教授は出勤しているはずである。

 それを信じて弥生はわざわざ、

 卒論の追い込み時期である年末から新入生の多い春先にかけてを外し、

 何のために来たのか分からない学生の多い平日を外し、

 暇潰しの来訪者があるかもしれない休日の午後を外し、

 肝心かんじんの教授自身が来ないかもしれない日曜日を外し、

 土曜日の午前中に的をしぼっておとずれたのだ。

 外から、部屋の蛍光灯がいていることまで、確認してあった。

 前日の消し忘れでなければ、誰かが来ていることになる。

 いずれであるかは目の前のドアをノックしてみればすぐに分かる。

 それなのに手が出ない。

 弥生は下を向いた。

 文学部棟の四階、非常階段すらないどん詰まりの西端にしはしに、この研究室は位置している。

 だから、ほこりが吹きまっていてもおかしくはない。

 ところが、他の研究室と違って廊下の片隅まで清掃が行き届いていた。

 それこそ、ちり一つ落ちていない。

 むしろ、そのことが最前から弥生の不安をき立てていた。

 欧米の怪奇小説では、行き過ぎた潔癖症はパーソナリティ障害につながる伏線であることが多い。


 ともかく、ここまできてまだ弥生は迷っていた。


 ドアの前に立ってから、かれこれ五分以上が経過していた。

 我ながら煮え切らない――弥生は自分でもそう思う。

 そもそも、どうして用意周到に計画および準備を重ねた上でここに立っているのか、その意義が分からなくなり始めていた。

 事の発端は単純な好奇心だった。

 途中経過はただの勢いに過ぎない。

 今朝からの行動は図書館に行くついでである。

 その気軽さから、当然といえば当然ながら、土壇場どたんばで決心が鈍った。

 根底には弥生が個人的に苦しんでいる問題がからんではいたものの、

「ここまでやるほどのことか?」

 と思い始めている。

 弥生はドアの上部を見上げた。

 身長が百五十センチちょっとしかない小柄な彼女では手が届かない位置に、ネームプレートが廊下に突き出すように取り付けられている。

 それには『史学科美学専攻 教授 篠島泰明しのじまやすあき』と、流麗な書体で書かれていた。

 弥生は頭を下げて溜息ためいきをつき、小さな声でつぶやく。

「もう帰ろうかな……」


 運命は心がくじけかかったところで悪戯いたずらを仕掛けてくる。


 教授室の東側には別な扉があり、上方には『美学研究室』と書かれたネームプレートが突き出ていた。

 教授室の前に立っていた弥生からすると、中央階段への退路を断たれる位置関係になる。

 その扉が静かに押し開かれて、中からツーポイントの華奢きゃしゃな眼鏡をかけ、よりよれの白衣を着た、大柄な女性が姿を見せた。

 大きく隆起した胸元に『佐伯美晴さえきみはる』というネームプレートがついている。

 美晴は立っていた弥生を見ると、「おや」とも「まあ」とも言い難い顔をしてから、

「篠島先生に御用ですか? 只今ただいま、先生は外出中ですが、すぐに戻ってこられると思いますから、こちらに座ってゆっくりお待ち下さい」

 と、一点のくもりもない笑顔を浮かべ、糸でからめ取る様なゆったりとした声で言った。 

 この時、出てきた人物が男性であったならば、弥生は恥ずかしさのあまり隙間をくぐってでも逃げ出していたであろう。

 しかし、ちょうど心細くなっていたところに優しい言葉をかけられて、一瞬で取り込まれてしまった。

 いや、それよりも何よりも研究室の中からは、福音ふくいんのような冷風が廊下に流れ出していた。

 それに身をさらしたいという誘惑に、弥生はあらがい切れない。

 彼女は本格的に逃げ場を失って、美晴に優しくうながされるままに研究室の中に入る。

 十二畳ほどの研究室の中には、会議室でよく見るスチール製の長机が三つ並べてあり、パイプ椅子が八つ置かれていた。

 弥生は、美晴に手で示された通りに窓側へ進むと、一番手前にあったパイプ椅子に深々と腰を下ろした。

 途端に皮膚上にある全ての汗腺かんせんがきゅっとすぼまった気がして、思わず身震いする。

 その上、大きく息を吐きながら「はあっ、助かったぁ」と声をあげてしまった。

 さすがにちょっとはしたなかったかな、と反省する。

 はしたないといえば――弥生は、まだ着席するように勧められていなかったことにも気づいて、顔を赤らめた。

 しかし、美晴は特にそれをとがめることもなく、研究室の東北のかどに置いてあった冷蔵庫のほうへと歩いて行った。

「何か飲みますか?」

「あ、その、お構いなく」

 弥生はそう言ったが、しばらくすると目の前にコップが現われた。

「麦茶ですが、どうぞ」

「はあ、有り難うございます」

 美晴は、そのまま机を挟んで弥生の目の前にあった、入口に一番近いところの椅子に腰を下ろすと、自身も麦茶を飲み始めた。

 なんだかマイペースな人だな――と、弥生は思った。

 そして、先程までは熱気におかされて余裕を失っていたので、ここで改めて彼女をよく観察してみることにした。


 推定年齢は三十代前半。

 一見すると若く見えるものの、首筋と手の具合から大体そんなところだろうと、弥生は判断した。

 そうなると、年齢的には教授秘書というより研究室助手のほうだと思われる。

 曰くつきの教授に師事する助手が、このような女性だとは思わなかったので、弥生は驚いた。

 まとまりの悪さから天然パーマと推測される長い黒髪を、後ろで無造作に束ねている。

 あちこちで毛が跳ねていたが、それがどこか猫を思わせて美晴にはよく似合っていた。

 眼鏡の向こう側には、二重瞼ふたえまぶたで黒目勝ちな大きい瞳がある。

 睫毛まつげはマスカラなしの自然状態で豪勢に突き出し、眉毛まゆげも自然状態だと思われるが、それでも主張しすぎない太さに収まっていた。

 すっきりと通った細い鼻の下に大きめの口があり、その右側には黒子ほくろがある。

 それは、目をらさなくても分かるが目障りではない、小筆で墨をぽつりと落としたくらいの大きさだった。

 そして、全体的に細い顔のラインが、その先にある顎のところで無理なく収斂しゅうれんしていた。

 かく、自然状態でも素材の良さを感じさせる女性である。

 もっと念入りに手を入れたら大変なことになるのは間違いないのだが、美晴自身は無頓着だった。

 ところどころ染みがついたままになっている、古びたよれよれの白衣を黙って着ているところをみると、他人から自分がどう見えているのか、彼女が殆ど気にしていないことが分かる。

 うらやましい――と、弥生は思った。


 さて、そこまで弥生の観察が進んだ時のことである。

 急に美晴が「あ」と短い悲鳴をあげた。

 見ると、飲んでいる最中に麦茶をこぼしてしまったらしい。

 口元から幾筋かの流れが、胸にむかって結構な水量で流れていた。

 麦茶に濡れた厚めの唇は、口紅をひいている訳でもなさそうなのに赤々としている。

 それが蛍光灯の明かりを反射して、どきりとするほど生々しく輝いた。

 しずくめ取る舌の動きは、内部にひそむ別種の軟体動物のように見える。

 その先にある黒子は、濡れて、最前よりも色が際立きわだっていた。

 なまめかしい光景に、弥生の鼓動は激しくなる。

 触れたくなるほど白く浮かび上がる喉元のどもとを、薄い褐色の水が流れ落ちてゆく。

 弥生の頭の中に、唐突に、

「あ、よごされてゆく」

 という言葉がいた。


「もう。ちょっとごめんなさいね」

 そう言って、美晴は無造作に白衣を脱ぐ。


 白衣の下には、シンプルな白いTシャツとブルージーンズがあり、それらが決してシンプルとはいえない身体を覆っていた。

 身長は推定で百七十センチぐらいだろう。

 全体的に見れば長身で細身なのに、胸のところだけが大きく張り出している。

 彼女はその胸に垂らしてしまった麦茶を、首元から手を差し込んでハンカチで拭いていた。

 Tシャツは思った以上に首元が開いたラフなものだったから、正面にいた弥生からは胸の上半分までがはっきり見えた。

 くっきりとした谷間。

 過激に盛り上がったいかにも柔らかそうな白い胸が、必要最小限の黒いブラで覆われている。

 それとも大き過ぎて、普通のものではおおえないだけだろうか――と、そんなことを考えた直後にサイズ別であることを思い出して、弥生は頭を振って馬鹿げた考えを締め出した。

 美晴の胸は、ハンカチでこすられるたびに柔らかくゆがんでから、軽やかにはずみ、次第に赤みを帯びていった。

「やだもう、びしょびしょで乾くまで時間がかかりそう。ごめんなさいね、見苦しくて」

「あ、いえ――」

 そんなことありません。

 いいものを拝見しました。

 そう、素直に言いそうになって、慌てて弥生は口をつぐむ。

 と同時に、動悸どうきが激しくなっていることに気づいて、彼女は狼狽ろうばいした。

(やだ、どうして私、女性の身体を見て昂奮こうふんしているの?)

 そう思うと顔までが赤くなる。

 それを隠すように下を向いていると、頭の上のほうから、

「ふぁさ」

 という衣擦きぬずれの音がしたので、反射的に弥生は顔を上げる。


 目の前には美晴の腰から上の部分があった。


 それを覆うものは、黒いブラしかない。

 誰が来るか分からない研究室内である。

 窓にはカーテンすら引かれていなかったから、まさかTシャツまで脱ぐとは思わなかった。

 それにしても胸の隆起の見事さは、ここまで露出されてみると更によく全貌が分かる。

 ただ大きいだけではない。

 しっかりとした張りがあり、下着がなくとも自重を支えることができそうだ。

 加えて胸から腰にかけての絞り込みが見事である。

 そこから再度急激に立ち上がる腰のラインもなまめかしい。

 弥生は頭がくらくらしてきた。


 どうしてだろう、と彼女は混乱しながらも考える。


 温泉でどれだけ女性の裸を見ても、ここまで幻惑されたことはない。

 その中には均整のとれた女の人も数多くいたはずなのに、いまかつてここまで蠱惑こわく的な身体を、弥生は見た記憶がなかった。

 ということは、多分これはもう「身体」というカテゴリーではない。

 そこで弥生はやっと気がついた。

 美晴の首筋から肩までの横のライン。

 美晴の胸元から腰までの縦のライン。

 そのラインの重なり具合が、とても心地よいのだ。

 弥生は数学が得意ではなかったから、高校時代に数学好きの友達がよく口にしていた「二次曲線の美しさ」を理解することができなかった。

 今、やっとその意味が実感できた。

 上からなぞってみたい、と思った途端に弥生の右手の指がうごめく。

 咄嗟とっさに左手で右手を抑えた。

 しかし、ラインから目を離すことが出来ない。

 美晴は白衣とTシャツを簡単なワイヤーハンガーにかけると、それを持って研究室の隅に移動した。

 目の前で刻一刻と変化してゆく優美な曲線。

 背中から見た時の縦横のバランスは、前方から見た時の緊張感とは対照的に滑らかさを感じさせる。

「それに沿って指をわせたら、どんなに気持ちが良いのだろう?」

 そう考えていることに気づき、弥生は我に帰る。

 なんだか腰から下の力が抜けたようになって安定しない。

 美晴の後姿から無理に目を引きはがして、弥生は他に視線を止める先を探した。

 壁に掛けてある額が目に入る。

 その中には彫像の写真が収められていた。


 背中から翼を広げた、首と両腕のない女性の像である。

 胸元から足の先までが薄い布のドレスで覆われている。

 しかし、布地が薄いせいか乳首やへそが浮き出ている。

 胸の下には帯のような一本の線が、絞り込むように通っている。

 それが余計に胸の豊かさを強調するように思われる。

 布は、風を受けて肌に貼り付いているかのように見える。

 細かいひだゆるやかに流れて、集まり、波打っている。

 美術の教科書で見たことのある彫像だったが、名前までは覚えていない。

 いかにも古くて、あちこち欠けた彫像なのに、すごく心がかれる。


「これは、サモトラケのニケです」


 急に耳元で美晴の声がしたので、弥生は飛び上がった。

「あ、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったのだけれど」

 そう言って、美晴は弥生の顔のすぐそばで微笑む。

 その無邪気さに弥生はぎこちなく微笑んだが、視線を何気なく下に降ろして動転した。

 考えてみれば、座っている小柄な弥生と同じ位置に大柄な美晴の顔があった訳だから、美晴が床に膝をついているのは当たり前のことである。

 しかし、上から眺め降ろす豊穣ほうじょうな胸の高まりと、その下にある絞り込まれたラインのコントラストは、どう考えても反則技である。

 しかも、美晴からは良い香りがしており、視覚と嗅覚の二方向から弥生は誘惑されていた。


「サモトラケのニケは、ギリシャ共和国のエーゲ海側北東端、東マケドニア・トラキア地方の沖合に浮かぶサモトラケ島、現在のサモトラキ島で発掘された彫像です。一八六三年にトルコのハドリアノポリス、現在のエディルネのフランス副領事代理であったシャルル・シャンポワゾが、パリ帝国美術館の展示物を求めて同島を訪れ、発掘を行なっていた時に発見されました」


 美晴によるサモトラケのニケの解説が始まった。


「最初に発見されたのは胴体部分でした。続いて、その周辺から百十八の断片と化した翼が見つかります。一九五〇年には右腕の断片も発見されて、現在では断片も含めたすべてがルーヴル美術館に保管されています。復元された彫像は、一八八四年にルーヴル美術館の『ダリュの階段』踊り場に展示されました。二〇一三年には、彫像の修復と展示場所である『ダリュの階段』の改修が行なわれています」


 この彫像の説明によほど慣れているのだろう。

 年号や人名などの細かい情報がよどみみなく次から次へと、美晴の口からあふれ出てくる。


「ニケはいくさに勝利したことを知らせてくれる女神です。この女神像が制作された時期は紀元前二世紀頃、ヘレニズム時代だと言われていますが、定かではありません」


 美晴の落ち着いた張りのある声に、今度は弥生の聴覚までが誘惑されてゆく。


「サモトラキ島は海から急に突き出た山のような形をしています。島の北岸、山のふもとに渓谷があり、そこに古い神殿があります。その神殿は、豊饒ほうじょうの巨人『カベイロイ』と呼ばれた神々に捧げられたものです。サモトラキ島の神々は、苦境にある者に助けをもたらすことで有名で、その神々に祈れば船乗りは難破を避けることができ、戦士は勝利を得ることができるとされていました」


 美晴は話す内容ごとに、それが長い場合にはある程度の纏まりごとに、必ず間合いを空けた。

 弥生の理解が追い付くのを待っているのだ。 


「彫像は、その神殿に寄進された数多くの奉納品の一つでした。前二世紀初頭にあった海戦での勝利を記念するため、ロードス島民が奉納品として献上したものと言われています。なぜなら、女神像は船のへさきかたどった台座の上に置かれていたからです」


 解説の合間に黙って自分を見つめる美晴の瞳を、弥生は至近距離で眺めた。

 そして、その虹彩が驚くほど明るい茶色であることに気づいた。

 日本人の瞳はよく「黒い」と言われるが、完全な黒ではない。

 普通は、黒い瞳孔の周りを濃度差のある茶色の虹彩が取り囲んでいる。

 

「この彫像は、女神像、舟の舳の形をした台座、全体を乗せるための土台、の三つの部分に分かれ、全体の高さは約五.五七メートルもあります。勝利を告げる女神像は、翼も含めて高さ二.七五メートルで、パロスの白大理石で作られています。船の舳の形をした台座は、高さが二.〇一メートルで、ロードス島のラルトス採石場特有の、白地に灰色のしまの入った大理石で作られています。土台は、高さが三六センチで、同じくラルトス採石場の大理石で作られています。現在では変色が進んでしまったために色の違いが薄れていますが、ラルトスの大理石の方が濃い色であるため、女神像に使われたパロスの大理石の白が強調され、浮かび上がるようになっておりました」


 虹彩の部分の色素が薄いためだろう。

 美晴の瞳の中には、黒い瞳孔と白目の間に明るい茶色の層が横たわっている。

 それがさらに茫洋ぼうようとした印象を、美晴に与えていた。


「女神の裸身はキトンと呼ばれる薄い布で覆われています。ところが、その下の身体の形がすべて露出しています。これは紀元前五世紀以降の作品に見られる『濡れた衣の透明性』という技法です」


 声と呼吸に合わせ、美晴の黒い下着と白い肌のコントラストは揺らぎ、細かく変化してゆく。

 本当は、サモトラケのニケの写真を見ながら話を聞くべきなのだろう。

 しかし、弥生は美晴の肢体したいから目が離せなくなっていた。

 美晴はその弥生の様子に気がついているはずなのに、何も言わない。

 ただ、解説する彼女の声は次第に熱を帯び始めた。


「衣は帯で持ち上げられ、短くなっています。折返しが腰の部分にありますが、それは帯が下まで落ちてしまった結果であり、そのためにもう一本の帯を用いて乳房の下で締め直しています。これは、紀元前六世紀以降見られる服の着こなし方です。衣は風の力を受けて身体に貼り付いています。衣の襞や風による膨らみを装飾効果として駆使するのは、紀元前二世紀頃のロードス様式に見られる特徴です」


 弥生は、自分の呼吸まで美晴の胸の動きに同調シンクロしてしまいそうになっている。

 目は既に美晴の動きに、耳は既に美晴の声に支配されていた。


「大きく開いた左の翼が、水平線よりも少し上の位置にあることで、女神の表現は非常に動的ダイナミックになっています。実は、現在ついている右の翼は、左の翼を型取りして反転させたものです。本物の右の翼の断片も二つ現存しておりますが、それによると右の翼は今のものより高い位置で、斜め外向きになっていたと推測されています。腰と胸は同一平面上に位置しており、正面を向いた胴体には一切ひねりがありません。にもかかわらず、右の乳房の位置が左に比べて高いことから、女神は右の腕を上げていたことが分かります」


 そう言いながら美晴は右腕を上げた。  

 それにつられて右の乳房が上がる。

 その同調シンクロする動きの美しさに、弥生は目を奪われた。


「右腕のごく小さな断片が残っており、それから右の腕の構えを推測することができます。女神は身体から腕を少し離して、肘を曲げて上に向けていました。昔は、右手にトランペット、冠、あるいは細い帯を持っていたのではないかと言われていましたが、一九五〇年にサモトラキ島で発掘された右手は、手の平を開いて二本の指を伸ばしておりました。つまり、何も持たず、挨拶のしぐさだけを行なっていたと考えられています」


 右腕をあげたまま、美晴は立ち上がって話を続けた。

 弥生はその姿を眼で追った。

 次第に美晴の身体が薄い衣で覆われていくような気がしてならない。


「さらに、両足も現存しませんが、足の位置だけが台座の表面に残っており、その跡から形状の推測が可能です。それによると、右足は船の甲板に乗せられ、左足は宙に浮いていました。つまり、女神は歩いている訳ではなく、台座の表面にそっと舞い降りたところだったのです」


 言葉にあわせるように、美晴は履いていたスリッパを脱いで裸足になる。

 そして、研究室の床の上で少しだけ飛び上がった。

 癖の多い髪。

 豊かな胸。

 幻想の衣。

 それらが連動して空中に浮かび上がり、そして柔らかく落ちる。

 胸は若干の揺り戻しを伴った。 


「女神像は神殿に、奥の壁に対して直角ではなく、少し斜めに配置されていました。従って、神殿に入って来た人は彫像を斜めから見ることになります。そのため、彫像を前にして右斜め四十五度から観察した時に最大の効果が得られるように作られています」


 右手を上げ、右足はかかとを上げ、左足は爪先立ちの姿で、美晴は弥生に向かって身体を斜めに構えた。

 幻想の衣が風に流され、襞を生み、美晴の身体に貼りついてゆく。

 美晴の声が一層熱を帯びた。


「その角度から見た時、彫像を構成するラインが明確に現れます。一つ目のラインは大きい垂直線。右足に沿って胸の高さまで上がっています。もう一つのラインは斜めの線。左足からももへ上がり、胸に至ります。その二本のラインと、翼の広げられた角度、前に傾いた身体の線が、女神像に勢いと緊張を与えています。それにより女神像の写実性が強調されています」


 美晴の背中から、柔らかな羽毛に包まれた翼が現われた。

 それは大きく一振りされた後、彫像と同じような位置に落ち着く。


「また、このことから身体の右側部分が左側部分に比べて簡潔に仕上げられている理由が明らかになります。女神像が作業途中だったという意味ではなく、単に仕上げの段階で彫刻家が、人の目に触れないところにまで手を入れるのは無駄と判断したために、右側部分は非常に大まかに処理されたのです。同じ理由で翼や背中の目に触れないところも大まかに処理されています」


 女神像はそうかもしれない。

 しかし、弥生は美晴の肢体の隠されている部分の美しさを、確信していた。

 ジーンズの上からでも、彼女の脚線の美しさは十分に分かる。

 弥生の脳裡には、ジーンズすら脱ぎ捨てた美晴の蠱惑的な肢体が立ち上がっていた。


「サモトラケのニケは不完全な女神像です。奉納された時点で既に手を抜かれた部分がありましたし、年月を経て失われてしまった部分もあります。残されているものから、実際の姿をすべて推測できる訳でもありません。しかし、そのように部分的に欠けているからこそ、残った他の部分の調和がより際だつこともあります」


 最後に残された黒い下着すらも、次第にその存在を薄れさせてゆく。

 もう少しで完全な女神像が誕生する――


「これは篠島先生にも言えることです。先生は包茎ほうけいであり、早漏そうろうです。それに精索静脈瘤せいさくじょうみゃくりゅうによる乏精子症ぼうせいししょうです。勿論もちろん、それらは先生の本質を物語るものではありません。しかし、一般的には男性として重要な部分が欠落していると判断されることがあり――あの、どうかしましたか?」


 どうということはない。

 美晴から提示された生々しい言葉に、弥生が即座に対応できなかっただけのことである。


 *


「さて、Tシャツも乾きましたので、私から貴方へのオリエンテーションはこれで終了します」

 美晴は、干していた白衣とTシャツをワイヤーハンガーから外すと、それを手早く身に着けた。

「あの……オリエンテーション、ですか?」

 オリエンテーションとは、正式な講義が始まる前の予備説明を指す。

「そう、貴方は反応のよい素晴しい生徒でした。ところで、自身の知能指数について何か話を聞いたことはありますか?」

「いえ、ありません。それが何か関係あるのですか?」

「あります、何故なら――」

 ここで先を続けそうになった美晴が、にっこりと笑って急に口を閉ざす。

 その変化を不審に思う弥生の後ろから、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。


「美晴君の肢体が生み出すラインの美しさに同調シンクロし、別次元を垣間見ることが出来るのは、知能指数が百三十以上の者に限られますから」

 

 振り向くと、一般教養科目の講義で目にした姿が、弥生の目の前にあった。

 年齢は五十歳ちょうど。

 そのことは図書館の蔵書にあった教授の著書で、事前に確認した。

 身長は百七十センチ半ばぐらいで、助手の美晴よりわずかに高い。

 殆ど白くなった髪は、短く刈り込まれていた。

 彫りの深い顔立ちに、ツーポイントの華奢な眼鏡をかけている。

 眼鏡の向こう側にある瞳は細められていた。

 この瞳は、講義が佳境に入ると大きく見開かれる。

 例年、その「見開かれた」ところが期末試験で出題される、と有名だった。

 昔、何かスポーツをしていたのであろう。

 筋肉質とは言えないが貧弱とも言い難く、微妙に固太りして見える。

 以上を総合して、弥生は彼のことを

「どこにでもいる平凡な初老の男性に過ぎない」

 と考えていた。

 そして、それだからこそ噂の真偽を問いただしたくなったのだ。


「あ、あの――」


 そういえば、最初に何と言ったらよいのか考えていなかった――弥生は、口籠くちごもる。

 教授は笑いながら右手を挙げて、彼女を制した。

「真面目に講義に出席している学生は、顔と名前を一致させるようにしています。検索に少々時間がかかるのですが――そう、園畑弥生さんでしたね」

 と、教授はまず弥生の素性を確認した。

 教授の授業を受講していたのは一年生の時であり、二年生になってからは受講していない。

 それでもちゃんと弥生のことを記憶している教授に、彼女は驚いた。

「はい、そうです。園畑弥生です。ご不在の時に急に訪問してしまい、大変申し訳ございません」

「いや、よいのですよ。それが向学心の本質ですから」

 入口から研究室の中に入ってきた教授は、弥生が座っている後ろを通り過ぎて研究室の東南の角まで行くと、長机の端に手に持っていた本や雑誌の束を置いた。

 本は、かなり年季の入った洋書三冊。

 雑誌は、A四サイズで表紙が堅めの白い紙であったから、恐らくは学会誌のようなものだろう。

 あちこちに付箋が貼ってあり、教授はそれを一つ一つ指して、ごく短い指示を美晴に告げた。

 コピーをしておいて欲しいという話だろうな――と、弥生はぼんやり考える。

 彼女の中には先程までの濃厚な雰囲気が、余韻よいんとして残っていた。

「さて、美晴君のオリエンテーションは完了しているということですから、続いて私からのオリエンテーションとなりますが、教授室で構いませんか」

 と、教授に話しかけられて、弥生は慌てた。

 そう、自分は教授と話をしに来たのである。

 気を抜いて、ぼおっとしている場合ではない。

「はい、お願いします!」

 と、元気よく答えた後、それがこれからする話の内容とそぐわないことに弥生は気がついた。

「あ、お願いします……」

 と、小さな声で言い直してみたが、それも何だかおかしい。

「じゃあ、こちらへどうぞ」

 弥生の戸惑いには頓着とんちゃくせず、教授は研究室と教授室の間の扉に、どこかの古民家の土蔵から持ってきたかのような古風な鍵を差し込んで、開錠した。


 *


 教授室の中は、南側の窓の部分と北側の入口扉、東側の研究室との連絡扉を除いた壁が、天井まである濃い茶色――ブラックウォルナット製の本棚で完全に覆われていた。

 窓の下や入口扉の隣にもブラックウォルナット製の本棚が嵌め込まれており、壁が見えるのは窓の上、エアコンが敷設された周囲の僅かな余白だけである。

 本棚には日本語や英語は当然として、他の様々な言語によって書かれた書物が整然と並べられていた。

 どこにも乱れた感じはない。

 むしろ、古くからある図書館の一角のような、静謐せいひつな空気を感じる。

 本の日焼けを避けるために、窓は遮光性が高い厚手のカーテンで覆われており、もうすぐ真夏の正午に近い時間であるにも拘らず、照明が必要だった。

 しかも、教授がともしたのは僅かにオレンジがかった照明である。

 事務所に多い昼白色の光は硬質さや鋭敏さを感じさせずにはいられないが、オレンジがかかった電球色は図書館や居間にいるような柔らかさや穏やかさを感じさせる。

 それがこの室内の雰囲気によく似合っていた。

 文学部棟の教授室は一律六畳ほどの広さであるから、篠島教授の部屋は本棚がある分だけ横幅が狭い。

 但し、無駄な物は置かれていなかった。

 周りを囲む本棚と、教授が執務するためのブラックウォルナット製の机、その机に向かい合うように置かれた黒革の柔らかなソファ以外に、大きめの家具は置かれていない。

 冷蔵庫すらなかった。


 弥生は教授に勧められて黒革のソファに座る。

 安物にありがちな身体を跳ね返してくる硬さや、半端な高級品にありがちな吸い込まれるほどの柔らかさのいずれでもない、身体をしっかりと受け止めて安定させてくれる、程の良い堅さのソファだった。

 教授は執務用の椅子に座った。

 ソファのほうが座面が低いので、弥生は教授から見下ろされることになったが、威圧感は感じなかった。

「園畑さん、それではご用件をどうぞ」

 教授からうながされて、弥生は戸惑う。

 ただ、教授はそれも想定内であったらしく、即座に、

「――とは言うものの、なかなか最初の一言は大変でしょうから焦らないで下さい。時間はあります」

 と、言い直した。

 そして、弥生の心を落ち着かせるように一呼吸の間を空けた後、次のように言った。

「園畑さんは美晴君から私のことを聞いていますね。彼女はそれに値する人物にしか、その話をしません。値しない方にはお引き取り頂いているはずです。そして、彼女が語ったことは全て事実です。一般的に、私は男性としての機能が欠けた欠陥品です。包茎、早漏、乏精子症、いずれも普通は大きな声で言えることではありません。ですから何か問題があった場合、貴方はその事実を周囲に漏らすことで、私にダメージを与えることが可能です。私自身は気にしませんが、社会的地位は勝手に失墜するでしょう。従って、最初に開示しました」

 なるほど、だからオリエンテーションか――と、弥生は急に納得した。

 先に自身の重大な欠点を暴露されてしまうと、弥生は自分の躊躇ためらいが馬鹿馬鹿しくなってくるし、隠し事をしていることが申し訳なくなる。最初に一気に話のハードルを引き下げてしまうのが、教授のやり方だった。

 弥生は肩の力を抜き、覚悟を決めた。

 そして聞きたいことを率直に尋ねる。


「篠島教授が手当たり次第に学生と寝ている、という噂は事実なのですか?」


 教授は細めていた瞳を少しだけ開くと、苦笑しながら言った。

「その噂のことでしたか。それにしても手当たり次第とはね」

「あの、申し訳ありません。聞いた通りをそのまま口に出してしまいました」

 弥生は慌てたが、教授には気を悪くした様子はない。

「貴方は気にしなくてもよいのです。その噂と付き合い始めてから、もうかれこれ十二年近く経ちますから、大体のことは言われました。ただ、手当たり次第というのは久し振りですね」

 教授はむしろ楽しんでいるような風情である。

「それで、真偽はどうなのでしょうか?」

 弥生が申し訳なさそうに催促すると、教授は穏やかに笑いながら言った。

「その問いに対する私の答えを正しく理解して頂くためには、いくつか美学的な講義を受けて頂く必要があるのです。それは一般の授業ではなく極めて私的な講義であり、この部屋の中で行われます。貴方は講義のいずれの段階であっても、講義の最中であっても、それを即座に中断して放棄することが可能です。この部屋の扉は、外から開けることはできませんが、中からは何時でも開きます。私は貴方の自由を保障するとお約束します――が、男性と個室で二人っきりになるという状況そのものが疑惑の元となり得る訳ですし、私が信用できない人もおりますから無理にとは言いません。その場合、貴方の問いに簡単に答えてそれで終わりとします。ただ――それでは貴方自身の苦悩が解消されません」

 ここまで一気に語り、教授は言葉を切った。

 彼の瞳は更に大きく開かれていた。

 弥生は教授が語った話を検討する。

 教授は結論だけでよければ即答すると言った。

 ここを訪問するに至った弥生自身の問題は解決されないというが、それを期待していたわけではない。

 しかし、それでも――しばし躊躇ためらった後、弥生はこう言った。


「分かりました。宜しくお願いします」


 後日、彼女はこの一言で自分が別次元の扉を開けてしまったことを知る。

 篠島教授の瞳は大きく見開かれていた。

 それは、オリエンテーションの終了と私的美学講義の始まりを告げる合図であった。

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