小夜時雨の町
雨が傘に足をおろすのを聴きながら提灯を手に町へでていく。雨の日には町の水路は誰もがきづかないうちに、碧い水に満たされているんだ。ゴンドラの唄が雨に濡れて艶やかに響いてきて、水路のうえにぼお、とした灯が揺れている。やがて水路を滑るように舟の舳先がみえて、蓑笠を背負った青蛙(せいあ)のじいさんが竿立てやってきた。青蛙のじいさんは雨降りの日に鳥たちの代わりに新聞や手紙を配達してまわる。彼は唄以外では声を発しないんだ。長い年月が彼から唄以外を奪ってしまったのだろうか?
しかし今日はまだ目醒めの鐘が聴こえてこない。鐘が鳴らないと朝がやって来ないから、どうやら誰も彼も息をひそめているみたいだ。
青蛙のじいさんが差し出してきた手紙を受け取って、歩きだしてからその潮の香りのする小封筒の宛名がナジム宛だと気がついた。もう青蛙のじいさんの歌声は遠ざかっていて、途方に暮れてしまう。よりによってナジム宛の手紙なんて。しかし、何の役目も持たないぼくにはお似合いのお使いかもしれない。
ナジムは遠い国から、ぼくたちの知らない町からやってきた青年だ。海を越えて(生まれてこのかた海を見たことはないけど、渡り鳥たちが言うには海水はしょっぱいらしい、信じられない!) ナジムは大概、歌っている。風や雨とともに、その身体を楽器にして潮の香りのする歌を響かせるんだ。町のみんながその歌声を愛している。でもぼくは彼が少し、いやかなり苦手だ。誰も彼もとうまくやれてしまうナジムはぼくと正反対だから。
広場には無数の柱が建ち並び、雨合羽を着た銀鼠たちが糸車を手にチャカチャカと忙しく走り回って柱に糸をかけて回っていた。彼らは生粋のアーティストで柱にかけた糸で、様々なものを編んでみせるんだ。遠くたかい空を往く鯨神や鳥たち、それからさらに高みにいる雲間からのぞく眼を喜ばせるために、毎日、昼夜を問わず動き続けているんだ。ナジムはいないかい? そう問いかけると銀鼠たちは妙ちくりんに鼻をひくひくさせて、顔を見合わせるとまた作業に戻ってしまった。仕方ないからぼくは歌い始める。ナジムはいつだって歌があるところにいるんだから。
お前は息をひそめ 鳥たちの目ざめや
太陽のあしおとに 耳を澄ませている
そうして
慎ましく
そっ、と
目醒めの鐘を振る
それは小鳥の囀り
それは白む空の色
それは海の小々波
それは潮のにおい
漁師たちの足おと
わたしは間(あはい)を歩みながら
お前を待っている、朝よ
あさよ、朝よ、朝よ、と声は木霊してゆき押しのけられた空気の流れが風になり、ナジムが歌い始める。そうして目醒めの鐘が町をさざ波のように朝に塗り替えていく。雨粒が空に落ち始めて雨雲は口を開けて迎えている。もう傘も提灯もいらない。手放した赤い傘も吸い上げられていく。朝が来たのだ。ナジム宛の手紙、ナジム、ナジムはそう言えばぼくの名前だ。朝と夜の間だけ、ぼくは小夜時雨の町を歩く。あぁ、小夜時雨の町からぼくらは朝には帰るのだ。たくさんの傘が群れをなして空に吸い上げられていく。銀鼠たちがシシッと笑いながら、前脚を器用に振っている。手紙になんて書かれていたのか、明日は忘れずに見なければいけないね。そして現の朝はやって来る。おはよう、ナジム。
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