第16話 笑顔

 翌日、俺が暴れた影響かどうかは知らないけれど、表だって丸に嫌がらせをする人はいなかった。

 ただ、俺と丸はどこか腫れ物のような感じになっていた。

 男子は女子とのコミュニティとはちょっと違うので、からかうように俺に話しかけてくれる奴は何人かいたけど、丸は基本的に一人。

 岡谷おかやが少し話しかけていたけれど、そのせいで余計あの噂の信憑性が上がっている感じがした。

 昨日は俺がキレて、今日は岡谷が丸に話しかける。

 これじゃあ、俺と岡谷が二股をかけられていて、どっちも未だに丸が好き。外野からするとそんな構図に見えそうだ。

 やっぱり、俺がしゃしゃり出るべきじゃなかった。

 このまま静観していれば二股なんて疑惑は消えて、岡谷と丸が付き合っているという事実だけが残るかもしれない。

 その日の昼休みが終わる頃、俺は次の授業の準備を終え、横目で丸の方を見る。

 俯いていて表情は見えないが、くせっ毛が垂れ下がっているので、落ち込んでいるのは間違いない。

 そして、なぜか制服じゃなくて、体操着を着ていた。

 次の時間は体育じゃない。

 俺は嫌な予感がした、おそらくそれは当たっている。


「丸」

「な、何?」


 俺が声をかけると、丸は小さく肩をふるわせて顔を上げる。

 近づいてみて分かったけれど、丸の髪が微妙に濡れている。


「なんで体操着着てるんだよ、次は体育じゃないぞ」


 あんまり深刻になりすぎないように、俺は冗談めかして聞いた。


「えっと、制服濡らしちゃって」


 丸がえへへと照れたように笑う。

 だけど、その笑顔はどこか陰を孕んでいる。


「濡らした? お前が濡らしたのか?」


 俺がそう聞くと、丸は何かを考えるかのように一瞬視線を泳がせた。


「そうだよ、私がバケツをひっくり返しちゃって」

「……お前は本当にドジだな」


 丸の口から久しぶりに赤い声を聞いた。

 咄嗟に考えたのかと思うと不謹慎ながら笑いそうになる。

 小学生じゃないんだからバケツなんてひっくり返そうと思ってもできるもんじゃない。

 どこのバケツとか詳しくツッコんでいけば、すぐにボロが出るだろう。

 でも、そんなことをする意味はない。

 丸が俺に知って欲しくないと思っているんだ、こいつの前では気付いていないフリをしよう。

 ただ、だからといってこのままで良いわけじゃない。


◇ 


 放課後、部活が始まる前に俺は岡谷を連れ出した。

 体育館裏まで連れ出された岡谷は、しきりに周りを見渡して警戒している。

 俺が仲間を連れてきて岡谷を痛めつけようとしているとでも思っているのか。

 俺も体育会系の人間じゃないけれど、岡谷は身長は低いし体つきも女子みたいに細い。

 一対一ならまず負けないだろう。俺に喧嘩する気はないけど、そんなことを知る由もない岡谷は必要以上に気後れしている。

 岡谷は何も言わずに緊張の面持ちで俺が口を開くのを待っている。


「単刀直入に言う。丸のイジメを止めて欲しい」


 と切り出した。


「イジメを止める……」


 岡谷はそれを反芻するかのように小さく呟く。


「あいつがイジメられてるのは当然知ってるだろ。

だから止めてやって欲しい」

「止めるって言われても、そんなことできない」


 岡谷が俺から目をそらす。


「お前がスタンスをしっかり示せばこんな噂すぐに消えるはずだ」

「僕の……スタンス?」


 俺がなにを言っているのか分からないようで、岡谷は眉根を寄せて聞いてくる。


「丸と付き合ってるんだろ?

それを言うんだ、言わないにしても周りから見て明らかだと思わせる。

例えばお前の席で一緒に弁当を食べるとか」


 それで俺が丸に関わらなければ、岡谷と丸が付き合っている事実だけが残り、俺のことは消える。

 結局のところ、その事実が曖昧だからこそ、今みたいなことが起こっていると俺は考えていた。


「そんなことできない」


 即答する岡谷。


「どうして?」


 即座に聞く。


「三井くんに僕と丸ちゃんのことを指図される筋合いはない」


 岡谷が険のある声で言う。

 気持ちは分からないでもない。

 付き合っている彼女とのことを他人にどうこう指図されたら、相当苛つくだろう。


「じゃあ、せめて江守えもりさんと話してくれ」

「どうして、江守さん?」


 まさかとは思うが、俺の頼みの意図を図りかねているようだ。


「本気で言ってんのか? こんな噂流すのは江守さん以外にいないだろ。丸へ嫌がらせして得する人間なんて一人しかいない」


 岡谷は何かを考えているかのように黙している。

 本当に気付いていなかったのか。どれだけ鈍いんだ。


「江守さんとはお前の方が付き合いが深い。

それに丸が演劇部に入った原因の一つの俺が話したら恐らく逆効果になる。

だから、お前に話して欲しい。演劇部の仲間だからこそ、かけられる言葉があるんじゃないか?」


 俺が江守さんにやめるように言ったとしても、まず聞き入れられない。

 それどころか更に悪化する危険だってある。

 俺は完全に丸側の人間だからだ。

 でも、岡谷はそうじゃない。一年から演劇部にいるんだから、俺よりは話が通じる可能性は格段に高い。


「……無理だよ」


 しかし、岡谷は沈痛な面持ちで首を振った。


「無理ってお前……。丸のことが好きなら、どうにかしてやりたいって思わないのか?

教室で一人だけ体操着を着ているあいつを見て、なんとも思わないのか?」


 俺は岡谷の両肩に手を置く。

 ただでさえ気弱な丸があんなことされ続けていたら、トラウマになるかもしれない。

 俺が双日先輩に絡まれるようになって、丸が演劇部に入って、ようやく少しずつだけど社交的になってきたのにこんなことで躓かせたくない。


「僕だって、どうにかしてあげたいとは思ってる。でも、何が正解かなんて分からないだろ!

実際、昨日三井くんがあんなに怒鳴ったから、今日丸ちゃんがあんな仕打ちを受けたのかもしれないじゃないか」


 岡谷の怒鳴り声に、俺は一瞬言葉を詰まらせた。

 昨日の一件が原因かは分からないけれど丸へのイジメが激化したのは事実。

 俺がやったことはただの自己満足だったのかもしれない。

 でも――それでも俺は見過ごせないんだ。


「岡谷の言うとおり、時間が経てば収まるかもしれない。

ただお前は自然にイジメが収まるまで、丸が嫌がらせを受け続けることになってもいいのか?」


 俺が煽るように言葉を重ねると、岡谷の顔が歪む。


「そんなこと一言も言ってない!

僕が動いて良い方向に進むならそりゃやるよ。でも、もっと悪くならない保証はないだろ!」

「それを言ったら、動いて良い方向に進む可能性だってある」

「かもしれないの話はやめてくれよ。それに下手に刺激したら……」


 岡谷はそれ以上言うとまずいと思ったのか、言葉を止めた。

 そこで、俺は岡谷がなんて言おうとしたのか察した。

 俺はふんと鼻から息を吐く。


「自分にも火の粉が降りかかってくるかもしれないか?

分かったよ、結局は保身なんだな。それなら、俺がやる」


 駄目だ。岡谷は動かない。

 それなら、俺が何とかするしかない。



 中学生二年生の頃、同級生で俺に話しかけるのは丸くらいだった。いじめられてはなかったものの、空気を読まない俺はクラスで明らかに浮いていた。

 斜に構えていたわけじゃなかった。皆が面白いと思うものをわざと批判していたわけじゃなかった。他人の意見を否定したわけでもない、俺はこういう意見だということを言いたいだけだった。

 だって、世間で流行っているお笑い芸人やドラマ、漫画。それらがどれだけ人気だったとしても、全て面白いと感じるとは限らない。だけど、少し違う意見を言った俺は空気の読めない人間であると排斥はいせきされた。

 そんな中でも丸はいつも俺に付きまとっていた。はっきり言って鬱陶しかった。

 丸には少ないながらも同性の友達がいたし、なんでわざわざ俺に構うんだろうと思っていた。


「たいちゃん、一緒に帰ろ!」

「なんで俺に構うんだ?」


 いつだったか、授業が終わった後声をかけてきた丸に俺はそう聞いた。


「どういうこと?」

「お前には俺以外に友達がいるだろ。わざわざ俺に構う必要なんてないだろ」


 丸は大きな目をぱちぱちと瞬かせて、きょとんとした表情で首を傾げていた。


「……ごめん。私にはたいちゃんが何言ってるか、よく分からない」

「だから! 俺みたいにはぶかれてる奴に話しかけてたら、お前もそうなるかもしれないだろ。お前にとって損しかないはずだ」

「たいちゃんは人と話す時、損とか得とかを考えてるの?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」


 丸の曇りのない瞳に見つめられて、俺は思わず言葉に詰まった。


「そうだよね。だって、そうだったら私と仲良くしてくれるわけないもん」

「なんでそうなるんだよ」

「私、お姉ちゃんと違って鈍臭いし……いつもたいちゃんに迷惑かけてるから……」

「そんなの関係ないだろ」

「じゃあ、私も関係ないよ。たいちゃんがはぶかれてるとかそういうのは関係ない。今までも一緒にいたんだから、これからも一緒にいる。それが理由じゃ駄目かなぁ?」

「そんなのが理由になるわけない」


 入学当初に仲良くしてくれた人達は、俺がクラスで異質な存在になるにつれて離れていった。それが当然のはずなのに、そんな訳の分からない理由で納得できるはずがなかった。


「たいちゃんは幼稚園でいつも私の手を引いていてくれた。中学受験の時に成績が悪かった私と一緒に勉強してくれた。これって、私と一緒にいて何か得するからなの? 私は何も返せていないのに?」


 そんなわけなかった。丸が俺に何も返していないなんてことは絶対になかった。

 一度だって言葉にしたことは無かったけれど、丸の存在は俺にとってかけがえのないものだった。

 星は他の星との位置関係でその星が何かを知ることが出来るという話を聞いたことがあった。どういうことかと言うと、肉眼では一つの星を見ただけではそれが何の星かは分からない。

 太陽とか月は別だけど例えばさそり座なんかは天の川の近くにあって星がさそりみたいに連なっているからさそり座だと分かる。もしさそり座を構成する星々が別々のどこかに行ってしまったら、肉眼ではそれがさそり座であったことに気付くことは出来ないというような話だ。


 それは人も同じだと俺は思った。周りの人との距離や関係性は自分を形成する一要素だ。中学でいじめられていた人が、高校でいじめられなくなったら中学の頃のように卑屈な性格から少しは明るくなるだろう。

 俺は中学生から高校生になり、少しは変わったが根っこの部分はほとんど変わらなかった。それは丸がいてくれたからだ。丸の存在が俺を俺として繋ぎ止めていた。

 中学生でクラスから浮いていた俺が、自分の在り方を大きく変えずにいられたのは丸がいてくれたから。彼女がいなかったら俺の心は折れていたはずだ。

 丸が笑っていてくれれば俺は俺でいられる。俺はその笑顔を守りたい。俺があいつのためにできる最後のことになるかもしれないから。

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