十二月二十五日

第21話 深夜ラジオとイヴの橇――0時、第九天菱号

 ずっと低い轟音が途切れない。

 十分に防音を施してある現代の巡航船キャビンでも、作り付けのベッドに身体を横たえていると巨大な船の唸りが伝わってくる。耳に聞こえないほど低く微細な震動の、無数の加算を毛布越しに感じる。対震動設計が最新ではないのは素人のしらにも予想がついた。てんりょう号はそれほど新しい船ではない。

 ともあれ、飛んでいるのだ、と思う。

 第九天菱号は今、柏森かしもり空港付近の高度約三千メートルを航行している。白音にそれを告げるのはヘッドボードのパネルに組み込まれたAMラジオだ。

 船内局のラジオ天菱は、今日は通常番組とは編成を変えて、航空事故関連情報などを流しているという。ちらほらと投稿も読まれる。天菱船内から、あるいは地上から。二十三時台からほとんどずっと喋っているせきという男性パーソナリティとは青菊あおぎくも知り合いだという。


『日付が変わりましたね。ラジオ天菱よりこの時間はせきひとがお送りしています。

 お伝えしている通り、昨日二十四日、十六時五十五分頃、第九天菱号中一階フードコートで飛来物衝突による耐圧窓破損事故が発生しました。現在、現場付近は閉鎖。該当区域の店舗は営業を取り止めています。これに伴い本日は事故関連情報を中心に、番組予定を変更してお伝えします。

 もう昨日のことになりますが、本当に大変な日になりました。皆さんどのようにお過ごしでしょうか。

 お怪我をなさった方も、そうでない方も、後から出てくる心身のダメージにはくれぐれもご注意ください。船内クリニックでは緊急対応として、今夜はオールナイトで随時ご相談を受け付けています。またネットワーク上にも窓口があります。天菱号オフィシャル情報などをご参照ください。

 船内施設の破損や不調などを発見した方も、どうぞご遠慮なくお近くのクルー、またはネットワーク上でご報告ください。こんな時、目は多ければ多いほどいいですからね。もちろん、そのために外出する必要はありません。

 こういう時は興奮して目が冴えているようでも、思ったより疲れているものです。ゆっくり、楽にして、できる限りお休みください。

 独りでいるのが怖い方は、お邪魔でなければこのままラジオを掛けておきませんか。あなたが眠れるまで、僕がここでお話しましょう。もちろん、音楽も掛けますよ。

 さてこの時間、連絡船バスターミナルは緊急船を除き全路線がクローズしています。下界悪天候と同時に、天海上でも他の巡航船からの機材繰りがつかないため、明朝の運航再開予定は今のところ白紙のままとなっています。また天菱号自体の着岸予定も不明。何か決まり次第、情報が入ることになっていますのでお伝えしたいと思います。

 ……明日、せめて一度、鴬台おうだいには降りられるといいんですけどねえ。天菱、普段なら天気が悪くても母港の鴬台には降りたがるのに昨日は朝からだめでしたね』


 穏やかな声の向こうで、なぁお、と別の小さな声がする。また少し近づいて、なあ、という。この十分ほどラジオを聴いていて白音はもう事情を飲み込んでいる。ラジオ天菱のスタジオには本当に猫がいるらしいのだ。汐というこのパーソナリティは、猫をちはやさんと呼んでいる。


『はいはやさん、僕の手あむあむしないで。おいしいの? なんか今時分になってから元気なんですよね。猫は夜行性だねえ。

 そうそう、番組サイトに今日の千早さんの写真が上がってないけど大丈夫か、というお問い合わせを複数いただいておりますが、ファンの皆さんご安心ください、千早さん元気です。怪我もありません。人間のほうがバタバタしてしまって更新できてないだけです、すみません。ああ、今更新した?』


 穏やかに笑っているような汐の声。その向こうに、何時間か前に会ったばかりの妹の友人の声がする。

 ほんかいといった。青菊と同じ十七才で、ラジオ局でバイトしていると言っていた。


『当ラジオ天菱の優秀なバイト、お馴染みカイくんが黒猫写真を大量更新したようですよ。え、百枚以上あんの。なんでそんなに撮るの?』


 ほんとに黒猫なんだ、と白音は毛布の中で寝返りを打ちながらラジオを聴く。青菊から聞いた話では、千早という猫はこの天菱号の守り神。ラジオのスタジオやスタッフがお気に入りで、いつも放送を通じて鳴き声が聞けるという。


『……本当ならこのクリスマスイヴ、静かにゆったり過ごす予定だった方も多いでしょう。丸一日以上の雪閉せっぺいと事故で一切合切予定が飛んだという投稿、たくさん届いています。どうにもなりませんよね、動けないもんねえ。船の機能に支障が出ていないのが不幸中の幸いですが、まあ人には会えないしクリスマスなのにお届け物も届かないし。でも困るのは冠婚葬祭の予定があった方ですよね』


 にゃあ、と猫が返事をしている。

 冠婚葬祭。ああ、もし昨日、青菊が死んでしまっていたら。

 妹の遺体と夜の空で過ごし、雪閉が解けて地上に降りられるようになるのを待ちながら葬儀までの段取りをしなければならなかったとしたら。

 でも実際には青菊は、片腕を吊ってはいるものの自分の足で歩き回り自由にものを見て喋り、白音たちと一緒にサラダやパエリアを食べてジャスミンティーを飲んだし、デザートのシナモンロールまで食べた。生きている。

 生きていてくれた。

 怖かったな、と思う。鴬台からあの珍しい飛行機に乗って天菱号まで来て、青菊がとりあえず元気だと分かるまで。

 妹にまったく大人げない態度を取り続けたまま死なれてしまう、と思った。冷淡で反りの合わない、無関心な姉だと思われたままになってしまう。それ自体、自分の気持ちしか考えていないようなものでやはり考え方としてかなり酷いのだけれど、それにしてもともかく、本当は妹にいなくなってほしくなんかないのだと強く思った。

 実際に、相性がとてもいいとは言えない姉妹だろう。それでも、もう少しやりようはあったはずなのに。もし青菊が生きていてくれたら、改善していける可能性があるのに。

 未来さえあれば。

 時間さえあれば。

 それから、自分が少しでも、意志の力で変われたら。

 変われないまま青菊をうしなうのだとしたらそれは自分が愚かなせいだと思った。二度と会えないと思うとこんなに後悔が滲み出してくるとは思わなかった。滲み出してくるなんて生温いものではない。それはほとんど津波のような破壊だった。心の中がたちまち瓦礫になる。全てが乾いた泥に覆われて色を失う。そしてもう決して元に戻らない。どんな風に回復したとしてもそれは、前と同じ世界ではあり得ない。

 鋭児に青菊本人から返信があったとき、白音は、世界がまだ続いていた、と思った。心からほっとして、停まっていた血の巡りが戻り温度を感じた。

 そんなに心配していたか、と自分自身に驚きもした。

 この夕方から一体どれだけの人が同じ気持ちを味わったのだろう。短時間とはいえ天菱は、一時、外部の一般ネットワークから断絶した。見えないということは、事情が分からない外部から見れば消失に等しい。

 早合点した地上の誰かが、天菱が墜落し行方不明だ、とネットワークに書き込んでその噂が野火のように広がったということが後になってから分かった。実際には一般ネットワークとの切断中も非常用のホットラインは生きていてシップは地上と緊急連絡を取っており、ラジオ天菱もAM波をライヴで発信し続けていた。

 ラジオを聴き慣れた船外リスナーたちは、ネットワーク上に天菱がいなくなったことを検知するや否やラジオのチューニングを合わせてラジオ天菱を聴取、その内容や聴取可能地域から推定される航行位置を逐一実況して天菱の健在を伝えていたのだが、往々にしてネットワーク上の噂というものはよりショッキングな内容で手軽な短さの情報であるほど強く速く拡散する。噂の発生から一時間後にはもう、聴取できるラジオ天菱は事故隠蔽のためにあらかじめ録音されたものを流しているのだとか、非公開の船外スタジオから放送して無事を装っているらしいとか、様々な都合のいい物語を添加した上塗りの噂が出回っていた。

 白音はそのことを、マネージャの緒方から届いたメッセージで知った。心配性の緒方のために白音は、鋭児と青菊が一緒に写った写真をタイムスタンプと位置情報つきで送ってやったほどだった。

 ひとたび事故となったらこんなに大変な巡航船に、それでも青菊は住みたかったのか。実際、青菊は怪我人が出たことやたくさんの店に被害があったことを心配してはいるが、この事故があったことで巡航船暮らしに不安を抱いたり地上に戻りたがったりしている様子は全くなかった。他の客分船員たちも案外落ち着いているのは、居住開始前からこうした航空事故等の研修を受けているためだという。

 むしろ私は動ける方だから明日からはクルーを手伝いにいく、とさえ青菊は言ったのだ。まるで当然といった様子で。


――同じ船に乗ってるんだから、何かあったらできる限り協力し合うルールになってるんだよ。


 青菊って、そんな子だっただろうか。いや、それもやっぱり、あたしがこれまでよく見ていなかっただけなのだ、と白音は思う。こっちが勝手に、表情が薄くて何を考えているか分からない子だと思っていただけで。


――客分船員には定期的に講習会があって、船内の設備のこととか、非常時の動き方とかみんなで習うの。もしプロパーのクルーが全滅しても、客分船員で少しは何とかできるように。私たち、自分の住んでる家にはきちんと貢献するって条件でここに住んでいるから。


 パエリアを取り分けながらそう話した妹は、何だか拍子抜けするくらいちゃんとこの船の共同体に参加していて、まるで学校や寮の話を聞くみたいだと白音は思った。青菊に帰属集団がある。一緒に住んでいた頃の青菊は学校や友達の話をほとんどしなかったから、姉妹になって十七年、青菊から『仲間』の話を聞くのは恐らくこれが初めてだ。

 青菊はただ地上から空に出ていっただけだと思っていた。街から荒れ地や山奥に引っ越して孤独な暮らしをしているくらいの感覚でいた。それは自分の方に想像力が足りなかったのだ。青菊はこの船の共同体に属し、その一員として役割を果たそうという気持ちを持ってここに住んでいる。あの妹が集団に受け入れられると想像すらしていなかった自分が酷いのだと思う。

 いつの間にか、ラジオからは古いヒットソングが流れている。大人でも優しく抱き上げて揺さぶってくれるような、静かでスロウな歌。シップは天海の夜を進んでいる。時々ぷつんとノイズが乗るのはどこかで雷があったしるしなのだといつか習った。

 今夜は、なんという夜だっただろう。

 聞いたこともない店の持ち帰りメニューでアルコールもなしにクリスマスイヴを過ごすなんて本当に久し振りのことだった。携帯端末ワンドで友人たちの通知やメッセージに気を付けることもせず、日頃から半身を浸しているに近いネットワークから離れてただ生身の家族と本物の食べ物だけを相手に何時間も過ごした。自分にそんなことができるとは思っていなかった。ファンやフォロワー向けにイヴのメッセージと写真を発信することも忘れていた。正確に言うと、途中で思い出したのだが緒方に連絡して任せ、自分では何もしなかった。

 ただ、目の前にあるものだけが大事だと感じていたからだ。

 ラジオでは曲が終わり、CMが入り、それが開けるとまた汐の声が流れ出してくる。


『……メッセージありがとうございます。ラジオネーム地獄温泉たまごさん。……』


 同僚が負傷して別のシップに移送されたという投稿が紹介されている。投稿者は古参の客分船員のようだ。聞くともなしに聞いていたそのメッセージが、白音の心に印象を残した。


『……この雪閉と事故で船外からの配達も滞り、クリスマスプレゼントも全然指定日に届かない状況ですが、こうなってみると命があることが何より有り難いし、本当に欲しいものは安全な航行や傷付いた人たちのための医療物資です。とにかく、誰も死なずに済んだというのが最も嬉しいニュースでした。恐らくサンタクロースは、一番大きな贈り物を夕方のうちに私たちみんなに配ってくれたのでしょう』


 クリスマス。

 プレゼント。

 欲しかったものは。

 このイヴの夜に、最も強く望んだものは。


 ことによると自分は今、サンタクロースのそりの上で寝ているのか、と白音は思う。


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